映画『母との約束、250通の手紙』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2020年2月12日(水)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、17:50~鑑賞。

「母との約束、250通の手紙」(1)

作品データ
原題 La promesse de l‘aube
英題 Promise at Dawn
製作年 2017年
製作国 フランス/ベルギー
配給 松竹
上映時間 131分


仏の文豪ロマン・ガリ(Romain Gary、1914~80)の自伝小説“La Promesse de l'aube”(1960)(岩津航訳『夜明けの約束』共和国、2017年)を映画化。激動の時代に女手一つで息子を育てる母親の息子に懸けるあまりにも大きな期待と、そんな母への葛藤を抱えながらもその大それた夢を叶えることを諦めずに懸命に生き抜いた息子の姿を描く。主演は『イヴ・サンローラン』『婚約者の友人』のピエール・ニネと『アンチクライスト』のシャルロット・ゲンズブール。監督・脚本は、『ラスト・ダイヤモンド 華麗なる罠』のエリック・バルビエ。

ストーリー
その手紙は5年間、毎週届き続けた。戦地で戦っているときも、生死をさまようときも。その文面にどれほど勇気づけられただろう。どれほど生きる情熱をもらっただろう。しかし、その250通にも及ぶ手紙には、思いもしない数奇な秘密が隠されていたのだった…。

1950年代半ば、作家にしてロサンゼルスのフランス総領事であるロマン・ガリ(ピエール・ニネ)は、妻のレスリー・ブランチ(キャサリン・マコーマック)とメキシコ旅行に来ていた。頭痛を訴えながらも、『夜明けの約束』と題した小説の執筆を止めようとしない夫に、妻が内容を尋ねる。すると、夫は「証しだ。母についての本だ」と返すのみだった。

記憶は作家の幼少期にさかのぼる。1924年、ヴィリニュス(ポーランド)※❶。雪深い通りを学校帰りのロマン(パウエル・ピュシャルスキー)が歩いていると、雪煙の奥から一人の女性が待ち構えたように現われた。ロマンの母ニナ(シャルロット・ゲンズブール)である。今日の学校の様子を振り返って、さえない顔をする息子を見るや、彼女はおなじみの言葉を繰り返す。「先生たちはわかってない。お前は将来、自動車を手に入れる。フランスの大使になる」。まるで呪文を唱えるような、でも、どこか確信を得ているかのようなその言葉。ニナにとって、息子ロマンは人生のすべてだった。ロマンにとってもまた、母の存在はあまりに大きく、その夢を語る声も絶対であった。
暮らしは豊かではない。モスクワから流れてきたユダヤ系親子を街の人間はさげすみ、盗人扱いまでする。なんとか高級服飾店を興したニナは、息子にヴァイオリンを習わせ、社交界に出るための教育まで施した。将来の展望は明快。絵に興味を持っても、「画家はダメ。死後に名前を残しても意味がない」。けれど、文学への関心には「お前はトルストイになる。ヴィクトル・ユゴーになる」と、目を輝かせて後押しした。

1928年、破産したニナとロマン(ネモ・シフマン)は、ニース(フランス)へ転居する。母は高級ホテルの店舗経営に乗り出し、息子はお手伝いのマリエット(Lou Chauvain)との初体験を母に邪魔されたりするものの、概して穏やかな日々を送っていく。
高校を卒業したロマン(ピエール・ニネ)は、パリの大学に進学。一層、作家活動を活発化させていく。早く名を上げなければと焦る背景には、ニナの糖尿病罹患があった。グランゴワール紙に短篇「嵐」が掲載されたのは1934年のこと、フランス国籍を取得したのは翌35年7月のことだった。

戦雲が濃くなった1938年3月、ニナは一時帰省したロマンにヒトラー暗殺を進言する。一方、ロマンは同年11月4日、フランス空軍に入隊し、母を喜ばせた。しかし、40年6月、フランスはドイツに屈服。同時期にニナの入院も明らかになる。病院へ訪ねてきたロマンにニナはド・ゴール准将指揮下の「自由フランス軍」への合流を勧めるとともに、「小説を書き続けなさい」とも訴えた。合流が果たされた頃、病床の母から最初の手紙が届く。そこには「心を強く持ち、断固として戦い続けなさい」とあった。
ロンドンでは待機の日々が続き、不満を募らせたロマンはポーランド兵と決闘まがいの事件を引き起こし、逮捕される。刑務所の中でニナの幻影が現われて、ロマンを叱咤した。「何か月も1行も書いてないね。書かずに、どうやって偉大な作家になるの?」。
アフリカに赴任したロマンは、母の声に背を押されるように長編小説『白い嘘』の執筆を始める。蚊に悩まされて放り込まれた独房にも、母からの手紙は続々と届いた。「愛する息子よ、美しい物語を書きなさい」「私のことは心配いらない。勇敢な男でいなさい」。
1942年、リビアに転任したロマンは、腸チフスで危篤状態となる。深夜、ロマンの目の前にニナの姿が現われた。母はいつもどおり息子に発破をかける。「世界中で読まれるから、早く書き上げなさい」「病気が何?モーパッサンは梅毒でも書き続けた」「勝利するまで闘いなさい。死ぬのは許さない」「ニースに戻ったら、ふたりで海沿いの遊歩道を歩くんだから」。そして、眠りにつく息子の額に、母は優しくキスをするのだった。
1943年8月、イギリスに戻ったロマンは、航空士として爆撃機に乗り込む。搭乗席にはいつも母の写真を置いていた。母からの手紙は続いている。「息子よ、何も心配せず、書き続けて。お前は必ず勝つ。そう育ててきたんだから」「お前の才能は世界に知られる」「お前を誇りに思います。フランス万歳」。
過酷な出撃を繰り返しながらも、ロマンは母親の言葉に勇気をもらい、『白い嘘』は着々と完成に近づいていた。

1944年のある日、記者団がロマンを取り囲んだ。書き終えた『白い嘘』のイギリスでの出版が決定したのだ※❷。その旨を早速、ニナに知らせるロマンだったが、届いた手紙には「お前は大人。もう私は必要ない」「早く結婚しなさい。お前には女性が必要」「私は元気だから大丈夫」などと型通りの激励が書かれているだけ。本についての言及がない。
1945年、戦場での活躍で解放十字勲章を受章したロマンは、再び母の奇妙な手紙を受け取る。「離れて何年も経つね。帰宅したとき、お前が私を許してくれますように。全てお前のため。ほかに方法がなかったの」。
再婚でもしたのかと故郷へ急いだロマンは、ホテルが既に閉鎖され、別人の手に渡っていることを目の当たりにして愕然とする。慌てて病院へ向かうと、主治医からさらに驚くべき事実を知るのだった…。

※❶ ロマン・ガリは本名をロマン・カツェフ(Roman Kacew)といい、ユダヤ人の両親のもと、1914年にヴィリニュス(リトアニア語:Vilnius)で生まれた。現在はリトアニアの首都だが、当時はロシア帝国領(ロシア語:Вильна〈ヴィリナ〉)だった。父親アリエ=レイブ・カツェフ(Arieh-Leïb Kacew、1883~1942)はロマンの生後まもなくロシア軍に入隊し、ロマンは母親ミナ(Mina〈仏語風にNinaとも綴られる〉、1879~1941)と二人きりで暮らすことになる。その後、父親はロマンとともに暮らすことはなかった。ロマンは母親と“革命”直後のロシア国内を転々とし、1920年代にヴィリニュスに戻ってくる。町はポーランド領となり、ヴィルノ(ポーランド語:Wilno)と名前を変えていた。ここでポーランド語による初等教育を受けたロマン少年だが、フランスを熱愛する母親は、息子にフランス語の家庭教師をつけた。1948年に14歳でニースに移住した際に、すぐに現地の中学校に適応できたのは、そのためである。

※❷ ロマン・カツェフは1944年、戦地で書いた長編小説“Éducation européenne”(=「ヨーロッパの教育」/邦題『白い嘘』〈角邦雄訳、読売新聞社、1968年〉)の英訳“Forest of Anger”を、戦場でのコード・ネーム「ロマン・ガリの筆名で発表(ちなみに、51年に姓が「カツェフ」から「ガリ」へ公式に変更される)。「ガリ」はロシア語で「燃えろ」という命令形に相当する。45年、“Éducation européenne”のフランス語版が刊行され、批評家大賞を受賞。


▼予告編



メイキング映像



ピエール・ニネ(Pierre Niney、1989~) オフィシャル・インタビューCinema Factory -interview/2020-01-28) :

――エリック・バルビエ監督の作品に関わる前に、小説「夜明けの約束」のことはご存知でしたか?
僕は、「夜明けの約束」をはじめ、彼のその他の作品を読んだことがあった。でも映画の準備として読み直した時、ロマン・ガリの作品で再発見があった。独特の独創性があって、知性で読者を驚かせるんだ。僕はガリのユーモアが大好きなんだよ。彼は、自暴自棄なものの言い方をすることは決してない。彼のそのユーモアが、彼の人生のドラマであり、同時に彼の作品の出どころでもあるんだ。ガリにはいつの時にも笑いもドラマも絶望もふんだんにある。僕は、「夜明けの約束」を通して、自由と人権の国であるフランスに対してロマンと母親が抱いていた無条件で立派な愛を再発見した。その意味で、この本は絶対的に現代にも当てはまる。ユダヤ系ポーランド人が迫害を受けて自国を後にし、フランス人になることを必死で目指す物語だからね。彼は文字通り戦ってこの夢を実現させ、20世紀で最も偉大なフランス人作家の一人になるんだ。

――ロマン・ガリの役を演じないかという誘いがエリック・バルビエ監督からあったとき、まずどんなことを思いましたか?ガリが小説の中で作り上げるこのキャラクターをどのように表現しましたか?
僕は「夜明けの約束」からの鮮明なイメージを覚えていた。最初に読んだのは僕が10代のときだったんだけど、その時点でこの作品は映画的だと思った。でも僕にとって最も説得力があったのは、作品全体を通して伝わってきたエリック・バルビエ監督の情熱だった。彼はもう何年も前からこの映画を作りたいと思っていた。この類い稀であり、国境を超える絆で結ばれたこの母子を描きたいと思ったらしい。僕には、役に関して先入観はなかった。でもロマン・ガリの人生について知るに従って、仕事と人生という彼の二重のアイデンティティーに惹かれたんだ。『母との約束、250通の手紙』 は、紛れもなく自伝なんだけど、現実を大きくも小さくも変えて作り上げたという要素を含むんだ。だからそれは、脚色の過程と監督の目を経たガリの役を僕が作りあげるということを意味した。だからロマン・ガリを演じるというよりも、エリック版の人物を発見することだったんだよ。

――小説を読んでも映画を見ても、観客の頭から離れない問いが一つあるんです。それは、ロマン・ガリの母親のような親を持つことは祝福なのか、呪いなのか、ということです。あなたはどう思いますか?
難しい質問ですね。ここで答えられるほど簡単な質問ではないと思う。二人の絆はとても強力で、狂気じみていて、情熱的で、破壊的であると同時に建設的でもある。その絆がガリの真髄なんだ。これがあるから「夜明けの約束」はきわめて重大で啓示的な本なんだよね。それは、ロマン・ガリのような作家の深いところにある欲望がどこから派生しているかを語っている。彼の生命力もだ。確かなのは、彼を真の意味で比類ない人物にしたのは、彼の母親だということなんだ。普遍的な視点から見たら、僕らはみんな親から、特に母親から受け継ぐのだということをこの物語は伝えているんだと思う。それはいい面もあるが、辛い面もある。「母親の愛で、人生は、夜明けに守れない約束をする…」というこの引用の中に全物語が入っているんだ。

シャルロット・ゲンズブール(Charlotte Gainsbourg、1971~) オフィシャル・インタビューCinema Factory -interview/2020-01-28) :

――ニナ役を演じないかとエリック・バルビエ監督から誘いが来た時点で、小説「夜明けの約束」のことはご存知でしたか?
いいえ。ジーン・セバーグとの関係しか、ロマン・ガリについては知らなかった。だから、この映画の脚本で初めて「夜明けの約束」を知ったの。物語の規模の大きさに心を動かされたわ。エリック・バルビエの脚本に夢中になった。後になって小説を読み終わってから脚色作品の量を考えてみて、初めてエリックがどれだけ原作に忠実に書いたかが分かったの。最初はロマン・ガリのことをあまり知らなかったから、心配や緊張なしで、比較的軽い気持ちでこの作品に関わり始めた。参考文献を読んでもまだ圧倒されなかったのね。

――あなたが演じる役をどう理解しましたか?
エリックはあらゆる資料を見せてくれた。ニナの写真すべてを見たし、彼女の軌跡を徹底的に調べたわ。彼女が子ども時代を過ごした町についてとか、彼女の人生の他の時期についても。でも分かるものは少なかった。実際には自分の祖母を思い出すことで、ガリの母親のキャラクターを自分のものにしたの。私はニナと、私が捉えたニナの姿と、父方の祖母の姿を合わせたのよ。例えば私が想像したニナのポーランド語訛りは、私がよく知っていたロシア語の訛りに似ていた。ニナと私の祖母という二人の女性は、同じ世代の人間で、同じ世界出身、同じ文化を持っているの。私の祖母は、ニナほど面倒な人ではなかったけれど、それでもとても強い性格だった。祖母の私の父に対する関係とニナと息子との関係は明らかにそっくりだったわ。私は祖母の思い出を用いて、自分自身の物語を想像してみたの。もちろん違うところもたくさんあるけれど、基本的なところは共通点が多かったわ。私の父はフランス生まれで、東欧に行ったことがないのに、自分のルーツに関してはノスタルジアを抱いていて、それが幼い私にもうつったの。特に宗教的なことは考えないで、ユダヤ式伝統に根を下ろしている、なんていう事実もね。私の父は1917年にロシアを後にした。父は、彼の親がロシアを去った時のことをとてもロマンチックに話すのよ。「革命から逃れてフランスに避難した」ってね。私は新聞で読んだ作り話を思い出すの。父と祖母が戦争の話をしていると、それは冒険物語みたいで。私は13歳ごろまでそんな話を聞いていたのよ。

――あなたはご自分の祖母のイメージをニナの役に反映させたということですか?
だから訛りは大事だったのよ。エリックに、ニナに訛りをつけることを提案したんだけど、彼は大反対だった。でもニナに訛りがないなんて考えられなかった。少なくとも、訛りの名残はあるはずだって思った。一部の場面でこの女性がポーランド語を話しているのを見たら、彼女が別の場面でフランス語を話しているときに、パリ訛りで話すはずがないのよ。私はその考えを慎重にエリックに分かち合ったわ。そうしたら彼は納得してくれたの。だから役作りは、ポーランド語とポーランド訛りのおかげで完成したのよ。結果は大成功。信憑性があるわずかな訛りというか、かすかな訛りが聞こえて、今となってはなくてはならないものなの。
前の仕事でポーランドで撮影しているときに、エリックが来て、最初の衣装を作ってくれた。ところが鏡で自分の姿を見て、何かがおかしかったの。ニナの姿ではなかったのよ。私の顔つきが全く合ってなかった。ガリの母親が送ったような人生を生きている女性には見えなかった。もっと苦しみを背負っているように見えなければいけなかったし、体重も増やさなければいけなかった。ダメージを受けた感じで、歳を感じさせることを恐れてはいけないと思ったの。私はありとあらゆるものの助けを借りたわ。衣装、メーク、ウィッグ、補綴などね。また偽のお尻と胸を使ってみることにもした。人生で初めて仮面をかぶっているような気持ちがしたわ。完全に変身して、女優として演技をすることができた。それによって自由を感じて、できる限り自分とは違う人物になることはとても楽しかった。

――ニナというキャラクターについてはどう思いますか?ニナと息子のやり取りを見ていると、彼女のような母親を持つことは呪いなのか、それとも祝福なのか、と考えずにはいられないのです。
その疑問は私も持ったわ。私は、この母親をとても愛しているんだけれど、同時に呪いでもあると思う。彼女は彼の肩に重荷を背負わせるわけだから。いつもが試験なのよね。でも彼女は彼にすべてを与える。彼女のおかげで彼は強さや、生きることに対する欲求を身につける。でも私は彼女を批判しない。彼女は重荷であって、負担であるのは確かね。でも私は最高級の愛を感じようと試みたの。彼女が息子に対して抱いていた情熱をね。頑固な彼女の滑稽な側面と同時に、彼女が持っていた運命という強烈な概念をちゃんと表現するのはとても難しかった。ニナは滑稽であると同時に、哀れでもある…。
この役を演じるのはとても楽しかった。滑稽な要素にはとても共感できたの。私の祖母もユーモアのセンスがあって、それはとても独特で、ニナのユーモアとはそんなに違わなかった。私は自分の歴史を取り入れた時が多かった。ガリのことではなく、私の父や、私の家族のことよ。そんなふうに自分を巻き込まないといけなかったの。ニナが何かを隠していると感じられる時がある。彼女は結構分かりにくいキャラクターだから。彼女のことはあまり分からないの。息子に対する彼女の執念は彼女だけのものみたいなんだけど、それが彼女のキャラクターの本質的な部分を提供してくれる。彼女のモンスター的な側面のこともエリックから聞いていたわ。生命力と節制のモンスターよ。

私感
私は当初、本作の鑑賞を少々敬遠していた。事前の予備情報(予告編等)段階では、この映画が描くのは一見<母親の夢を実現させるべく奮闘する息子の物語>とはいえ、その実<ウルサイ教育ママによるヒステリックな子育ての物語>と思えたからだ。
しかし、本作に出演のピエール・ニネの存在が気にかかって思い切って鑑賞。2年余り前に観た『婚約者の友人』本ブログ〈December 21, 2017〉における彼の貴公子然とした独特の風貌に、私はどことなく惹き付けられていた。

結論的に言えば、母と子の“普遍的な”関係性について、大いに考えさせられたという点で、私にとって本作は見応えのある映画だった―。

何という破天荒な母親か!女手ひとつで息子を育て、周囲からの蔑視、貧困に対して攻撃的なまでの姿勢で立ち向かう。お金を稼ぐためなら、詐欺まがいの商売もへっちゃら。ツケを踏み倒そうとする富豪夫人には屋敷へ乗り込み、罵倒も辞さない。すべては、息子との生活を守るため。息子に最良の教育を施すため。息子は将来、フランスに出て大物になる。大作家になって世界的に有名になる。そう信じてやまない。それでいて、そんな息子への愛情と信頼を、単なる甘やかしに終わらせない。息子がつまらない町娘に引っかかっていると知るや、「あんな小娘なんか忘れなさい。大使になれば世界中の美女が寄ってくる」。街の子供たちにいじめられて帰宅するのを見るや、「男が戦う理由は3つだけ。女、名誉、フランス」、「今度、母さんが侮辱されたら、担架に乗って帰ってきなさい」、「母さんを守ることに命をかけなさい」などと一喝する。戦地までも毎週のように手紙を送り、いかなる時にでも小説を書けと叱咤激励を飛ばし続ける。

母一人の夢でもなく、子一人の夢でもない。親子二人、二人三脚で年来の夢を追いかけていく。戦争中でも、生死をさまよう時でも二人は夢を追いかけた。
どんな状況下であろうと、互いの存在だけを頼りに生き抜いた親子。母は何があっても息子を愛する~無条件で完全に息子を支える~と約束した。そして、そのお返しとして、息子は成功して有名になることを約束する。二人はどうして、そこまでお互いを強く信じ合い、行動できたのか。

ニナは戦地に赴いたロマンに、長いことずっと手紙を送り続けた。ロマンが作家活動を開始した後も、その文壇デビューを喜ぶ様子もなく、ただただ手紙を送り続ける。その250通にも及ぶ手紙に秘めた彼女の想いとは…?

母と一緒に目標としてきた“作家になる”という夢を実現したロマン。しかし、その夢を果たしてもなお、相変わらず母から送られてくる型通りの激励の手紙。そして、ついに戦争が終結したことをきっかけに、ロマンは母がいるニースへと戻る。しかし、そこで待ち受けていたのは“母の死”にほかならなかった。病や老いを重ねていたニナは、ロマンの帰国の約3年以上も前に亡くなっていた。どこまでも息子との夢を叶えるべく彼女は生前たくさんの手紙を書き残し、それらを彼女の友人に息子のロマンへ送るように託していたのだった―。

私はつくづく思う。母親のニナは、支配的なモンスター・マザーだったのか?それとも、怪物的というより極めて人間的であることに純粋な、自己犠牲の精神にも満ちたシングルマザーだったのか?正直言って、本作に見入りながらも、ニナの正体-生命力を見極めることができなかった私。今はただ、前掲インタビューにおける、シャルロット・ゲンズブールの言葉:「私は最高級の愛を感じようと試みたの。彼女が息子に対して抱いていた情熱をね。」、また同じくピエール・ニネの言葉:「二人の絆はとても強力で、狂気じみていて、情熱的で、破壊的であると同時に建設的でもある。」を、謙虚に受け止め、じっくりと噛み締めるばかりである。

下矢印 ところで、本作エンディング(本編後)に、実際の(原作者)ロマン・ガリのその後、女優ジーン・セバーグ(Jean Seberg)との再婚と離婚の経緯、またペンネームÉmile Ajarによる2度目のゴンクール賞受賞や、1980年の自殺の事実が告げられる※。

ロマン・ガリは一作家につき受賞1回に限られるゴンクール賞(Prix Goncourt=フランスで最も古く権威ある文学賞)を2度受賞した唯一の作家。1度目は1956年にロマン・ガリ名義の“Les Racines du ciel”[岡田真吉・澁澤龍彦共訳『自由の大地―天国の根(上・下)』人文書院、1959年]で、2度目は1975年にエミール・アジャール(Émile Ajar)名義の“La Vie devant soi”(荒木亨訳『これからの一生』早川書房、1977年)で受賞。それというのも、ガリとアジャールが同一人物であることは、彼が自殺した翌81年まで公表されなかったからである。

私が一驚を喫したのは、あのジーン・セバーグ(1938~79)の(二人目の)夫がロマン・ガリだったという事実ビックリマーク本作の鑑賞を終え、まっすぐ帰宅した直後、大急ぎで種々の情報に飛びついて、<セバーグとガリ>の関係をあれこれと調べる私だった!

米国アイオワ州出身のジーン・セバーグは、私の映画鑑賞史上、今なお忘れがたい女優の一人である。彼女の出演作で私が初めて接したのが、『悲しみよこんにちは(原題:Bonjour Tristesse、監督:オットー・プレミンジャー、共演:デヴィッド・ニーヴン/デボラ・カー/ミレーヌ・ドモンジョ、日本公開:1958年4月29日)。フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan、1935~2004)の同名小説を、セバーグ主演(17歳の少女セシル役)で映画化した青春ドラマ。たしか中学生の時、ジャンヌ・モローの主演作『死刑台のエレベーター』(cf. 本ブログ〈May 21, 2019〉)と前後して、同作を観たように思う。
評判の映画少年だった私は、不思議な美しさを放つ魔性の「熟女」モローに妙に惹かれる一方、何かモローとは異質の、チャーミングで清楚な感じの「美少女」セバーグにも心をときめかせた。そして続いて、ヌーベルバーグの記念碑的作品『勝手にしやがれ(原題:À bout de souffle、英題:Breathless、監督:ジャン=リュック・ゴダール、共演:ジャン・ポール・ベルモンド、日本公開:1960年3月26日)に主演したセバーグの、その若さに輝く胸に染み入るような美しさにゾッコン参った私!ここにヌーベルバーグの寵児として、米仏を行き来する国際女優セバーグこそ、映画狂の私にとって特別な掛け替えのない存在となった―。

ジーン・セバーグの場合、フランスはもとよりアメリカ国内でも人気を博する女優でありつつ、“活動家”としての顔も持つ人物だった点が注目される。私自身は70年代前半に、彼女が人種差別反対運動に積極的に加わり、臆することなく政治的発言を続ける、“正義”のために立つ女優であることを、人づてに聞いていた。

セバーグは早くから公民権運動や反戦運動に共感し、「全国有色人向上協会」(NAACP)やブラック・パンサー党(BPP)を支援(資金提供)したため、当局FBI(連邦捜査局)の監視対象となる。当時、FBIは活動家や共産党、有色人種や女性の団体を危険視しており、スパイ活動や盗聴、違法行為によって個人・団体を攻撃する「コインテルプロ」(COINTELPRO、Counter Intelligence Programの略)なる活動を実施していた。度を超したFBIの監視~尾行・盗聴・嫌がらせ等~によって、セバーグの神経は徐々にすり減っていく。1969年に彼女が子供を妊娠すると【実は、この妊娠時の子供が62年に結婚したロマン・ガリとの間の第二子だった点を、今回(本作鑑賞後)私は初めて知った次第!】、FBIはそれに乗じて「セバーグが妊娠しているのは夫との子ではなく、ブラック・パンサー党の活動家の子だ」とのデマを流布した。そして、そのデマ/ゴシップが何と『ニューズウィーク』や『タイム』、『ロサンゼルス・タイムズ』といった“まっとうな”メディアにまで載ってしまう。翌年、セバーグは心労から女児を早産、ニーナと命名するが、2日後に赤子は死亡。その際、父親についての噂を否定しようとアフリカ系の特徴は見られない赤子の写真を提示した記者会見を行なうほど、セバーグはひどく精神的に追い詰められていた。その後、彼女は深刻な鬱病患者となり、1979年9月8日に遺体となって、パリ郊外に路上駐車された自家用車ルノーのバックシートから発見される。
「ヌーベルバーグの女神」 と謳われたセバーグは、自殺か他殺かはっきりしない変死を遂げた(40歳没)。検視による結果死因は、アルコールと睡眠薬(バルビツール)の大量摂取。遺書めいた手紙~「Forgive me. I can no longer live with my nerves.(ごめんなさい、私はもうこの精神状態では生きられません)」~が見つかり「自殺」と発表されるが、自殺としては動機が不明。血中の異常なアルコール濃度と睡眠薬の関係。下着さえつけずに全裸で死んでいた不自然さ。死後数日たって発見されたのに、死体の乗っていた車が直前に動かされていたこと等々、謎は多い。【当時はもとより、40年経った今も、事の真相は定かでない。

ジーン・セバーグの死に際し、70年に離婚して前夫となっていたロマン・ガリは、FBIによる印象捜査を強く非難し、ジーンとの間の子供ニーナの命日である8月25日に彼女が何度も自殺しようとしていたことを語った。そして彼自らもまた、ジーンの死の翌年12月2日、パリの自宅で拳銃自殺という最期を遂げている。遺書の冒頭には「ジーン・セバーグとは何の関係もない」と書かれていたが…。

突然の謎の死を迎えた“伝説の女優”ジーン・セバーグ。彼女の全体像は今もなお、我が胸のうちに消えがたく残っている。

▼ cf. 『悲しみよこんにちはEnding
【Final Lines:So here I am surrounded by my wall of memory/I try to stop remembering but I can't.../And so often I wonder, when he's alone, is he remebering too?.../I hope not.|Music:Bonjour Tristesse(English Version)by Juliette Grecó ―このラストは私にとって永久(とわ)に忘れがたい場景である!】


▼ cf. Tribute to Jean Seberg



▼ cf. Movie Legends - Jean Seberg