「罪悪感の当事者研究」 | SELF SUPPORT STUDY

SELF SUPPORT STUDY

Hello,everybody!
There are my self support study’s notes.
I rescue myself.I support my fellow.

<生命の苦しみを包む原罪・罪悪感>

罪悪感について考えようとしている。
原罪について考えていた。
生命は苦しみだ。
それを原罪と呼ぶのかな、と、イザナミ神話に絡めて考えた。罪ではなくて、苦しみだと感じるのだ。
苦しみとのお付き合いの誤作動系が原罪や罪悪感ではないかと感じている。
誤作動系だからいくらでも飛び火するのだと思う。
本来は、お付き合いしてもらいたいと切に思ってくれているのは、苦しみさんではないかと思う。
断罪や生命に終わりが来るという意味での救済に、夢を見がちなのが「罪人」だ。しかし、罪を人間は生まれながらは持たない。持つのは苦しみだ。
苦しみは断罪されない。
苦しみは終わらない。
罪悪感の疾病利得は、断罪で終われることにある。これは病気のメリットとしてとても大きい。
実は終わりのない生命の苦しみが、本当にお付き合いする相手なのだけど、オブラートに包むと、原罪の場合のように、罪に見えるのかもしれないと考えた。
だから、人間は、神話の中に「原罪」を作り、逃げ道を自分たちに与えたのだ。包まれて、その間だけは、明後日の方向に悩んでいれば済む。

しかし、私は逃げ道に助けられたいとは、真には思っていない。よくよく考えれば、そうではないと心は叫んでいる。

生きることが罪ではなく苦しみなら、むしろ救いのように感じる。苦しみならば、甘んじて受けたいと思うのだ。
終わりはないが、それは希望でもあるのが、苦しみだ。生命が生き続けるリカバリーの過程が苦しみと同期しているような気がしてならないのだ。
リカバリーという「希望」と、共にあるのが、「苦悩」だ。
そのうちの片方をよしずの陰に隠すなら、きっと人は疲れているのだろう。しかし、疲れを拭ったら、日に当てなければならない。
その二つは、共にあるのだから。

罪悪感の効能にもっと切り込んで行こうと思う。

罪悪感は、どの信仰を持っていても持っていなくても、「神」的ななにかと自分との間柄の中にある。

ユングは、少年期に受けた神からの啓示を、自伝で明かしていて、その経験はユングの心理学研究に大きな影響を与えていた。
ユングの受けた啓示はこのようなものだった。

 『私の目の前に美しい大聖堂が立っていて、その上方に青空が広がっていた。神は世界の上方の高みで黄金の玉座に座っていて、玉座の下から極大の糞塊が教会の新しい彩色の屋根に落ちて、それを粉々に砕き、教会の壁をばらばらに壊す。』

見た目に美しい信仰の姿など、それこそ、糞食らえなのである。神は、不条理というくらいに苦悩を人間にもたらす。何をご機嫌取りしようとも。
ユングは、罪は、神が予定調和で人に与える運命であると、悟ったと言う。
それは、「苦悩する人間」として人類を類型したフランクルの心理学にも通じるのではないだろうか。

苦しみさんが、糞だったら、楽しい。
そういうイメージで苦しみさんを見るならば、私は毎日(便秘の人も居るかもしれないけど)苦しみさんとトイレでこんにちは! をしているのだ。
毎日、他人より自分が生きて、殺生して、食べて、生活してたら、必ずやってくる苦しみさんが糞だ。確かに、重いテーマだ。
糞を見ないようにする、という文明の発展も、実際に感じる。罪悪感の誤作動が猛威を振るうのは、自分自身が、糞を見れない眼を持っているからかもしれないと思う。

これから苦しみさんをイメージするときは、糞の絵を考えようと思う。
漫画「アラレちゃん」に出てくる糞でいいので、それをイメージしようと思う。

罪悪感さんと、苦しみさんと、分別してゴミ出しする必要があるようだ。
それを全て、罪悪感さんに「もってかれる」のは、人として残念無念だ。
次に、罪悪感さんのイメージキャラクター作り、などを行い、罪悪感さんを分解して調査してみたいと考える。

罪悪感さんは、やはり、ベルゼブブではないかと思う。蠅だ。
どこかから飛んで来て、まとわりつくのだ。
そして、ベルゼブブに私の魂が乗っ取られ飛んでいかされるのだ。

重要なことが見えてくる。

ちゃんと、水に流すことが出来ること。
苦しみを水に流す作業、あるいは流水で洗って、碧い染め物に変えてしまう作業。
なんらかの変換作業をするのが大切だ。放置すれば、ベルゼブブが飛んで来る。

そんなイメージで創り上げると、心の作業は、楽しいと思う。


(katsuko)