映画『1917 命をかけた伝令』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2020年3月19日(木)吉祥寺オデヲン(東京都武蔵野市吉祥寺南町2-3-16、JR吉祥寺駅東口徒歩1分)で、17:05~鑑賞。

「1917 命をかけた伝令」⑵

作品データ
原題 1917
製作年 2019年
製作国 イギリス/アメリカ
配給 東宝東和
上映時間 119分


「1917 命をかけた伝令」⑴

第1次世界大戦の西部戦線を舞台にした戦争ドラマ。1600人の味方の命がかかった重要な指令を届けるため、最前線へ向かって戦場を駆け抜ける2人の若いイギリス人兵士の姿を、全編を通してワンカットに見える驚異の映像で映し出す。メガホンを取るのは『アメリカン・ビューティー』『007 スペクター』のサム・メンデス(Sam Mendes、1965~)。撮影は『007 スペクター』でもメンデス監督とタッグを組んだ名手ロジャー・ディーキンス(Roger Deakins、1949~)。2人の兵士を『マローボーン家の掟』のジョージ・マッケイと、『ブレス 幸せの呼吸』のディーン・チャールズ=チャップマンが演じ、コリン・ファース、マーク・ストロング、ベネディクト・カンバーバッチら英国の実力派俳優が共演。第92回アカデミー賞では作品賞、監督賞を含む10部門でノミネートされ撮影賞、録音賞、視覚効果賞を受賞した。

ストーリー
1917年。サラエボ事件に端を発する第一次世界大戦が始まって3年。西部戦線では長大な塹壕戦を挟んでドイツ軍とイギリス・フランスからなる連合国軍がにらみ合っており、多大な犠牲をともなう悲惨な消耗戦を繰り返していた。
同年4月6日金曜日。第8連隊に所属するウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)とトム・ブレイク(ディーン・チャールズ=チャップマン)は、ある重要なメッセージを届ける任務をエリンモア将軍(コリン・ファース)から与えられる。マッケンジー大佐(ベネディクト・カンバーバッチ)率いるデヴォンシャー連隊第2大隊が退却したドイツ軍を追っていたのだが、航空写真によって、ドイツ軍が要塞化された陣地を築き待ち構えていることが判明。退却に見せかけた用意周到な罠だったのだ。このままでは、マッケンジー大佐と1600人の友軍は、ドイツ軍の未曾有の規模の砲兵隊によって全滅してしまう。何としてもこの事実をマッケンジー大佐に伝え、翌朝に予定されている戦線突破を止めなければならない。あらゆる通信手段はドイツ軍によって遮断され、もはやスコフィールドとブレイクが最後の頼みの綱だという。
しかし、エクーストという町の南東2キロにある、クロワジルの森に向かって前進する第2大隊に追いつくには、ドイツ軍が築いたブービートラップだらけの塹壕や、ドイツ占領下の町を越えて行かなくてはならない。戦場経験の長いスコフィールドは慎重を期そうとするが、目指す部隊に実の兄が所属しているブレイクにとっては、一刻の猶予も許されない。2人は泥にまみれた塹壕を這い出て、張り巡らされた鉄条網をかいくぐり、「ノーマンズランド」と呼ばれる無人地帯を通り抜け、あまりにも危険なドイツ軍の占領地へと分け入っていく…。

▼予告編



▼特別映像 “驚異のワンカット映像” :



メイキング映像-11分超え豪華特別映像 :



サム・メンデス(監督・脚本・製作)&クリスティ・ウィルソン=ケアンズ(共同脚本)インタビューシネマトゥデイ ― 「人生はワンカットで体験するもの」2020年2月5日) :
Q:監督のおじいさまの体験談が大まかに基になっているそうですね。どのくらいの間この企画を温め、どのように発展させていったのですか?
サム・メンデス監督(以下、メンデス監督):物語を聞かされたのは10~11歳の頃だったから、今から40数年前だね。もちろんその頃から映画化を考えていたわけではなく、何か書いてみようと思ったのはここ数年のことだ。祖父が話してくれた物語の一つは“伝令を運ぶ一人の男”についてで、自分にも一つの旅から壮大な物語を作ることができるかもしれない、と思うようになった。
ところが実際には、あまり動きのない戦争における旅の物語を、どう展開させるべきかがわからず、それを見いだすのが一仕事だった。リサーチを入念に行い、少し休止したりもしたが、1917年にドイツ軍がヒンデンブルク線まで撤退したという事実を知ったことで状況が変わった。それで、一人の兵士を異なる風景の中へと進ませ、雰囲気が変化していく旅を組み立てることが可能になったんだ。そこで物語のざっとした要約を作り、また一旦休止した。それから一緒に仕事をしたことがあったクリスティに会い、約1週間話し合った。その後、彼女に大変な仕事をしてもらい、そして自分が引き継いだというわけだ。
クリスティ・ウィルソン=ケアンズ(以下、ケアンズ):その1週間でこの物語やキャラクターたちを掘り下げていった。初日の朝に、一緒に地図を見ながらこの旅をどうするか決めていったの。
メンデス監督:地図を描いたのだったかな?
ケアンズ:ええ。ほら、Googleマップを使って、「ここがヒンデンブルク線で、この辺りを通っていく」といったことをやったのを覚えているでしょう? そういうのをやったわ。かなり集中して作業した。わたしたちが共有したあの特別な瞬間を、あなたはどうやって忘れられるの?
メンデス監督:(笑)。
ケアンズ:というわけで、わたしたちにはしっかりとした物語があったから、それを脚本化していくだけのことだった。ただリアルタイムの物語という点で、“継続するワンカット”として読むことができるものにしないといけないのがなかなか難しかった。ある意味、わたしたちは山を掛けたと言えるわ。わたしたちは何度も互いに書いては相手に送るということを繰り返した。
メンデス監督:クリスティが実際に組み立て、通常の脚本の形にするという大変な作業の大半をやってくれた。僕はそれを書き直すという楽しい部分をやったんだ。全てではないよ。素晴らしい箇所もあったからね。ただ、彼女の許可も取らずに、自分が書き直したい箇所を書き直したんだ。これは僕にとって初めてのことで、脚本家の作品を壊しているかのようで申し訳ない気持ちになった。まあ、壊しているのが僕だから、問題はなかったがね。それからは本当に毎日コラボレーションし、脚本が二人の間を行き来した。何か月もの準備期間中、クリスティは常に現場にいたからまさに共同作業だと感じたよ。

Q:監督が初めて脚本を書くことになるまで、なぜこれほど長い年月かかったのですか?
メンデス監督:どうだろうね。なぜそうだったのだろう?自分のことをあまり良い脚本家だとは思っていないからかもしれない。それがまず一つ目の理由だ。素晴らしい脚本家の作品が送られてくる立場からすると、脚本を書くのがいかに大変かはよくわかるから。今回書くことにしたのは、ボンド映画(『007 スカイフォール』『007 スペクター』)を手掛けた5年間、脚本家たちと部屋にこもって一緒に何もないところから作っていった経験に関係があるかもしれない。それが「もしかしたら、彼らなしで自分だけでも出来るかもしれない」という自信につながったのかもしれないね。もちろん『007』の脚本を書いたのは自分だと言っているわけではないが、それらが生まれる時に僕がそこにいたのは確かだ。それによって勇気づけられたのだと思う。
それに本作はそれほどセリフが多い作品ではない。要は、自分が作りたい映画の描写をするような感じだ。書きやすい脚本ではないが、一つ以上のプロットや構造がある通常の脚本に比べれば、そこまでではない。うまくいっているかどうかを判断するために、少し距離を置いて脚本を見ることができるという監督としての客観性は、自分でも評価してきたしね。本作では、プロジェクトの性質、そしてこれが家族の歴史から生まれたパーソナルな作品だという理由で、自ら語るべき物語だと感じた。この物語のおかげで、「そうだ。助けがあれば、自分にも出来るかもしれない」という勇気が湧いてきたんだ。

Q:より有名な役者をキャスティングしなければならないというプレッシャーはありましたか?
メンデス監督:いや、それはなかった。ドリームワークスとユニバーサルのおかげでね。自分の脚本だと……つまり自分が所有していて、その報酬をまだ受け取っていない脚本であれば、われわれが本作でやったように効果的にオークションをすることが可能なんだ。こんな風に自分でコントロールできるのは、僕にとっては初めての経験だった。
今回はさまざまなスタジオに「意思決定は週末までにしてほしい。これが脚本で、こんな映画を大体いつ頃に作りたい。予算はこの位を希望していて、クリスマス映画になる。キャスティングには(ああしろこうしろという)プレッシャーを感じたくない。さあ、こんな映画を作りたいですか?」と持ち掛けた。すると6つのうち3つのスタジオに「作りたい」と言われ、それら3社とミーティングをして、どこが一番良い条件を出してくるかを見たんだ。
ドリームワークスとユニバーサルに決めたのは、ドリームワークスとすでに関係があったからだ。スティーヴン・スピルバーグ監督(ドリームワークスの創設者の一人)は長年にわたる知り合いだし、一緒に『アメリカン・ビューティー』『ロード・トゥ・パーディション』『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』を作ったスタジオだ。ユニバーサルも『ジャーヘッド』を共に作ったスタジオで安心できた。約束を守らないなんてことはないだろうと思ったわけだが、実際に彼らは素晴らしかったよ。「世間に知られている誰かを登場させてくれると、安心できる要素になるが」なんて言われたがね(笑)。
「ああ、そうですか」と応じたわけだが、実はそれはそもそもやろうとしていたことだった。コリン・ファース、ベネディクト・カンバーバッチ、アンドリュー・スコットが有名なのは、彼らが優秀だからだ。僕は上官たちを優秀な俳優に演じてほしかった。そこで「著名な俳優も何人か出てくるが、中心となるキャラクターは、観客が新鮮な関係を持てるようなフレッシュな人にしたい」と言ったんだ。

Q:関係と言えば、主人公たちのことを何一つ知ることなく、冒頭から彼らに感情移入できる点が素晴らしいです。一切の無駄を省きながらも、スコフィールド(ジョージ・マッケイ)とブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)の関係性が冒頭からとてもよくわかりますよね。
メンデス監督:君は人間だから、彼らに死んでほしくはないわけだ(笑)。「彼らにはぜひ死んでもらいたい」なんてないよね(笑)。いや、実際それは興味深い点で、よく話し合ったことだった。冒頭5分間を執筆するのに、眠れない夜を過ごしたよ。彼ら二人がただ一緒にいて、少し話しては少し歩き、さらに他愛のない話をして…という風にしたかったんだ。その間、二人はプレッシャーにさらされているわけでもないし、緊急を要する何かがあるわけでもない。何週間もずっと待機し続け、その間、戦うことは許されなかった。そうした全てが、彼らの何気ない様子からわかるようになる。
一人はよくしゃべりより陽気で、もう一人は自分のことを話したがらないところがあり、彼が言ったことの中には「え?」と思うようなこともあったりする。「(故郷に)帰らない方がいいんだ」と言った後に中断してしまうが、「それはどういう意味?」と思わせる。彼らの軍曹との関係や、彼らがどれだけの期間そこにいるのかということも、「クリスマスまでに大きく変わると言われていたのに、もう4月だ」というセリフに表れている。
という風に、実は最初のシーンにはかなり情報が詰まっているわけだが、説明的にはなっていない。われわれには「説明的にならないように。説明をできるだけ抑えるようにする」というルールがあったんだ。観客に何とかして主人公たちに寄り添ってもらいたくて、特にスタジオからも「彼らのことを愛してもらうために、最大限努力するように」というプレッシャーがあったしね。映画を通して、彼らと共に時間を過ごさなければならないから。彼らのことをしばらく観察すると、「とても若くて脆くい、大勢の兵士の中の二人である」ということがわかるようになるというだけのことなんだが、観客にそれと意識させることなく、どれだけの情報を与えられるのかということを考えた。それがもしかしたら、その(=冒頭から感情移入できる)理由かもしれないね。
それに将官とのシーンではもちろん、表情だけでそれがわかる。もう一つの理由は正直なところ、演技の素晴らしさによるものなんだ。司令を受け、それをすぐさま受け入れる時のディーン(ブレイク役)の表情に対して、ジョージ(スコフィールド役)の「僕には聞きたいことが山ほどあるのに、おまえは一体何をやっているんだ? 簡単にハイと言えることじゃないだろう?『すぐに頭を撃ち抜かれる』と聞かされていた無人地帯(敵味方両軍が対峙してこう着状態にある塹壕の間)を行けと言われているんだぞ!一体どういうことだ?」という表情だ。そんな風に聞かされていたことに対する恐怖心もあるわけだが、あれは名演技だと思う。

Q:兵士の視点でワンカットにすると決めたのは、観客に彼らとの一体感を持たせるための一つの手法だったからなのでしょうか?
メンデス監督:そうだ。兵士目線で語っているわけではなく、彼らを風景の中の小さな人物として客観的に見ていることもあるがね。観客に地理関係、距離、困難さを理解してもらいたい時もあれば、キャラクターたちの内面を理解してもらいたい時もある。カメラ、キャラクター、風景という常に動き続ける3つの要素のダンスというのが、本作における映画の言語だった。
その中で、カメラがそれだけで目立つようなことがないようにと意識した。キャラクターたちがカメラを見たり、「カメラが今、何をやっているのか見てごらん」というような感じにはしたくなかった。だから特にクレイジーなことはやっていない。鍵穴から(カメラで)のぞいたり、飛んでいく銃弾の軌道に沿って動かしたりとかいうバカげたことはやっていないんだ。
こう言うと偉そうに聞こえるかもしれないが、人生はワンカットで体験するものだ。映画の方が偽物。映画の言語・文法としてカットや編集することが普通になったわけだが、なぜそうなったのか?それは単にカメラの性能による理由だ。当時のカメラは運ぶにはあまりに重く、5分程度しか続けて撮れず、カットしなければならなかった。それが普通になっていき、誰も疑問視しなかった。皆、編集のトリックが大好きなんだ。時空を超えることが可能で、1年、10年と超えることができるしね。
だが、デジタルカメラや小型カメラによって“リール(フィルム)を変える”といった“継続性を途切れさせていたこと”がなくなったこのご時世、ワンカットというのは珍しい表現法ではなくなるだろう。今後は全ての映画がワンカットで撮影されるようになると言っているのではないが、10年前と比べて、ワンカットというのが映画の文法の一つとして徐々に深められてきていると思う。
(頻繁にカットする手法に対する)反対運動をしているわけではないが、本作で物語を語る手法はそういう風に選んだ。観客とキャラクターの間の距離を縮め、そこにあるまた別のフィルターを取り除くというものだ。つまり「ここから見て!その後に今度はここから見て!その後に彼の目を見るように指示するから。今度は太陽に目を向けて」などと観客を巧みに操るフィルターだよ。人はよく「映画か。それはギミックに過ぎないのでは?」と言うが、編集はギミックだし、映画はギミック、そういう風に言いたければ、映画とはそういうものだ。でも僕はまた別の手法を選んだ。戦争映画だが時間が押し迫るスリラーのように機能する本作には、このような手法がより適していると言いたいね。

◆ロジャー・ディーキンス(撮影監督) インタビューTHE RIVER ― 「私はただ、目の前のものを撮っているだけ」2020.2.14 ) :
──『1917』を「ワンシーン・ワンカット」として製作すると聞いた時、どう思われましたか?
(サム・メンデス監督から)説明はありませんでした。何も言わずに脚本が送られてきて。だけど、脚本の表紙に(ワンシーン・ワンカットとして見せると)書いてありました。でも、それはいわゆる説明の方法にすぎないのかなと、そういうギミックみたいなものかなと思って、私のほうはちょっと疑っていましたよ。だけど脚本を読んだら、彼がやりたいことは分かりました。それこそが脚本の本質というべきものだったので。

──全編を長回しのように見せるうえでは、同時に「すべての瞬間を美しく見せる」ことが課題になると思います。そのために、すべてを事前にリハーサルしたのでしょうか? 撮影現場での偶然性に委ねたところもありましたか?
何ヶ月も何ヶ月もかけて計画を練りました。どういう風に撮りたいのか、カメラの動きをどうするのかを(スタッフの間で)計画してから、俳優と一緒に、また数ヶ月間も計画を立てていったんです。どんなふうにセットを建てるのか、という問題もありましたね。つまり、脚本のセリフを言うのにどれくらい時間がかかるのか、塹壕の中でどう動くのか、ということを(セット作りのために)すべて把握しなくてはいけなかった。それにぴったり合う形で、塹壕を作らなければいけないんです。

──リハーサルはすべて実際の撮影現場で行われたのですか?
撮影スタジオと実際のロケーション、その両方で撮りました。セットが建てられる前に、実際のロケーションでもリハーサルをしています。たとえば、農家や果樹園を作ることが決まっている場合は、それらを作る予定の場所へ行き、リハーサルをして、(動きに合わせて)現場に線を引いていく。俳優と一緒にリハーサルをして、セットをシーンに合わせるんです。どのようにセットを建てるのか、どんなふうに塹壕を掘るのかということは、すべて事前に計画されています。

──ぱっと見では分からないけれども、実は非常に撮影が難しかったというシーンを教えてください。
どのシーンもそれぞれ難しかったですよ(笑)。シンプルに見えていても、たとえば人が塹壕を走るのを正面から撮るとしたら、そのスピードで逆走しながら撮影するのはすごく大変。それから、撮影のために特別な装置を作らなければいけないこともありました。壊れた橋を渡る場面も非常に難しくて、クレーンを4台用意して、カメラをワイヤーで吊って、コンピュータで制御してね。(本作では)いろんな装置をたくさん使っていますし、それぞれのシーンがチャレンジでした。
それから、いくら全編長回しといっても、本当にすべてがワンカットというわけではありません。だから非常に大切だったのは、「どこでカットをかけるのか」ということ。繋ぎ目をすべて決めてから撮らなければいけなかったし、あらゆる要素をワンカット(というコンセプト)にどう適合させるのかを計画するのも大切でした。

──こうした作品の場合、実際に演じる俳優たちとの協力も必要になるのでは?
とにかく何度もリハーサルしましたから、俳優たちは、カメラがどこにあるのか、どう動いているのかを忘れたかのように演じていました。(リハーサルを繰り返す中で)自然とそうなっていったんです。こちらの側も、彼らが動く速さをはじめ、すべてを把握していました。わずかに動くのが速くなったり、遅くなったりということはあるわけですが、そういうことにはカメラのオペレーターがその場で対応します。演技のタイミングや動きは、まるでバレエのように、すべてが振り付けられているようでした。

──撮りたい構図やカメラの動き方は、どのように決めていったのでしょう?
すべてはディスカッションから始まります。シーンやスケッチ、絵コンテについての話し合いが終わる頃には、どう撮ろうかというアイデアは出てくるものなんですよ。脚本だけでなく、それぞれの場面をどうやって撮るかを監督と話し合い、それからどう撮るかを自分で決めていきます。そして、俳優との作業をしながら(イメージを)膨らませていく。もちろん、自分の直感で決まる部分もあります。俳優の立ち位置から考えて、カメラはここに置くべきじゃないかな、なんてね。

──『1917』には、画面の迫力や美しさがすべてを圧倒する瞬間があります。それらは計画通り、「そうあるべき場面だ」と判断して撮られたものですか?
さあ、どうでしょう(笑)。私はただ物語を撮っているだけだし、目の前のものを撮っているだけだから。

──大勢のスタッフをまとめる撮影監督として、チームとはどのようにコミュニケーションしていたのでしょうか。
すべてのショットについて、あらかじめカメラの動きを正確に図式化して、リハーサルの様子を写真に撮って(図面に)添えていました。カメラを操作する全員とは、「どういうものを目指すのか」という話をできるようにしていたんです。だけど、全編の60%は―遠隔操作であっても―私自身がカメラを操っています。あとはTRINITY(カメラスタビライザー)のチームがいたり、昔ながらのステディカムのチームがいたり。大勢が関わっていますが、「私自身がどうしたいか」ということはきちんと指示していました。カメラを操る本人とは、実際の撮影中も常にコミュニケーションを取っていましたね。

──作品を手がけるごとに新しい挑戦をなされている印象ですが、本作を経て、新しい目標はおありですか?
はっはっは、わかりませんね(笑)。今のところはありません。良い脚本を送ってもらえて、良いチャレンジができることを願っていますよ。私はこの仕事が、映画を撮ることが大好きで、いま一緒にやっている人たちと働くことも大好きなんです。次のチャレンジも、すごく楽しいものであればいいなと思います(笑)。

私感
見事な映画だ!
圧倒的な臨場感と緊張感と没入感が最後まで途切れない。
究極的なまでのリアリティー。「兵士が伝令としてゴールを目指して走る」だけのシンプルではあるが確かに胸を打つストーリー。戦争映画としての深み。そして、衝撃的な“全編ワンカット”~正確に言えば、本作は「ワンカット風」の映画であり、ワンカットで撮影されたシーンをつなげて1本の映画にしたもの~。それでいて、細部に至るまで「見やすさ」「分かりやすさ」を追求してやまない。私という観る者の心をしっかりとつかんで離さない傑作だった!

ところで、本作鑑賞直後、私は突然、少年時代に観た日本の戦争映画を思い出した。
それは、『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里(監督:森一生、出演:菅原謙二/北原義郎/高松英郎/浜口喜博/石井竜一/原田詃/根上淳/船越英二、公開:1957年12月28日)で、日露戦争においてロシア軍の動きを探る斥候隊を描く作品。

同作の原作は戦前、山中峯太郎(やまなか・みねたろう、1885~1966)が日露戦争での秘話をもとに描いた実録小説で、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)の『少年倶楽部』(1930.4~9)に連載された。血沸き肉踊る展開に子供たちの熱狂的な人気を得て、単行本が大ベストセラーになった。戦前に黒澤明が映画化を計画し、脚本化。戦後、小国英雄と共に脚色したものを、大映で映画化。―1905(明治38)年、日本軍は旅順要塞の陥落を成功させるが、すでに兵力も物資も底を尽きかけていた。ロシア軍が大兵力を集中しているのは鉄嶺(てつれい)か奉天(ほうてん)か、それを探るため第二軍騎兵第九連隊の建川中尉以下5名の斥候隊が派遣される。彼らは敵中深く~中国大陸/満洲の奥地へ~潜入し、鉄嶺に至る。市街を偵察し、ロシア兵の大群が列車で奉天に南下するのを見きわめ、追いすがるコサック騎兵隊を振り切って生還する。軍司令部にもたらされたこの情報が、奉天会戦(1905年2月21日~3月10日)で日本を勝利に導いた―。

この数十年前の鑑賞映画が突如として私の頭にひらめいたのは、なぜか?
定めし、本作が『敵中横断三百里』と、一見似通った映画~2人の伝令と6人の斥候という違いはあるものの、敵中を走り抜ける物語で同工異曲~に思われたからに違いない。

モノクロ映画『敵中横断三百里』の舞台となる“満州”の雄大な風景が、私の目の奥に生き生きと蘇る…。
同作では、北海道の大雪原~特に上富良野町~に4万5千の人員と騎馬数千を動員して長期大ロケーションが敢行された。そして、私個人にとって思い出深いのは、私の生まれ育った岩見沢市/岩見沢駅※がロケ地として鉄嶺の一部に見立てられていたこと。その岩見沢駅でのロケ撮影現場を実際に目撃した多数の大人たちの一人~親戚にあたるオジサン~が、当時の私に向かって、興奮気味に話してくれたものだ。「挺身斥候隊の決死行ということで、迫力があった。スケールの大きい撮影だったな!」と。

岩見沢駅(いわみざわえき)は、北海道内で最古の鉄道である幌内鉄道の主要駅として開業した非常に古い歴史を持ち、砂川方面や室蘭方面への延長拠点として発展してきた。鉄道網が広がるのに伴って、幌内鉄道の小樽-岩見沢間が大動脈とも言える函館本線に組み込まれた後も、残りの部分の幌内線や、室蘭本線志文駅から万字線が乗り入れたほか、戦後の高度成長期に増大した貨物輸送量を支えるために、東日本最大の操車場も存在した。

▼ cf. 『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』特報+予告篇 :