<都会の生活と田舎の生活>
ベローチェのコーヒーはまずい。ただ、椅子を求めて、一番安いブレンドコーヒーを頼む。飲まないまま帰るまで残すこともある。
椅子とテーブルがあることは、都会では有料だ。
浦河では、浦河港に港の見える公園があって、椅子に座ることを求める人は、べてるメンバーに限らず何人も居る。そこの椅子は無料。
さらに、無料とは思えない美しい景色も見ていられる。
そこに座るカップルは、スマホの画面に各自が夢中だったりする都会の椅子に座るカップルとは違う。
三時間は、同じ場所に、同じ位置で、座っていられる。近づきも触れもしない、あいだの距離感の変化ない三時間を、二人はどう過ごしているのかは知らないが、その無料の時間は、ネットカフェじゃ買えない。カラオケボックスでも買えない。
買える時間と場所は、無料の時間と場所に対しては、何とも無力だ。哀しい程にね。哀れな程にね。
なんでもないことにパワーがみなぎっている場の力は凄い。
浦河の場のパワーは、べてるに限ったことではない。港の見える公園に座る浦河高校のカップルは、プライスレスな愛を知っている。とてもセンスの良い人たちが、この地には住んでいる。
お金を使う部分と、使わなくても充分な部分を、うまく使い分けている。
都会は、全てにおいてお金がかかる。
それはちょっとしたストレスだ。不満もたまる。全ての行動にお金がかかるのは、何とも、ストレスとしか言いようがない。まるで選択権を奪われているようで、むしろ、不便だ。
プライスレスな愛を知る高校生の方が、はるかに、まっとうに生命として活きている。
ただし、都会に住んでいると、お金を使わないで過ごすことは「孤独」やもっとひどく感じるなら「孤立」を指す。
『孤独死』へつながって行く、手ひどく苦しい感覚だ。
ベローチェの店員は全員が、幽霊のようにもの静かに陰鬱な声でマニュアル語を言う。
何なのだ、これは。ベローチェの時給が、最低賃金だから悲しいのだろうか? と、心配になって来る。
都会に居ると、死はとてもひどく苦しい感覚のものだ。
あの浦河では、きっと、皆に看取られるなら幸せだろうな、と考えるだろう。
「死」と「孤独」とが連なっているだけで、生命として活きる道が狭まるような気分に陥って行く。
あの浦河の海が見える公園は、死へと安心して続く道が、見えるので、私は、好きだ。
「ピア・レスパイト」だと勝手に言いながら、休日の浦河に遊びに行くことが、私のプライスレスに得る「活きる力」だ。
By katsuko.
