仏教では、愛は執着で苦しみを生むものと解釈し、慈悲を推奨します。
キリスト教では、アガペー(無償の愛) を勧めます。
これらは道徳的な側面だけではなく、自分が幸せに生きるコツを教えている側面があります。
行動療法や脳科学でも同様の考察がされています。
愛されることは、とても気持ちの良いものです。
ドラッグに匹敵する気持ち良さとも言います。
つまり、依存を作りやすい"喜び"で、「依存症の作り方」で説明したマウスのエサと同じ位置づけのもの中で、特上のものです。
自分の存在価値が認められる欲求とも関係していて、
- 愛が足らない
- 分かってくれない
というのは、愛される快感への依存症的な傾向と言えます。
ところが、愛される快感をもとめ続けると、徐々に苦しみに変わっていきます。
同じ人からの愛情での喜びは自然に減っていってしまうからです。
この気持ち良さや、喜びというのは、脳内ではドーパミンが関係します。
ドーパミンは、嬉しいことが起きたり特定の薬物を摂取すると、それをきっかけに脳内で分泌されます。
私達が生物として物事を学習するための「ご褒美」で、とても重要なものです。
このドーパミンは、同じ刺激ではだんだんと分泌されなくなっていきます。
動物は環境に合わせて色々覚える必要があるのに、何か一つ気持ち良いものがあると、その他を覚えなくなってしまうからです。
同じ刺激ではドーパミンが減っていくということは、同じ愛され方では気持ち良さが減っていくということです。
相手からの愛情が変わらなくても、気持ち良さから別の喜びへ感じ方が変わっていきます。
人間が考え過ぎずありのままに生きていれば、気持ち良さが減っても問題はありません。
愛を感じ始めた時の気持ち良さが、信頼・親しみ・慈しみなどに変わったり、相手を気遣う衝動を躾けてくれるからです。
つまりは、愛の気持ち良さが親しみ・慈しみに変わり本当の家族間の感情になるということです。
そのような関係をつくったら、その気持ち良さは役目を終えて減っていくというだけのことです。
ところが人は考えてしまいます。
「なぜ、愛のワクワクがへったのか?」
「もっと、愛のワクワクを増やす方法はないのか?」
これらを考え出すと、他責や自責の考えにつながり、不満や不安などの不快な感情に繋がっていきます。
相手が変わらず愛情を注いでくれていても、考え方によっては不足感や不満につながるのです。
つまり、苦しみにつながるのです。
「なぜ、愛がへったのか?」「もっと、愛を増やす方法はないのか?」という考えが、過去や未来に向かっている事に気付けますでしょうか?
いまここに集中していたら、自分の中で育った相手に対する信頼感や、相互扶助への衝動に気付けたかもしれないのに、過去や未来に意識が向かって不満をいだいたために気付けなくなっているのかもしれません。
逆もありえます。
相手の考えや言動が変わり不快な関係になっているのに、「何がいけなっかったんだ」「どうしたら、愛を取り戻せるのか?」と過去や未来に意識が向いていると、相手の心が離れたことに気付けなくなります。
いまここに集中して、ありのままに受け入れることが大切だということす。
「愛されることへの欲求」が、いまここから引き離しているとも言えます。
仏教の慈悲やキリスト教の無償の愛というのは、「愛されることへの欲求」に気付いたり、そこから解放されるための教えなのだと思います。
マインドフルネスでは、慈悲の瞑想(メッタ)という瞑想があります。
私たちを苦しめる「自分を認めて欲しい」「自分を愛して欲しい」という執着から解放されるための瞑想です。
