統合失調症は、私にとって、遠い太鼓だ。
遠くで、遠雷のように、低く反響し続いている。断続的に、いつも聴こえている。
遠い太鼓は、入り込む隙を狙っている。隙を見つけたら、すっと入ってくる。
人はそれを症状の増悪と呼ぶ。ときには入院を進められることや服薬を調整することへの同意を求められる。そのような対処をしたら、統合失調症は世界に存在を許可されるらしいのだ。なので、私は本意ならずとも同意する。
統合失調症が遠くから待っている隙とは、私と世界との断絶だ。
ふと私の気持ちが空しくなる空虚感を、待っているのが、統合失調症だ。この空虚感は、私と世界の間のクレバスであり、背筋が寒くなるような種類の断絶を意味している。
そのとき、統合失調症は入り込んでくる。唐突に、太鼓の音は烈しく近くに在る。
ほかの音は聴こえなくなるほどの烈しい太鼓のリズムだ。
その烈しいリズムは他の存在との共存を許さないほどの、表現への鬼気迫る熱い情熱を持っている。
世界からも援護はなく、太鼓のリズムは苛烈だ。私は、孤立無援の口笛すら吹けずに立ちどまる。私は私の中心に居ることが難しくなる。
だからいつもは、遠い太鼓のゆっくりと響き続けるリズムにすら、耳を澄ませる私が居る。
我が家は、とても静かだ。
そっと無音の中で過ごしている。
はっとむやみにテンションが上がると、下がるときに、私と世界とのつながりの糸がプツっと切れてしまったりする。そのとき、太鼓がどうんんんんん…と鳴る。
ただし、実はこうも感じている。
統合失調症という遠い太鼓は、悪いものでもないなと思う。
ただそこに存在している響きだ。
私と世界とのつながりの糸の途切れやすさや繊細な断絶のほうがはるかに、私は、心配だ。
そっと、途切れないように静かな生活をしている。
それも、少しの冒険だって欲しいと思う向きもあるかもしれない。そう言われても、私は、鳴り続けてやまない遠くからの太鼓が背筋に汗を滲み出しながら気になる。
考えていることはもっと別なことだ。
ほかに選べないことが不満なのだ。
私と世界の間に住み着く者は多様であって良いと思っている。
私と、世界と、その隙間に、どんどん入って来てずかずかと居座ってくれるような、そんな気安い人たちが好きだ。
漁船が帰って来て、烏賊がたくさんもらえたからこれから捌いてみんなで食べよう! と子蜘蛛のように集まるみんなの中に、私が自然と居る町で、暮らしたい。
それに、遠くで鳴り響く太鼓の音色も悪くはない。嫌いではないのだ。
今は、静かな生活を過ごしているけれども、いつか来る運命を確信的に待っている。私と、世界と、統合失調症以外の誰か気安い人と、遠いところでゆったりと断続的に鳴る太鼓と、そのバランスの中で芸術的とも言えるアクロバティックな生活をしたいのだ。
(katsuko.)