映画『エヴァの匂い』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年4月2日(火)新文芸坐(東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F、JR池袋駅東口下車徒歩3分)~企画「魅惑のシネマ・クラシックスVol.30」~で、16:15~ 鑑賞。『ダンケルク』18:20~と2本立て上映。

EVA⑵「エヴァの匂い」⑴

作品データ
原題 Eva
製作年 1962年
製作国 フランス/イタリア
日本初公開 1963年6月1日

リバイバル上映 2018年2月17日
[フランスが世界に誇る名優たち(アラン・ドロン/カトリーヌ・ドヌーヴ/ジャンヌ・モロー/ジャン=ポール・ベルモンド)の代表作を集めた“華麗なるフランス映画”を、2018年2月17日~、東京・角川シネマ有楽町ほか全国順次上映。 cf. KADOKAWA「華麗なるフランス映画」

「エヴァの匂い」⑵EVA⑴

『死刑台のエレベーター』『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローが、男たちを破滅に追いやるファム・ファタール(femme fatale=「運命の女」)をこれ以上ない適役で妖艶に演じ切った官能ロマン/心理ドラマ。英国のミステリー作家ジェームズ・ハドリー・チェイスの小説を『コンクリート・ジャングル』のジョセフ・ロージー監督が映画化した。共演に『ナバロンの要塞』のスタンリー・ベイカー、イタリアの新人ヴィルナ・リージら。

ストーリー
雨に煙るベネチア。一隻のゴンドラが静かに水の上を滑る。そのゴンドラから過ぎゆく景色を眺めている一人の女。エヴァ(ジャンヌ・モロー)― それがこの女の名前。彼女の住む家は、どことも決まっていない。また夫がいるかどうか誰も知らない。ただ分かっているのは、幾人もの男たちがこの女のために身を滅ぼしていったということだけ。ティヴィアン・ジョーンズ(スタンリー・ベイカー)もその一人。元坑夫の彼は、処女作が大当たりをとり、一挙に富も名声も獲得した新進作家だった。そして、あとは良家の美しい娘フランチェスカ(ヴィルナ・リージ)と結婚するばかり。ある雨の降る夜だった。ティヴィアンの別荘にずぶ濡れになった男と女が迷いこんできた。エヴァと彼女の客だった。それがティヴィアンとエヴァとの最初の出会いだった。が、その夜以来、ティヴィアンの脳裏にはエヴァの面影が焼き付いて離れなかった。ある夜、彼はローマのナイト・クラブで黒人の踊りを放心したように眺めているエヴァに会った。その時を契機とし、彼はエヴァの肉体に溺れていく。ある週末、彼はエヴァをベネチアへ誘った。が、彼女は拒絶していた。このことからティヴィアンはフランチェスカとの婚約に踏み切った。そのレセプションの席上、エヴァからの電話が鳴った。「ベネチアへ行きましょう、今すぐ…」。ティヴィアンはすべてを捨てベネチアへ走った。酒とエヴァとの愛欲の日々。そんな関係に溺れたティヴィアンは口走った。小説は自分が書いたのではないことを…。ティヴィアンはフランチェスカのもとに帰った。二人の結婚式はゴンドラの上で行なわれた。が、エヴァからまた呪わしい電話がかかってくる。ある夜、エヴァがティヴィアンの別荘へやってきた。そのくせ彼に指一本触れさせないエヴァだった。その光景を見たフランチェスカは絶望のあまり自殺する。二年経った。今は乞食同然のティヴィアン。が、彼はいまだにエヴァの面影を求めている。今日もベネチアは雨に煙り、ゴンドラが漂っている―。

Official trailer




(主人公エヴァのお気に入りの曲は、ジャズ歌手ビリー・ホリデイ〈Billie Holiday、1915~59〉が歌う“Willow weep for me(柳よ泣いておくれ)”。柳の象徴は失恋や愛する人との別れを暗示している。同曲は映像に溶け込み、この洒脱なフィルムに更なる深みを加えている。)

私感
本作『エヴァの匂い』の鑑賞は、今回が2回目。最初に観たのは、日本初公開の1963年6月直後だったと思う。懐旧の情に堪えない。[※ちなみに、本作には再編集に次ぐ再編集によって、複数の異版(それぞれ上映時間・使用言語が異なる)が存在するとのこと。私の場合、記憶がぼやけているが、たしか初見時はフランス語版だったと思う。しかし、今回の再見時は英語版(上映時間113分)だった。]
7か月ほど前に、イザベル・ユぺール(Isabelle Huppert、1953~)主演の『エヴァ』 本ブログ〈September 18, 2018〉を鑑賞した。この映画は基本的に(監督のブノワ・ジャコー〈Benoît Jacquot、1947~〉自身はその直接の関連を否定しているが)『エヴァの匂い』のリメイク版と言っていいだろう。
『エヴァ』を鑑賞中、私は娼婦エヴァを演じる眼前のイザベル・ユぺールに目が行くたびに、今も消えがたく記憶に残る『エヴァの匂い』のジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau、1928~2017)の面影を思い浮かべた。かつて私の目に映じたエヴァ⇒モローは、どこまでも冷徹な魔性のチャーミングな美女だった。ところが、エヴァ⇒ユペールにいたっては、何かしら所帯じみたショボいオバサン(ないしバアサン)に見える始末…。

私は中学生の時、ジャンヌ・モロー出演の映画と初めて出会った。それは私の人生史上、忘れがたい一作『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル、日本公開:58年9月26日)だった。同作は欲望の果てに完全犯罪を目論み運命を狂わせていくカップル(フローランス・カララとその情夫ジュリアン・タヴェルニエ)の行く末を、洗練されたタッチで描いたクライム・サスペンス。私はそのハラハラドキドキのストーリー展開の妙味を満喫するとともに、フロランス・カララを演じ、不思議な美しさを放つ女優ジャンヌ・モローに強く惹きつけられた。その後、モローの主演作『恋人たち』(監督:ルイ・マル、日本公開:59年4月24日)→『雨のしのび逢い』(監督:ピーター・ブルック、日本公開:61年10月15日)→本作『エヴァの匂い』(日本公開:1963年6月1日、フランス公開:62年10月3日)→『突然炎のごとく』(監督:フランソワ・トリュフォー、日本公開:64年2月1日、フランス公開:62年1月23日)を、日本公開順に鑑賞。奔放で官能的な悪女を絶妙に演じる彼女の演技力・存在感は圧倒的!少なくとも中学~大学時代の私にとって、ジャンヌ・モローこそ愛と自由の女神として最大限、私の目を喜ばせる名優と相成った。

イザベル・ユぺールの出演作の場合、私が最初に接したのが、『天国の門』(原題:Heaven's Gate、製作年:1980年)である。
同作は1890年代の米国ワイオミング州ジョンソン郡を舞台に、ロシア・東欧系移民の悲劇を描いた壮大な歴史ドラマ。この映画を81年9月26日の日本公開時に私が勇躍して観に行ったのは、それがほかならぬマイケル・チミノ(Michael Cimino、1939~2016)の監督作品だったからだ。私は既に79年3月に、ベトナム戦争に材をとったM・チミノ渾身の一作『ディア・ハンター本ブログ〈December 24, 2018〉と出会って、感動措(お)く能(あた)わず!以来、私にとってM・チミノは、瞠目すべき、一種特別な才能に恵まれた映画監督でありつづけた。
以下しばし、思い出深い『天国の門』を話題に取り上げ、合わせてイザベル・ユぺールという女優の私なりの品定めにこだわりたい。

映画 cf. 『天国の門』予告編


『天国の門』は公開当時その巨額の製作費で様々な物議を醸した、いわくつきの問題作である。興行が失敗してハリウッドの老舗スタジオ「ユナイテッド・アーティスツ」が倒産する「映画災害」さえ引き起こされた。同作はラフカット325分の長尺物だったが、米国では1980年11月19日に〈219分版〉がプレミア上映され、81年4月23日に〈149分版〉が一般公開された。ヨーロッパ諸国では概ね〈219分版〉が公開され、日本では1981年9月26日に〈149分版〉が、88年に〈219分版〉が、2013年10月5日にデジタル修復版(ディレクターズカット版-2012年の第69回ベネチア国際映画祭で上映)=〈216分版〉が、それぞれ劇場公開されている。私はこれまでに当該〈149分版〉→〈219分版〉→〈216分版〉を日本公開順に各1回鑑賞した(ちなみに、〈216分版〉は2014年3月9日に吉祥寺バウスシアターで鑑賞)。

『天国の門』は私にとって(『ディア・ハンター』ほどではないにせよ)見応えのある力作だった。この映画を通して、1892年4月に実際に起きた“ジョンソン郡戦争(Johnson County War)”という「アメリカの暗部」を初めて知らされた私!1981年の初見以来、“移民国家”アメリカへの関心が強まり、アメリカの移民政策-移民問題を私なりに調べつづけ、今日にいたっている。同作には視覚的に印象深い場面が数多く設定されている。序盤のハーバード大学(Harvard University)卒業シークエンス(ハーバード卒の「神童」である「持てる者」の前途洋々たる未来を祝う、幸福感に包まれた卒業式典〈セレモニー〉と庭園舞踏会〈ダンスパーティー〉!ちなみに、149分の〈短縮版〉では式後の卒業生たちが円舞曲「美しく青きドナウ」に合わせて輪舞を踊るシーンがカットされている)、中盤のロ-ラースケート・リンク「Heaven's Gate」のシークエンス(主に東欧からの移民である「持たざる者」がロ-ラースケートに興じる束の間の祝宴=気晴らし!)、終盤・クライマックスの戦闘シークエンス(“「持てる者」たる大牧場主vs「持たざる者」たる新参移民”の、砂埃舞うなか人馬入り乱れての凄惨な銃撃戦!)など。同作は私の興味と関心を掻き立てる、情感豊かな一大叙事詩にほかならない。

ただし私の見るところ、『天国の門』には大きな問題点が二つある。第一はストーリーラインに関わる問題である。
同作の舞台となるのは、米国東部(映画の冒頭と最後)と北西部(中間に位置する映画の主要部分)である。映画は1870年、マサチューセッツ州ケンブリッジに位置するハーバード大学で幕を開ける【主人公ジムことジェームズ・エイブリル(クリス・クリストファーソン)が同大学を卒業する】。映画の主要部分は1890~92年のモンタナ州、アイダホ州、ワイオミング州で展開する【ジムは「ジョンソン郡戦争」に当初は逡巡しながらも最終的に入植者集団に組して参戦する】。エピローグ部分で再び時代が先へ飛び、1903年のロードアイランド州ニューポート(Newport)が現出する【立派な服を着て鬚(ひげ)を剃ったジムが、ニューポートを出港した豪華なヨットの甲板を歩いている。彼が船室へ降りていくと、そこにはエレガントなドレスを身に纏(まと)い美しいが、翳(かげ)りのある倦怠感に満ちた中年女性が眠っている。ジムは黙って彼女を見つめる。目覚めた彼女は、ジムに煙草を求める。黙って女に煙草を差し出し、火を点けてやったジムは、再び甲板に戻る…】。

◆ cf.① 【IMDb “Heaven's Gate”/Plot Synopsis(エピローグ)】: ≪Jim, now an aging man dressed in an elegant yachting outfit, watches a sunset from the deck of a steam yacht. Down below we see a pampered-looking woman sleeping on the sofa. She is the girl Jim danced with at the Harvard graduation, the same girl who appears in the photograph seen previously. She wakes only to say "I'd like a cigarette" and idly lays there as a wordless Jim lights one. There are no more words spoken as Jim dwells on his lost love and the genocide of his townspeople. Averill returns to the deck and stares out at the water as the story closes.≫(From IMDb

cf.② 【Wikipedia “Heaven's Gate(film)”/Plot】: 
≪In 1903 – about a decade later – a well-dressed, beardless, but older-looking Averill walks the deck of his yacht off Newport, Rhode Island. He goes below, where an attractive middle-aged woman is sleeping in a luxurious boudoir. The woman, Averill's old Harvard girlfriend (perhaps now his wife), awakens and asks him for a cigarette. Silently he complies, lights it, and returns to the deck. ≫(From Wikipedia

私は正直言って、この意外なラストシーンに面食らった。これは結局、何を言いたいのか?そもそも船内にいた女性は、誰なのか!?(ちなみに、〈短縮版〉では当のラストシーンがカットされている。)

ジムはニューイングランドの富裕層の子息で、ハーバード大卒業時に、青雲の志を抱き、未来への希望に燃えていた。エリートコースを歩み、本来「持てる者」の側に属するはずであった…。そんな彼が、“持たざる者”たる貧しい移民たちに味方し、「ジョンソン郡戦争」という武装闘争にまで参加するにいたったのは、生来の「正義感」、「反骨精神」の成せるわざなのか、それとも愛するエラ・ワトソン(イザベル・ユぺール)を何とか救い出そうとする窮余の一策だったのか※。

※エラはフランスからの移民で、ジョンソン郡で娼館(私娼宿)を経営する娼婦。「ワイオミング家畜飼育業者協会(WSGA)」による、「移民による牛泥棒根絶」に名を借りた、“移民”125名大量虐殺の「処刑リスト」には、彼女の名前も記載されていた。ジムはエラだけでも無事に逃がそうと二人連れ立って他所の土地へ移ろうとするが、エラはジムと、ネイトことネイサン・D・チャンピオン(クリストファー・ウォーケン)~WSGA側に雇われた移民の殺し屋~との三角関係に悩む中、愛着が募るワイオミングの土地に留まることを決意する―。
しかし、ジムの精一杯の奮闘も虚しく、移民たちが次々と殺害されていく。そして、エラもまた胸と腹に数発の弾丸を食らって絶命。エラの遺体を抱きかかえ、悲嘆の涙に暮れるジムだった…。   

時代は20世紀に入った。ハーバード卒後約30年/ジョンソン郡戦争後約10年。港湾都市ニューポートの海上に、“上流階級”の暮らしに戻ったジムの姿があった。恰幅がいいが、どこか老いた彼は、ヨットの上で悠々自適、気儘(きまま)な航海三昧の日を送っている。だが、その眼差しは虚ろだ。デッキに出て、とかく独り物思いに沈む…。
あの戦争で辛(から)くも生き残ったジム。彼は保安官の職を退いた後、正式に結婚していた妻の元に戻っていた。その妻は、恐らく何の紆余曲折もなく30年の時を淡々と過ごした、いいとこのお嬢さんだったのだろう…※。

※ワイオミング時代のジムは、うらぶれた木賃宿の中2階の1室に住んでいた。その部屋のテーブルには、若かりし頃のジムと美しい女性の二人を飾る写真立てが置いてある。彼には、東部に残してきた妻がいるらしい。その妻はどうやら(冒頭シーンに登場する)ハーバードの卒業式でジムに何度も目線と笑顔を送っていた女性のようだ…。ジムは恋人のエラに深い誠意を尽くすのに、結婚を求めることはなかった。彼は妻とエラを天秤に掛けていたのか、それとも妻帯者として表に出せない葛藤に苦しんでいたのか?エラ自身は写真に写る女性がジムの妻であろうことは感づいていた―。

ジムは船上、悲哀に満ちた郷愁に浸っている。ハーバード卒の若者の前途に開かれた“理想”は、はかなく崩れ去っていった!今や抜け殻同然の彼の脳裏を埋め尽くすものは、ワイオミングで出会った愛すべき移民の人々~とりわけエラ~との思い出だけであった。ジムがエラに向ける愛情は複雑な翳りを帯びていたとはいえ、彼が彼女を大切に守ろうとする姿勢はシリアスで本物だ。彼はまるで自らの存在理由を探るかのように、エラとの情熱的な美しい日々の思い出をしみじみと素朴に懐かしむのだった…。

しかし、それにしても、私は思う。3時間半余りの長尺映画で、ラストにいたっての不可解な“女性-妻” (presumably Jim's girlfriend or wife)の登場シーンは、あまりにも唐突であり、冒頭のハーバード時代に文脈を持つとしても中途半端に過ぎよう。これではジムという男が結ぶ像が下手をすると~観客の鑑賞眼次第では~、いつまでたっても成長しない、嘴(くちばし)の黄色い青二才、ないしは抽象的な理想論を振りまく口先だけのインテリ、といった人間類型に帰着することになりかねない。そこでは結局のところ、ジョンが移民たちに共感し、あえて彼らの側に付いたのも若気の至りor優柔不断な一時の便法任せ、などといった解釈がまかり通ることにもなろう。

『天国の門』が抱える第二の問題点は、キャスト陣のキャラクター設定が総じて弱いということ。これは第一に指摘したストーリーラインの問題とも絡みあう点でもあり、また私個人の俳優陣に対する好みの程度に左右される点でもあろう。ざっくり言って、前出のネイトを演じたクリストファー・ウォーケン(Christopher Walken、1943~)を除くキャスト全員の、いわゆる“キャラ立ち”が不十分に思える。

ネイト⇒ウォーケンはジョンソン郡で暮らす移民だが、他の移民とは距離を置き、町外れの丸太小屋に住み、賞金稼ぎをしている。彼はエラに本気で惚れており、彼女に商売(娼館経営)をやめて自分と暮らそうとプロポーズする。その愛情表現たるや、何と直情的で甘酸っぱくも初々しいことか!私は先に『ディア・ハンター』で物静かで内省的なタイプのニックを演じたウォーケンにも強く惹かれたが、続く『天国の門』でもその“美青年俳優”としての個性際立つ演技・存在の重みをゆっくり噛みしめたのだった。

問題は主人公ジムに扮したクリス・クリストファーソン(Kris Kristofferson、1936~)と、ヒロインのエラに扮したイザベル・ユぺールの場合である。
『天国の門』の初見時、私の目に映ったジム⇒クリストファーソンは終始、明瞭な輪郭が定まらない、どことなく影が薄い人物であり続けた。クリストファーソンという俳優が私に、この何か纏まらない空疎な印象を与えるのは、同作に限られたことではない。実は、私が彼の出演作で最初に接した作品『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(原題:Pat Garrett and Billy the Kid、サム・ペキンパー監督、1973年)においても然りだった。
この映画が保安官パット・ギャレットの物語である以上、ある意味で理の当然ながら私の興味と関心は、ギャレットを渋く好演したタフガイ、ジェームズ・コバーン(James Coburn、1928~2002)にばかり集中した。だが、それにしても、21歳の若さで死んだ希代の無法者ビリー・ザ・キッドを演じたクリストファーソンが鑑賞中にほとんど私の眼中になく、鑑賞後も時とともに私の記憶の外に追いやられていったのは何故か。クリストファーソン(俳優デビューしたばかり)自身は、若者らしい不敵さと愛嬌を振りまきつつ何とかビリー役を演じていたように思われるが…。そこでは、ビリー⇒クリストファーソンの人間存在の軽さを感じ取った私なりの素っ気ない拒否反応が働き続けたのだろうか…。
私はクリストファーソンの出演作については、1973年に『ビリー・ザ・キッド』を、81年に『天国の門』〈149分版〉を、88年に同〈219分版〉を、2013年に同〈216分版〉をそれぞれ鑑賞(その他何作かあるように思うが記憶に判然としない)。この間特徴的なのは、一旦鑑賞して彼に目に向けても、鑑賞後にその存在をいつとはなく忘れていき、そしてほぼ忘れ去った頃に再鑑賞し、「ああ、そうだった、クリストファーソンという俳優がいたんだった…」との思いを振り返るばかり―その繰り返しが3度も続いたことである。

『天国の門』のイザベル・ユペールに対する私の印象もまた、前述のクリストファーソン対するそれと五十歩百歩である。エラ⇒ユペール像は、どうにも私にはしっくりと溶け込まないものがある。
ユペール演ずるエラは、娼家のやり手な女将(兼娼婦)だ。代金はすべて前金で受け取ることにしていて、「掛け」は絶対認めない。すべての「商行為」の金銭を、帳簿に記録している。彼女は辺境の地で女一人逞しく生き抜く守銭奴である一方、天真爛漫で頭が良く、乗馬と銃撃を器用にこなす行動力に溢れた女性でもある。加えて、ネイトとジムという社会的な立ち位置が真逆な二人の男との“愛し愛される”三角関係を背負うエラ!こうした難役に挑んだユペールだったが、さすがに荷が重かったのだろう、そこでは一筋縄では行かぬ奥が深い魅惑的なエラ像が造形されるには程遠いものがあったと言わざるをえない。エラを演ずるユペールの演技ぶりは総体的に(ジム⇒クリストファーソンのそれより多少はマシだったにせよ)、どこまでも中途半端な印象を私の目の底に残すばかりだった。

私はたまたま映画レビューサービス『Filmarks』で“「天国の門」に投稿された感想・評価”を一瞥したところ、“驚くべき”、一投稿者のユペール評に出会った。
「至宝ともいえるヒロイン・イザベル・ユペールの娼婦がまた美しすぎます。/肢体が美しい。裸体も美しい。瞳と唇が美しく、気性がこの上なく可愛い。/こんな女性と添い遂げられるなら男二人、確かに命を懸ける価値があります。」(cf. Filmarks
ユペールが「美しい」「可愛い」云々の言は、同レビュー欄のあちこちに散見される。「イザベル・ユペールの美しさも特筆」/「イザベル・ユペールの美しさに息をのむ映画」/「人生にくたびれた主人公と同じ様に観ている側もクタクタになる今作だが、プレミア娼婦イザベル・ユペールの可愛さですべてが許せる」等々。
人が美しいとか可愛いとか感じる心の働きは、根本的に主観的な世界のこと。そのようなものとして、美しい/可愛いと感じる対象は個体差が大きく、時代・地域・社会・集団・環境などによっても大きく異なる。だから、私としては、少なくとも美意識の絶対的基準なるものを拳々服膺するつもりは毛頭ない。
しかし、それにしてもだ、イザベル・ユペールが美しすぎるとか可愛すぎるとか…これは一体、どういうことなんだ!?ここでは、現代日本人(特に若者)における感情規範の変化の問題状況が考慮される必要があろう。
もともと私自身は、映画女優を「美しい」と評する場合は努めて限定的である。私が常日頃願うのは、映画俳優の「美しさ」がそこいらの一般人のそれに毛の生えた程度のものであってはならず、それを格段に超えた何かであってもらいたいということ。今までに鑑賞した数知れぬ映画から突出した例を挙げて示せば、『哀愁』(原題:Waterloo Bridge、監督:マーヴィン・ルロイ、日本公開:1949年3月)のヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh、1913~67)、『陽のあたる場所』(原題:A Place in the Sun、監督:ジョージ・スティーヴンス、日本公開:1952年9月)のエリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor、1932~2011)、『ローマの休日』(原題:Roman Holiday、監督:ウィリアム・ワイラー、日本公開:1954年4月)のオードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn、1929~93)が、まさしく「美しい」女優の典型にほかならない。
こうした美人女優観を持つ私にとって、『天国の門』のユペールが、どうして「美しすぎる」女性でありえようか。当時27歳の彼女は、時に若さが滲み出はしても、どうかすると、鬱陶しい雰囲気がまつわりつく、くたびれたオバハンの感を見せるのだった。(人は、天下のヴィヴィアン・リー/エリザベス・テイラー/オードリー・ヘプバーンをもってイザベル・ユペールと比較し、“美意識”を云々すること自体、野暮の骨頂と難詰するかもしれない。しかし、私はその野暮を承知で、あえて言わせてもらう次第だ―。)

そもそも私は、ユペールの地味な顔立ち~気難しげにへの字に結ばれた唇など~が好きではない。美醜の思いと好悪の情は、言うまでもなく何かしら相互に関連はしても、端的に比例するものではない。はっきりしている点は、私にとってユペールは「不美人」ではないものの、その顔形が好きではないからか、「美人」でもないということである。

私は『天国の門』以外のユペールの出演作については、これまでに『愛・アマチュア』(1994年)→『愛、アムール』(2012年)→『眠れる美女』(2012年)→『皇帝と公爵』(2012年)→『間奏曲はパリで』(2014年)→『ハッピーエンド』(2017年)→『エヴァ』(2018年)を鑑賞(1980~2000年代には、『愛・アマチュア』以外にも2~3本観たように思うが、いかんせん思い出せず…)。
これらの作品に登場するユペールも、『天国の門』の彼女同様~否、それ以上~に、何かパッとしない鈍重な印象を私の胸に彫りつけた。大掴みに言って、彼女は地味で控え目で薄味で…、その演技っぷりもフンワリして切れがなく…、全体的に、どうやら私の肌に合わない女優のようだ。

(ちなみに、ある映画ライターがこう述べている。「今、フランス映画界で誰よりも高い頻度で上質な作品に出演し続けている女優と言えば、疑う余地なくイザベル・ユペールだろう。ハリウッド女優のような華やかさはない代わりに、画面に登場した途端、観客の視線を釘付けにしてしまう演技とも、素とも取れる自然な表情は、フランス映画ファンのみならず、気紛れに劇場に迷い込んでしまった暇つぶしの観客をも、必ずや虜にしてしまうはず」(「求められればどこまでも!フランス映画界最強の女優、イザベル・ユペールの女優道に着目。」)。私いわく、「ホントかね!?私の場合は、イザベル・ユペールの“虜”になったことは、これまで絶えて一度もありません!」)

さて、話は(冒頭で触れた)『エヴァの匂い』のジャンヌ・モロー/『エヴァ』のイザベル・ユペールの問題に立ち返ることにしよう。
結論的に言えば、後者は到底前者に及ばない、ということ。
真に“洒落た”映画である『エヴァの匂い』の前では、『エヴァ』はあまりにも“鈍臭い”。
対比的に言えば、エロチックな匂いのある(香ばしい体臭が鼻先をかすめる)エヴァ⇒モローに対して、生活の臭いのある(汗臭さがぷんと鼻をつく)エヴァ⇒ユペール。これでは、勝負あった!!
(よわい)34を数える、最も脂の乗った時期のジャンヌ・モローが演じたエヴァ。彼女がカモにした男たち~その代表格が“成り済まし”作家(亡兄の遺稿を盗作!)のティヴィアン・ジョーンズ(スタンリー・ベイカー〈Stanley Baker、1928~76〉※)~を魅力溢れる妖しい残酷な愛で翻弄し破滅させていく、その必然的なプロセスについては、一観客である私にも説得的で痛いほどよく分かる。

※スタンリー・ベイカーと言えば、イギリス・ウェールズ出身の個性溢れる俳優で、史劇・アクション・戦争映画など、幅広いジャンルの映画に出演し、どの作品でも強い意志を感じさせる表情が印象的。私が観た彼の出演作10作ばかりのうち、何よりも思い出深いのは、グレゴリー・ペック、デヴィッド・ニーヴン、アンソニー・クインといった錚々たる名優たちと共演した、「何度観ても面白い、ハラハラドキドキの名作」といわれる『ナバロンの要塞』(原題:The Guns of Navarone、J・リー・トンプソン監督、1961年)である。

ところが他方、御年65歳のイザベル・ユペールが濃艶な厚化粧(ケバいメイク!)で老躯に鞭打って演じたエヴァには、私の感情移入がとかく儘(まま)ならない。魔性の女にして一瞬で男を虜にする高級娼婦などとは噴飯もの!どことなく糠味噌臭いエヴァ⇒ユペールに接客された野郎どもが、どうして彼女に擦り寄り深入りしていくのかが(たとえ職業柄、床上手だとしても)、私には実感的にとらえがたく、どうにも腑に落ちないのだ。要塞のような自宅に顧客を招く彼女は、事の前後で浴槽につかり(あからさまなベッドシーンはない!)、バスローブ姿をさらし、その道のプロであることを知らしめてはいるが、かなり苦しい演出ではないか。若く見せるためのカツラとかミニスカートとかも、だいぶ痛々しい!

ここで角度を変えて、私なりに想像を逞しくしてみよう。世に「蓼食う虫も好き好き」という。人の好みは様々で、男が女に惹かれていく要因も女の若さや美貌だけとは限らない。
他人の戯曲を盗作して成功を手にした新進作家ベルトラン・バラデ(ギャスパー・ウリエル〈Gaspard Ulliel、1984~〉)※は、富豪の娘で若くて美しく脚本編集者でもある婚約者カロリーヌ(ジュリア・ロイ〈Julia Roy、1989~〉)との結婚を間近にしながらも、年長で気が強く横柄な態度をとる~齢を重ねた娼婦の哀しさや情け無さや遣る瀬無さなどを一切見せない~娼婦エヴァに異常なほど好奇心をかき立てられ、ひたむきに執着していった―。なぜだろう?

※ギャスパー・ウリエルは現代フランスが誇る若手の美形俳優。シャネルの香水「BLEU DE CHANEL」のイメージモデルだけあって、その繊細な容姿とエレガントな物腰が魅力的!私によれば、彼はフランス映画界のレジェンドたるアラン・ドロン(Alain Delon、1935~)やジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933~)の若き日と比べて「小粒」の感は否めないが、今後大いに期待される成長株だ。

エヴァ⇒ジャンヌ・モローが魔性の娼婦たるゆえんは、何よりも彼女の全身が放つエロチックなフェロモンに関わっている。そのフェロモンには他の女が持っていない毒があり、ティヴィアン⇒スタンリー・ベイカーがその毒を嗅いでしまうと、我を忘れてエヴァの虜になって狂い、理性の箍(たが)が緩んで破滅してしまう―。
だが、もはや盛りを過ぎたエヴァ⇒イザベル・ユペールの場合は、男を惹きつけるエロチックなフェロモンの全開など期待しうべくもない。ベルトラン⇒ギャスパー・ウリエルがそんなエヴァに真っ向から向かい合っていく基本的な過程は、セクシャルな問題とは異質な次元に関わっている(ウリエルとユペールでは、実年齢で31歳差!)。

ベルトランはもともと下層階級出身で、男娼を生業にしていた過去を持ち、盗作で世に出た成り上がり者。心の底には中流・上流階級へのコンプレックスが溜まり、抑えがたい怒りがある。彼はエヴァと出会い、次第に彼女が自分と同類の人間だと感じる。二人は共に他人を欺く嘘つきで、誰かに成り済ますいい加減な人間であり、その意味合いでよく似た世界-世界観(感)で生きる“似た者”同士である…。同病相哀れむ!ベルトランの場合、盗作作家ゆえの抜きがたい罪悪感に囚われてもいる。次作を期待されつつノートPCを開いても執筆は進まず、才能の欠如が露呈するのではないかと恐れる日々…。やがてエヴァはベルトランにとって “鏡”のような存在と化す。彼は鏡に向かい合って自分を写し、自分の似姿に見つめられながら、一心不乱に願い続ける。彼女を見つめたい、そして彼女に自分を見つめてもらいたい…と。ベルトランは上流階級の賢い婚約者よりも、エヴァといる方が居心地が良く、素に返ることができた。だが、現実は甘くない、残忍冷酷なもの!エヴァにとってベルトランは、ただの金蔓(かねづる)でしかないのだ。

ベルトランの内的世界の根底には、自らの社会的・階級的な劣位に即してエヴァに感情移入し、エヴァを自分自身の、いわば“女性版”と見なす想像上の思いが伏在している―。だとすれば、ベルトランーエヴァ間のビジネスライクな交流(交情)過程~ベルトランのエヴァへの一方的・自己陶酔的な感情移入過程~が進行するかぎり、美形の優男ベルトランは娼婦エヴァにのめり込み、これ以上進めば総てを失い、人生の破滅的な事態に追い込まれることが分かっていながら、その一歩を踏み出さずにはいられない…。

『エヴァの匂い』は究極のファム・ファタール(「運命の女(宿命の女)」)※の映画である。ファム・ファタールとは、いわゆる「毒婦」とか「奸婦」とかの痴話喧嘩の延長上にあるような代物(しろもの)ではない。ヒロインのエヴァは、徹底的に気まぐれで、一切自分の心を相手に対して開かない女性だ。彼女に興味があるのは金だけで、ローマに居を構えて、ローマやヴェニスのホテルにあるカジノ・バーで金のありそうな男を物色しては冷厳に身ぐるみ巻き上げる【映画のワン・シーン:「エヴァ、この世で一番好きなものは何だ?」「お金よ」「何に使うんだ?」「レコードを買うの」 ― 無邪気なほど屈託がないエヴァ!】
そこには、愛だの恋だの感情的なものを退けた高級娼婦としての悠々自適の暮らしがある。このファム・ファタール、エヴァを見事に演じ切ったのが、1950年代後半から60年代前半にかけて巻き起こったフランス映画界の“ヌーヴェル・ヴァーグ(nouvelle vague=「新しい波」)” のミューズといわれるジャンヌ・モローにほかならない。究極の“雌”として“女”として多面的な美しさを露わにするエヴァ⇒モローは、この上なく底意地が悪く冷たい匂いを醸しながら、男たちをさんざんに弄(もてあそ)び、“牡”の脆弱なプライドをズタズタに切り刻む。(盗作)小説が映画化されて金に不自由はなく、それなりにプレイボーイで鳴らすティヴィアン⇒スタンリー・ベイカーは、ヴェニス社交界の花形エヴァ=モローの妖しい凄惨な魅力の虜になって狂い始める。彼女に時に拒絶され、時に受け入れられ、要するに思いのままに翻弄されるうちに、彼は精神的にも肉体的にもほとんど彼女の奴隷のようになってしまう。彼女の足元にひれ伏して憚らず、彼女に罵倒され愚弄され、一文無しの境涯に陥れられて身の破滅を確信しながらも、ただただ彼女を求めずにはいられない…。

※ femme fatale(ファム・ファタール)はフランス語で、「宿命の女(運命の女)」を意味し、しばしば文学や絵画のモチーフとして登場する。「恋心を寄せた男を破滅させるために、まるで運命が送り届けたかのような魅力を備えた女(悪女)」のこと。フランス文学において、はじめて登場するファム・ファタールは、アベ・プレヴォ(Abbé Prévost、1697~1763)によって1731年に刊行された『マノン・レスコー』のヒロイン「マノン」であるとされ、その他、プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée、1803~70)の『カルメン』(1847年)に描かれる「カルメン」など多くの文学作品に登場している。

『エヴァの匂い』のラストシーン:早朝の、人の往来が少ないヴェニスのサン・マルコ広場で、船を待つエヴァと男。男は彼女がカジノ・バーで知り合った初老のギリシャ人。そこにティヴィアンが現われ、「ぼくは君を愛している。いつまでも、いつもの所で待っているからね」と、男の手前も構わずエヴァにすがる。ティヴィアンをまじまじと見つめ、「これから、ギリシャへしばらく観光旅行に行くの。もし、ここへ戻れたらね。…あんたは、あわれな人ね」と言い捨てて、エヴァは新しい男と颯爽と旅立っていく―。

『エヴァ』は「ファム・ファタール」映画には程遠い作品である。
同じエヴァ役を演じたとはいえ、ジャンヌ・モローとイザベル・ユペールを比較するとき、エヴァの魔性の女度~背徳性と退廃性を帯びた眩惑的な魅力度~に照らして、後者が前者より格段に見劣りしていることは明々白々。私の場合は、どうかするとエヴァ=ユペールが土臭い“やり手ババ”のようにも見えて、もう「ファム・ファタール」映画もへったくれもあったもんじゃない!何しろ私を一驚させたのは、彼女には献身的に尽くす愛する夫~刑務所に収監された、強面の美術商ジョルジュ(マルク・バルベ)~がいることだ。イザベル・ユペール版エヴァは、ありきたりの生活臭を帯びた普通の~プライベートでの女性的な慎みを心得た~オバサンの一面も覗かせる。誰も愛さず、誇り高く自由な、徹底的に素性不明で謎に満ちたジャンヌ・モロー版エヴァとは雲泥の違いがある。

『エヴァ』は(ブノワ・ジャコー監督の本来の意図はともかく)“ファム・ファタール”という男を狂わす魔性の女(=他者を道具のように利用し、自分の価値観がこの世のすべてだと考える女性)を、物語のテーマに据えているわけではない。同作の物語では基本的に、盗作家ベルトラン(ギャスパー・ウリエル)と娼婦エヴァ(イザベル・ユペール)という共に社会構造上のウサン臭い立ち位置にある“似た者”同士の「コミュニケーション」過程が描き込まれる。それは端的に言って、ベルトランの嘘を重ねる発話行為を起点かつ基点として営まれる「コミュニケーション」過程であり、そしてそのようなものとして、ベルトラン自身が勝手な自己投射のまにまに、エヴァに積極的・一方的に関わり、自ら負の蟻地獄に落ちていく過程である。繊細な危うさが拭えない青年作家ベルトランは、自らの向かい合わせの鏡に映るエヴァに執着し、自らの幻想的な女性版であるエヴァのおどろおどろしい妄執の虜になる…。

『エヴァ』は一見、悪女エヴァに出会ったことで、人生を狂わされ破滅を迎えた青年作家ベルトランの悲劇を描いた作品を思わせる。しかし、その実、彼が陥った破滅とは、自ら墓穴を掘ったがゆえの“自滅”以外の何物でもない。そもそも盗作した時点で次から次へと嘘を積み重ね、自ら作り上げた虚像にしがみつくベルトランの場合、場当たり的にトラブルがトラブルを生む、のっぴきならない事態が進んでいたのであって、その途中、たまたまエヴァに邂逅したというのが事の実相である。エヴァとの危険な関係の存否にかかわらず、既に彼が自滅の道を一路たどらざるをえない悩ましい状況にはまり込んでいたのだ。彼は自滅的な事態に追い込まれる中、自らの虚飾にまみれた化けの皮が剥がされ、才能のない薄っぺらな男のダメぶりがむき出しになっていった―。

結論的に言えば、『エヴァ』は脚本も演出も色々難あり!『エヴァの匂い』と比較するとき、映画としての説得力に欠ける、また面白味が薄い凡作である。

▼ cf. イザベル・ユペール、ブノワ・ジャコー監督が語る『エヴァ』 ― インタビュー特別映像 :


▼ cf. 以下に、『天国の門』における私にとって忘れがたい印象深い場面、①Harvard Strauss Waltz(the co-ed circle dancing immediately following the Harvard graduation)、②Roller Rink Dance 、③ Champion's Last Stand(Nate Champion 〈Christopher Walken〉 goes out guns a-blazing)の3シーンを掲げる。