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SELF SUPPORT STUDY

Hello,everybody!
There are my self support study’s notes.
I rescue myself.I support my fellow.

【書評】「クレイジー・イン・ジャパン べてるの家のエスノグラフィ」中村かれん(医学書院)

 付録のDVDを観た。皆の顔が映っていた。川村Dr.家でのインタビューのところで涙があふれてしまった。川村Dr.が良い話をしたわけではない。ロッジ風の川村家に皆が居る日、それが、私は大好きだった。もちつき、新年会、バーベキュー、どの集まりも、それぞれが自由にくつろいでいて不安はみじんもなかった。あの、ロッジ風に建てた川村家が私は大好きだ。
 山根くんと先日逢ったときも、山根くんがしあわせそうでいいなあと思った。浦河に、遊びに行くと、今でも楽しい。

 向谷地さんに調子が悪いと電話(電話機を折り曲げたので代替機で)をしたら、「調子悪いように偽装しているでしょう?」と言われて、向谷地流のアイロニーな会話に疲れる。

 浦河に遊びに行ったら、皆、私が「調子悪いから来た」と言うと「そうかい」としか言わないし自分のことを喋る。喋る。喋る。喋る。
 私も笑う。笑う。笑う。笑う。笑えてしょうがない。
 三連休、浦河に居たら、仙台に帰って来てからも一ヶ月くらいは元気が安定していた。

 現在、希死念慮は、三日に二日は死にたく感じていて、高めアベレージで推移している。幻聴さんは、悪口という程ではないけれど二十四時間聴こえている。現実の音との見極めが難しくて疲れる。パニックのように不安がこみ上げてくるのは、ストレスを感じやすくなっているのだろう。
 時には楽しさも思い出す。幻聴さんがギャグを言ってくれると面白い。
 しかし、私が罪深いことが原因で他人を困らせて嫌な目に遭うようにさせていることが、気がかりでつらい。
 私が罪深いので、周囲の人を苦しめている。出来るだけ、遠ざかるようにつとめている。気づかれない程度で実行中だ。
 向谷地流に言うと、「病気になっていると偽装している」そうだが、私は私の二十四時間聴こえる幻聴さんも、三日に二日の死にたい感覚も、コントロール出来ない。
 私は、人生の中で既にコントロール不能の時期が来ることを知っていたので、「オリンピックイヤー」と病気を呼んで来た。
 必ず、使者は走って来る。必ず、近づいて来る。病気の使者は、定期的に走って来るのだ。聖火ランナーのように。
 聖火ランナーの走る意味を、本当は知っている。
 病気は偽装、仮の姿なのは本当だ。
 世界と安心してつながるチャンネルを増やして、仲間と出会うため、私は努力していて、病気さんも手伝ってくれて使者を走らせてくれる。
 私は、世界の意味を考え続けなければならない責務を負っている。そのような 運命の元に生まれているから、使者はときが来たらスタートを切るのだ。それは変えられないし、変えたくもないし、変えてはいけない。

 「クレイジー・イン・ジャパン」の中でインタビューを受けている私は、ちょうど、オリンピックの開催中からフィナーレまでを生活の中で過ごした頃だ。
 レインボーハウスの集合写真の私は、引っ越して来た翌日だった。私はカメラを睨みつけていた。その翌日はもちつきのもちをもらって、どんぐりの会の忘年会ではステージで挨拶して、向谷地家の忘年会、川村家の新年会、と大忙しだった。そして、一月三日に赤十字病院の救急外来にかかった。眠っていなかったのだ。
 年が明けてからは、坂を転がり落ちるように、べてるになじんでいった。私は、坂を転がり落ちるように回復した。
 その頃の集大成のインタビューが「クレイジー・イン・ジャパン」の中にある。私はあの頃より、また悪化した。
 ゆっくりゆっくり、べてる時間に体内時計を合わせて行ったように見える山根くんは、今、しあわせそうに見える。
 私も、山根くんも、きっとみんなも、自分の苦労は愛おしいのだと思う。
 私は、「苦しい」と私が今言っても、私から「私(苦労)」を奪わないで欲しい、とお願いしたい。

 近々、川村Dr.とはなしてみたいなと思う。
 今度は平日に遊びに行こうかな。クリニックを受診してみようかな。

 私には、必ず使者が走って来るので、ゆっくり回復することは合わないのだと思う。それでいいのだし、嫌いではない。山根くんと違っていても、不満ではない。
 私は、クレイジーな私で居つづけられて、嬉しい。
 それは、人生に意味を授けてくれるからだ。
 病気は、ギフトだ。
 神に感謝。

(katsuko.)

<都会の生活と田舎の生活>

ベローチェのコーヒーはまずい。ただ、椅子を求めて、一番安いブレンドコーヒーを頼む。飲まないまま帰るまで残すこともある。
椅子とテーブルがあることは、都会では有料だ。
浦河では、浦河港に港の見える公園があって、椅子に座ることを求める人は、べてるメンバーに限らず何人も居る。そこの椅子は無料。
さらに、無料とは思えない美しい景色も見ていられる。
そこに座るカップルは、スマホの画面に各自が夢中だったりする都会の椅子に座るカップルとは違う。
三時間は、同じ場所に、同じ位置で、座っていられる。近づきも触れもしない、あいだの距離感の変化ない三時間を、二人はどう過ごしているのかは知らないが、その無料の時間は、ネットカフェじゃ買えない。カラオケボックスでも買えない。
買える時間と場所は、無料の時間と場所に対しては、何とも無力だ。哀しい程にね。哀れな程にね。
なんでもないことにパワーがみなぎっている場の力は凄い。
浦河の場のパワーは、べてるに限ったことではない。港の見える公園に座る浦河高校のカップルは、プライスレスな愛を知っている。とてもセンスの良い人たちが、この地には住んでいる。
お金を使う部分と、使わなくても充分な部分を、うまく使い分けている。
都会は、全てにおいてお金がかかる。
それはちょっとしたストレスだ。不満もたまる。全ての行動にお金がかかるのは、何とも、ストレスとしか言いようがない。まるで選択権を奪われているようで、むしろ、不便だ。
プライスレスな愛を知る高校生の方が、はるかに、まっとうに生命として活きている。
ただし、都会に住んでいると、お金を使わないで過ごすことは「孤独」やもっとひどく感じるなら「孤立」を指す。
『孤独死』へつながって行く、手ひどく苦しい感覚だ。
ベローチェの店員は全員が、幽霊のようにもの静かに陰鬱な声でマニュアル語を言う。
何なのだ、これは。ベローチェの時給が、最低賃金だから悲しいのだろうか? と、心配になって来る。
都会に居ると、死はとてもひどく苦しい感覚のものだ。
あの浦河では、きっと、皆に看取られるなら幸せだろうな、と考えるだろう。
「死」と「孤独」とが連なっているだけで、生命として活きる道が狭まるような気分に陥って行く。
あの浦河の海が見える公園は、死へと安心して続く道が、見えるので、私は、好きだ。
「ピア・レスパイト」だと勝手に言いながら、休日の浦河に遊びに行くことが、私のプライスレスに得る「活きる力」だ。

By katsuko.



 統合失調症は、私にとって、遠い太鼓だ。
 遠くで、遠雷のように、低く反響し続いている。断続的に、いつも聴こえている。
 遠い太鼓は、入り込む隙を狙っている。隙を見つけたら、すっと入ってくる。
 人はそれを症状の増悪と呼ぶ。ときには入院を進められることや服薬を調整することへの同意を求められる。そのような対処をしたら、統合失調症は世界に存在を許可されるらしいのだ。なので、私は本意ならずとも同意する。
 統合失調症が遠くから待っている隙とは、私と世界との断絶だ。
 ふと私の気持ちが空しくなる空虚感を、待っているのが、統合失調症だ。この空虚感は、私と世界の間のクレバスであり、背筋が寒くなるような種類の断絶を意味している。
 そのとき、統合失調症は入り込んでくる。唐突に、太鼓の音は烈しく近くに在る。
 ほかの音は聴こえなくなるほどの烈しい太鼓のリズムだ。
 その烈しいリズムは他の存在との共存を許さないほどの、表現への鬼気迫る熱い情熱を持っている。
 世界からも援護はなく、太鼓のリズムは苛烈だ。私は、孤立無援の口笛すら吹けずに立ちどまる。私は私の中心に居ることが難しくなる。
 だからいつもは、遠い太鼓のゆっくりと響き続けるリズムにすら、耳を澄ませる私が居る。
 我が家は、とても静かだ。
 そっと無音の中で過ごしている。
 はっとむやみにテンションが上がると、下がるときに、私と世界とのつながりの糸がプツっと切れてしまったりする。そのとき、太鼓がどうんんんんん…と鳴る。
 ただし、実はこうも感じている。
 統合失調症という遠い太鼓は、悪いものでもないなと思う。
 ただそこに存在している響きだ。
 私と世界とのつながりの糸の途切れやすさや繊細な断絶のほうがはるかに、私は、心配だ。
 そっと、途切れないように静かな生活をしている。
 それも、少しの冒険だって欲しいと思う向きもあるかもしれない。そう言われても、私は、鳴り続けてやまない遠くからの太鼓が背筋に汗を滲み出しながら気になる。
 考えていることはもっと別なことだ。
 ほかに選べないことが不満なのだ。
 私と世界の間に住み着く者は多様であって良いと思っている。
 私と、世界と、その隙間に、どんどん入って来てずかずかと居座ってくれるような、そんな気安い人たちが好きだ。
 漁船が帰って来て、烏賊がたくさんもらえたからこれから捌いてみんなで食べよう! と子蜘蛛のように集まるみんなの中に、私が自然と居る町で、暮らしたい。
 それに、遠くで鳴り響く太鼓の音色も悪くはない。嫌いではないのだ。
 今は、静かな生活を過ごしているけれども、いつか来る運命を確信的に待っている。私と、世界と、統合失調症以外の誰か気安い人と、遠いところでゆったりと断続的に鳴る太鼓と、そのバランスの中で芸術的とも言えるアクロバティックな生活をしたいのだ。

(katsuko.)