SELF SUPPORT STUDY -3ページ目

SELF SUPPORT STUDY

Hello,everybody!
There are my self support study’s notes.
I rescue myself.I support my fellow.


仙台では、国連防災会議が開かれていて、街中は一気にグローバル化しています。
その中で、関連企画の市民防災世界会議を聴講してきました。

中でも、「多様性と災害対応~障がい者・LGBT・ジェンダー・外国人の視点から~」というセッションが興味深かったです。

多様なマイノリティーの方々は、平時から困っている人なのですが、災害時は特に浮き彫りになります。そしてまた、自覚的には浮き彫りになるほどコミューンから遠ざかり、「避難所に障害者が居ない」という困り感の見えない状態を作ってしまいます。
マイノリティーも含めてお互い様として助け合うことの出来るレジリエンスの高い社会は、災害時のレジリエンスも高いのだと理解しました。
それは内側から沸き起こる復興とも言えると思います。

質疑応答の中で質問させていただいて理解したことは、

ありのままを受け止めてくれる居場所

声を挙げていいんだ
困っていると言っていいんだ

多様な当事者の専門性をもって声が集まる

回復力の高い社会へのパラダイムシフトが起きていく

という、良好な循環でした。

これを作り出すことが、日本において必要だと感じました。それは、多数派にとっても住みやすい社会でもあります。
医療の分野でも話題になっているレジリエンス(回復力)ですが、社会もまた回復する存在であるのです。
精神保健の分野でも、回復はリカバリー概念に結実しているように、ありのままを認め受け入れることから進みます。
そこで、浦河べてるの家で言われる、「悩む力」ということに、私は思い当たるのです。
悩む力を取り戻していくことが、人間性の復権であり、回復する力を生み出すのです。
困り感をマイノリティーが自覚しないまま、社会の仕組みの中に窮屈に孤立していることは、レジリエンスを高めはしないでしょう。
ですが、東北は首都圏よりも窮屈さは旧態依然だと思います。
まずは、困って悩むということを当事者が受け止めていける居場所が急務だと感じました。
困って悩むことの可視化は、一旦は苦しいですが、それをコミューン全体で受け止めていかなければなりません。

今回の防災会議は、市民向け企画では、展示やシンポジウムなど全体的に、その点でもどっしりと受け止めている実感を得ました。

ひとりひとりが、別のひとりの悩みに共感して、声が広がることを願います。

向谷地生良さんたちは、セキュリティーの厳しい本会議で登壇とのこと。浦河べてるの家の、幻聴さんとも一緒に逃げる防災取り組みが、注目されているのではないでしょうか。

Katsuko.
「摂食障害者の主観・反転・“非”常識」


私は、乾燥する季節がつらいです。
吐きダコが、右手にあるのですが、あかぎれて痛いことこの上ないのです。
そう、「マー」こと「食べ吐き」をするときに出来る副産物の一つです。手の甲にタコが出来るのは、手をのどに突っ込んだときに前歯が当たるから。一般的には他に、逆流性胃腸炎・歯のエナメル質が溶ける、などの副産物があります。向谷地ノリくんに、「宮西さん、口開けてたら、前歯のエナメル質がないからすぐ(摂食障害だということが)分かるよ」と言われたことがあります。
痛くて、対処法を調べてみようと思って、ぐぐったら、画像で見れる吐きダコより私の吐きダコのほうがはるかに大きいのと、魚の目用の貼り薬を使いましょう、とか書いてあって、サイズ的にタコが大きすぎて無理です。

痛いとかぼやくけど、吐きダコは自己責任。

と言われるかもしれませんが、
ここで想像してほしい。
たとえ話で聞いてください。

空気がどんどん減っていく密室に閉じ込められていたら。
どんな冷静な人物でも、パニック状態になるでしょう。
きっと、素手でも拳を振り上げて窓ガラスを割ろうとするでしょう。
どんな人徳がある人物でも、器物や自分の手を傷つけてしまうでしょう。

それは、自己責任ですか。

いや、環境と人間のあいだの関係性の結果ですよね。

心が、空気のなくなる密室になってしまうような病いが、摂食障害です。
他の自傷系の症状を持つ病いもそうでしょう。
自分の唯一無二の「心」が、危機を迎えているという事態は、それはもうパニック状態になります。引っ越すことが出来ないのですから。
私たちは、神社の階段を転げ落ちても、他人と入れ替わることは出来ません。
それは映画の中。
でも。
空気のなくなる密室は、ホラー映画ではなく、現実の私たちの人生に起こります。

ただ、今私がタコがあかぎれて痛いとだけぼやくことが出来ているのは、私がサバイブして生還したから、とも言えます。
生きている実感を、生還者だという実感を、吐きダコは教えてくれます。
だから。
私は、私の吐きダコも人に紹介してあげることがよくあります。
私の「名誉の勲章」だと、紹介します。
消したいとは思いません。
冬は痛むけど、だからといって、タコを除去したいのではないのです。
あかぎれに良く効く民間療法があったら教えてくださいね。広く募集中です。

摂食障害から、私は生還したかもしれません。
その道のりの中では、半年間固形物を食べなくて真水しか受け付けず、体重は40kg、そして入院、という時期もありました。そして、「マー」の毎日や、過剰にダイエット法に夢中になることの日々。それは全部、過酷な密室から生還しようという生きるための必死の努力でした。そう、私の苦労や病いは、全部、「真っ当な努力」でした。
私を助けたのは、自助グループで語り合える仲間との出会いでした。つながれる他者がいつでも居る世界との出遭いでした。
そう、苦労や病いを治していてはいけないのです。
それは、せっかくの真っ当な努力を自己否定することでした。
本当は、空気が循環するシステムを教えてもらうことが大切でした。
心の密室のドアを開けるカギを取り出すことが、私を生還させました。

ちょっとウエットな文体になってしまいましたね。
私は、摂食障害を「汚い」とか「食べ物を無駄にされた」とか迷惑だと言われては悲しくなる日々だったので、ちょい、今、はんべです。てへ。
たまたま、空気がなくなる密室になる心の状態に陥ったことが課題でした。それは、社会や友達や家族や、つながりの中で再度焼き直して語り直して、社会のテーマとして底上げするように発信して、「課題をみんなのものに持ち上げていく」必要があることです。
当事者研究の理念のひとつ、「主観・反転・“非”常識」。
これは、私の経験のように、当事者の主観を信じて、他者の視点を反転させていく、常識にとらわれない行いです。
哲学でいえば、コモンセンスを問うてるのかな?
非がかっこに入っていることの意義ってとても大きいのです。
単なる非常識では、ないのです。
非常識ほど、常識を過剰に意識していることはないと言えるでしょう。
コモンセンスを意識しないこと。常に識していることを、考えずに超越していくのです。それが、かっこに入っている非の意味でしょう。
それって、今流行りはじめた、「マインドフルネス」かな?
識が私たちをしばっていることは、いいことでもあります。秩序ですから。でも、ひとたび空気のない密室に落ちた人にとっては足枷です。必要とされるのは観です。
ただ批判なく、状況を観ることです。

色々な概念に関わってくるのが当事者研究で、その心の旅路が面白い醍醐味です。
単なるプログラムと思わずに、心のカギを開けて楽しんでもらいたいものです。

私にとっては、吐きダコも自分の一部になりました。勲章受章者なんです。だから、いつも着けていて携帯しているだけなんですよ。
乾燥する季節は、メンテナンスが大変なんですが、いいものなんです。
勲章って、それ自体に価値ってないですよ。ただの刺繍だってば。着けている本人の誇らしさという主観によって、意味が出てくる物です。
そういう、「いいもの」です、私の勲章も。

社会の中で「課題をみんなのものにする」ことが、私のこれから取り組みたいことで、ブログを書くこともその取り組みの一つですね。
では、また。

(katsuko.)
<生命の苦しみを包む原罪・罪悪感>

罪悪感について考えようとしている。
原罪について考えていた。
生命は苦しみだ。
それを原罪と呼ぶのかな、と、イザナミ神話に絡めて考えた。罪ではなくて、苦しみだと感じるのだ。
苦しみとのお付き合いの誤作動系が原罪や罪悪感ではないかと感じている。
誤作動系だからいくらでも飛び火するのだと思う。
本来は、お付き合いしてもらいたいと切に思ってくれているのは、苦しみさんではないかと思う。
断罪や生命に終わりが来るという意味での救済に、夢を見がちなのが「罪人」だ。しかし、罪を人間は生まれながらは持たない。持つのは苦しみだ。
苦しみは断罪されない。
苦しみは終わらない。
罪悪感の疾病利得は、断罪で終われることにある。これは病気のメリットとしてとても大きい。
実は終わりのない生命の苦しみが、本当にお付き合いする相手なのだけど、オブラートに包むと、原罪の場合のように、罪に見えるのかもしれないと考えた。
だから、人間は、神話の中に「原罪」を作り、逃げ道を自分たちに与えたのだ。包まれて、その間だけは、明後日の方向に悩んでいれば済む。

しかし、私は逃げ道に助けられたいとは、真には思っていない。よくよく考えれば、そうではないと心は叫んでいる。

生きることが罪ではなく苦しみなら、むしろ救いのように感じる。苦しみならば、甘んじて受けたいと思うのだ。
終わりはないが、それは希望でもあるのが、苦しみだ。生命が生き続けるリカバリーの過程が苦しみと同期しているような気がしてならないのだ。
リカバリーという「希望」と、共にあるのが、「苦悩」だ。
そのうちの片方をよしずの陰に隠すなら、きっと人は疲れているのだろう。しかし、疲れを拭ったら、日に当てなければならない。
その二つは、共にあるのだから。

罪悪感の効能にもっと切り込んで行こうと思う。

罪悪感は、どの信仰を持っていても持っていなくても、「神」的ななにかと自分との間柄の中にある。

ユングは、少年期に受けた神からの啓示を、自伝で明かしていて、その経験はユングの心理学研究に大きな影響を与えていた。
ユングの受けた啓示はこのようなものだった。

 『私の目の前に美しい大聖堂が立っていて、その上方に青空が広がっていた。神は世界の上方の高みで黄金の玉座に座っていて、玉座の下から極大の糞塊が教会の新しい彩色の屋根に落ちて、それを粉々に砕き、教会の壁をばらばらに壊す。』

見た目に美しい信仰の姿など、それこそ、糞食らえなのである。神は、不条理というくらいに苦悩を人間にもたらす。何をご機嫌取りしようとも。
ユングは、罪は、神が予定調和で人に与える運命であると、悟ったと言う。
それは、「苦悩する人間」として人類を類型したフランクルの心理学にも通じるのではないだろうか。

苦しみさんが、糞だったら、楽しい。
そういうイメージで苦しみさんを見るならば、私は毎日(便秘の人も居るかもしれないけど)苦しみさんとトイレでこんにちは! をしているのだ。
毎日、他人より自分が生きて、殺生して、食べて、生活してたら、必ずやってくる苦しみさんが糞だ。確かに、重いテーマだ。
糞を見ないようにする、という文明の発展も、実際に感じる。罪悪感の誤作動が猛威を振るうのは、自分自身が、糞を見れない眼を持っているからかもしれないと思う。

これから苦しみさんをイメージするときは、糞の絵を考えようと思う。
漫画「アラレちゃん」に出てくる糞でいいので、それをイメージしようと思う。

罪悪感さんと、苦しみさんと、分別してゴミ出しする必要があるようだ。
それを全て、罪悪感さんに「もってかれる」のは、人として残念無念だ。
次に、罪悪感さんのイメージキャラクター作り、などを行い、罪悪感さんを分解して調査してみたいと考える。

罪悪感さんは、やはり、ベルゼブブではないかと思う。蠅だ。
どこかから飛んで来て、まとわりつくのだ。
そして、ベルゼブブに私の魂が乗っ取られ飛んでいかされるのだ。

重要なことが見えてくる。

ちゃんと、水に流すことが出来ること。
苦しみを水に流す作業、あるいは流水で洗って、碧い染め物に変えてしまう作業。
なんらかの変換作業をするのが大切だ。放置すれば、ベルゼブブが飛んで来る。

そんなイメージで創り上げると、心の作業は、楽しいと思う。


(katsuko)