「苦労の丸投げ」
本日は、当事者研究としては懐かしの古い技系の「苦労の丸投げ」を題材にしたいと思います。
最近さすがに、丸投げの名手には新たに出逢っていないなあと振り返ってみて、その時代の流れが、すこし不思議(SF)だなと心にとまったからです。
べてるでは、ミドルネームをつけることも女性メンバーを中心に流行りました。私のミドルネームは、『ギワクーニャ』です。疑惑の人系の罪業妄想とウオッカ好きのロシア系かと見紛う酒豪ぶりから、ロシアっぽい語感です。かよちゃんが付けてくれたっけなあ♪
「私、丸投げかも!」とこの記事を読んで感じた方は、『マルナゲータ』とミドルネームを付けて呼び合ってみると、苦労が楽しくなってくるかもしれません。お勧めします。
さて、苦労を丸投げするってどういうことでしょうか。
最大の特徴は、「自分が困り感を持っていない」「行き詰まったという切迫感が延々とやって来ない」という二点です。
困らないから自分に苦労が迫って来ないのです。
苦労は、出来れば早めにお帰り願いたいもので、あまり直視したくもないし、マニュアルでもあれば最高なのに! と感じやすいものです。(恋を見つけることがマニュアル化出来たら最高だと思う人が多いように。)
つまり、苦労を解消したくてたまらないから、苦肉の策という形の一人で編み出した無意識の技が、「苦労の丸投げ」です。
苦労は、本人から、身近な家族や支援者や近しい仲間・友人に、ぽんぽんと投げられます。苦労の解決は、周囲の人たちにゆだねられます。というか全面的に任せられます。本人は、他人が決めてくれるのを待つだけです。決めてもらうことを確約するためにも、苦労は休み無く投げつけることが大切です。
解決法のアウトソーシングという訳です。
一見、合理的にも見えます。しかも、現在も多くの地域の精神医療の現場で起き続けている現象のようにも思います。「本人に苦労をさせずとも、精神科病院の敷地内についこの間まで病棟があった場所に住居を作るから、何も悩まずに数メートルだけ移動したら退院出来るのですよ。」といった様に、ね。
ですが、大変な課題があります。幾つか例えを想像することが出来ている方々もいらっしゃるかもしれません。その想像は大切ですので、そこからイメージをふくらませて考えてみてください。
本人の「苦労」は、他人に相談するとか行動化して、他人に苦労の解決策をたくさん考えてもらったら、確かに助かります。だから言えることは、丸投げは『病気の品格』の問題だということなのです。マナーや品格を逸脱したら、悪循環が終わらないことになって行って、結果、誰にも得はないのです。
ほら、「自分のせいじゃないの、親の育て方が悪いの」って、親に迫るとか。で、自分は共同作業的に苦労に取り組むことはしない、って。二択すらなく一択(例:母原病)で、休む間もなく苦労を丸投げされて来たら、反論も出来なくなりそうです。
ポイントは、自分が共同作業しないこと。休むこと無く(休ませないで)丸投げる。の二点だと思います。
そこから生まれるデメリットは、おおかたは「本人が苦労を苦悩の深さまで身に染みて感じ取る時間が生まれない」「本人が道具として使うことだけに集中するので苦労の来てくれた意味を考えない(苦労自体の自律性に気づかない)」ということでしょうか。
となると、苦労を人生や運命からの賜物(ギフト)として、認め、受け入れる、という段階を踏むことは出来ません。
ここ数年、丸投げを精神医療のユーザーにはあまり見かけなくなった要因は、やはり根本で「自分の人生を生きたいと希求している」からかもしれないと思います。あんまり、従順に騙されなくなって来たかもしれないのでしょう。
苦労を丸投げして、得られた助言は、結局は付け焼き刃です。
この身に染み込むことはありません。
余計に、渇望ばかりがふくらむのです。
私たちは、いつでも、と言うほど、出来た人間ではないので、時々ハッと気づいて冷や汗が出た瞬間で良いので、『病気の品格』を肝に銘じて自律してみる必要があると思います。まず、「私」が、ですよ。本当に。
ついつい楽なアウトソーシングをやりたくなってしまうのが人間の業かもしれないからです。
丸投げに出逢ったらどうしましょうか。
『マルナゲータ』とミドルネームを付けて、当事者研究として楽しくワイワイガヤガヤと取り上げるのが良いかもしれません。
きっと、ですが、孤独な切迫感の中での、無意識の自己対処が「苦労の丸投げ」だったのかもしれないと、私は思います。
孤独をやめよう。
共同作業しよう。
共同開発で対処法を出していこう。
共同研究で生活の場で実験しよう。
私は、丸投げという他人に嬉しくない対処の、その奥に、堪え難いほどの孤独の地層を発見してしまうような気がしているのです。
そして、この先は、柔らかくて植物が繁るような黒土を耕すことを、一緒にしたら、なんまら楽しかんべ! と思うのです。
By katsuko.
宮城県石巻市で、向谷地生良さんの講演があります。
5月10日と11日です。
お近くの方は、ぜひともどうぞ。
今年のべてるまつりは、8月の末になります。
また、全国当事者研究交流集会は、11月中旬に東京で開催です。
私も、参加を検討中です。
でも、一番したいことは、なんでもない日に浦河に「遊びに」行くことですね。
物理的に離れてしまうと、この「遊びに」という感覚で行くことが出来なくなってしまい、このことは由々しき問題だ! と思っています。
なんでもない日が、浦河という町は一番素敵なんです。私にとって。。。
by katsuko.
5月10日と11日です。
お近くの方は、ぜひともどうぞ。
今年のべてるまつりは、8月の末になります。
また、全国当事者研究交流集会は、11月中旬に東京で開催です。
私も、参加を検討中です。
でも、一番したいことは、なんでもない日に浦河に「遊びに」行くことですね。
物理的に離れてしまうと、この「遊びに」という感覚で行くことが出来なくなってしまい、このことは由々しき問題だ! と思っています。
なんでもない日が、浦河という町は一番素敵なんです。私にとって。。。
by katsuko.
「講演活動とスポットライト症候群」
向谷地さんの新刊について書評でも書こうと思って、購入して来たのですが。
『吃音の当事者研究 どもる人たちが「べてるの家」と出会った』(向谷地生良・伊藤伸二著 金子書房 2,000円+税)
あまりに私のことを書いているので、私が書評を書いたら、手前味噌なのでやめます。
読んでいて、ふと、連想したのが、講演活動に伴う「スポットライト症候群」のことだったので、そのことについて書きます。
スポットライト症候群とは、講演活動で脚光を浴びて、むしろ居心地が悪い上に調子も崩す、という状態を指すと、私は概略的に述べておきます。
病気と上手く付き合う方法を当事者研究して、注目されて、講演でも喋って、ということをしていると、陥りがちなのがスポットライト症候群です。
病気と上手く付き合うことが出来るようになって来た。
割と喋りもたつ。
こういう人がなりやすいと思われます。
「病気から生還した→これからはメッセンジャーの役割をしなければ」こういう矢印が本人の中に出来ると、スポットライト症候群は起きます。実際には、向谷地さんや川村敏明先生は、病気の調子が悪い人程講演に抜擢して喋ってもらう、という人選をしているので、実際のところべてるの講演はこのような矢印ではないことが多いです。
ですが、割と喋りがたってしまうキャラの人は苦労を抱えることになります。
スポットライトの眩しい光の中は、病気の御旗を振ることが出来ますが、その一歩隣の闇には、社会的スティグマ(偏見差別)が多様に混ざり合う大海原があるのです。
本著の中で、「今まで自分が統合失調症をもっていることが自分の錦の御旗になって、そのことで生きてこられたのに、その看板の字がだんだん色褪せてきて、ただのひとりのソーシャルワーカー、ただひとりの自分という看板で生きなくてはならなくなったときにものすごく不安で、何を頼りにして生きていったらよいかわからない」(向谷地2013;p176)と、私の最新の相談をぶっちゃけて書いていますが(笑)。多様性の大海原には、ただひとりの自分でしかない裸の自分で泳ぎださないといけないのです。病気の御旗が振れるのは、もう流行遅れの技なのだと、肝に据えて。
スポットライトのじりじりと熱い光から出るのは、とても怖いのです。ですが、闇の中に泳ぎださなければならないのが、スポットライト症候群の宿命です。その熱い光の中で、病気にしがみついてはもったいないのです。
講演活動では、ユーモアたっぷりにユニークな意見を向谷地さんも私も述べるので、質疑応答の時に本気で「不謹慎な!」と怒られることも度々です。私も向谷地さんもそんなお怒りのご意見に「のほ~」としてお答えしますけれども。本気で「不謹慎!」と直接お怒りくださる方は、とてもセンスがいい方々だと思います。その向こうの闇に、多様な考えを持って、斜めに見ていたり偏見を持っていたりする無言の方々が居るはずです。闇に泳ぎだすのが怖いのは、そんな予想からでしょう。ただ、多様性の大海原は、それこそ全ての命を育む多様性なのです。だから、泳ぎだす勇気が重要なのです。
矢印の話に戻り、「生還のメッセンジャー」という使命感を持ってしまうと、雑多な思惑を持っている視線へ、身体が固くなるというか、力が入り過ぎているために柔軟になれないのではないでしょうか。
吃音もまた、雑多な思惑という大海原への航海のように感じられます。
当事者の講演活動は、スポットライト症候群とも付き合うために、雑多な思惑を持つ多様な人々を、「豊潤の海」と捉え直すことが重要ではないかと考えます。
そして、人生を自分が生きることは、その「豊潤の海」を泳ぐことなのです。そこに恐れや不安は付いて回ります。裏腹に悲しみもある、それであたりまえであり順調なのです。
あまり、一般化した答えらしい答えではありませんが、私は今日も、粛々と一日一日を生きています。
書評といえば、併せて購入した『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(押見修造著 太田出版 660円+税)の方が当たりでした(汗)。ここまで書いて向谷地さんの本を薦めないということが笑えますけど。
著者は吃音を持っていて漫画家になった方で、吃音を持つ主人公の青春を描いています。絵柄もかわいいし、青春漫画としてもおすすめです。この主人公の志乃ちゃんも、多様性の大海原へ泳ぎだした青春なのではないでしょうか。
肩に力が入り過ぎていて辛い当事者の方がいらっしゃったら、是非とも、鏡を見て!そして変顔をして!おもいっきりありえない変顔をして、クスッと笑えて来たら、親指を立てて満面の笑顔を自分に見せてあげてください。
By katsuko.
向谷地さんの新刊について書評でも書こうと思って、購入して来たのですが。
『吃音の当事者研究 どもる人たちが「べてるの家」と出会った』(向谷地生良・伊藤伸二著 金子書房 2,000円+税)
あまりに私のことを書いているので、私が書評を書いたら、手前味噌なのでやめます。
読んでいて、ふと、連想したのが、講演活動に伴う「スポットライト症候群」のことだったので、そのことについて書きます。
スポットライト症候群とは、講演活動で脚光を浴びて、むしろ居心地が悪い上に調子も崩す、という状態を指すと、私は概略的に述べておきます。
病気と上手く付き合う方法を当事者研究して、注目されて、講演でも喋って、ということをしていると、陥りがちなのがスポットライト症候群です。
病気と上手く付き合うことが出来るようになって来た。
割と喋りもたつ。
こういう人がなりやすいと思われます。
「病気から生還した→これからはメッセンジャーの役割をしなければ」こういう矢印が本人の中に出来ると、スポットライト症候群は起きます。実際には、向谷地さんや川村敏明先生は、病気の調子が悪い人程講演に抜擢して喋ってもらう、という人選をしているので、実際のところべてるの講演はこのような矢印ではないことが多いです。
ですが、割と喋りがたってしまうキャラの人は苦労を抱えることになります。
スポットライトの眩しい光の中は、病気の御旗を振ることが出来ますが、その一歩隣の闇には、社会的スティグマ(偏見差別)が多様に混ざり合う大海原があるのです。
本著の中で、「今まで自分が統合失調症をもっていることが自分の錦の御旗になって、そのことで生きてこられたのに、その看板の字がだんだん色褪せてきて、ただのひとりのソーシャルワーカー、ただひとりの自分という看板で生きなくてはならなくなったときにものすごく不安で、何を頼りにして生きていったらよいかわからない」(向谷地2013;p176)と、私の最新の相談をぶっちゃけて書いていますが(笑)。多様性の大海原には、ただひとりの自分でしかない裸の自分で泳ぎださないといけないのです。病気の御旗が振れるのは、もう流行遅れの技なのだと、肝に据えて。
スポットライトのじりじりと熱い光から出るのは、とても怖いのです。ですが、闇の中に泳ぎださなければならないのが、スポットライト症候群の宿命です。その熱い光の中で、病気にしがみついてはもったいないのです。
講演活動では、ユーモアたっぷりにユニークな意見を向谷地さんも私も述べるので、質疑応答の時に本気で「不謹慎な!」と怒られることも度々です。私も向谷地さんもそんなお怒りのご意見に「のほ~」としてお答えしますけれども。本気で「不謹慎!」と直接お怒りくださる方は、とてもセンスがいい方々だと思います。その向こうの闇に、多様な考えを持って、斜めに見ていたり偏見を持っていたりする無言の方々が居るはずです。闇に泳ぎだすのが怖いのは、そんな予想からでしょう。ただ、多様性の大海原は、それこそ全ての命を育む多様性なのです。だから、泳ぎだす勇気が重要なのです。
矢印の話に戻り、「生還のメッセンジャー」という使命感を持ってしまうと、雑多な思惑を持っている視線へ、身体が固くなるというか、力が入り過ぎているために柔軟になれないのではないでしょうか。
吃音もまた、雑多な思惑という大海原への航海のように感じられます。
当事者の講演活動は、スポットライト症候群とも付き合うために、雑多な思惑を持つ多様な人々を、「豊潤の海」と捉え直すことが重要ではないかと考えます。
そして、人生を自分が生きることは、その「豊潤の海」を泳ぐことなのです。そこに恐れや不安は付いて回ります。裏腹に悲しみもある、それであたりまえであり順調なのです。
あまり、一般化した答えらしい答えではありませんが、私は今日も、粛々と一日一日を生きています。
書評といえば、併せて購入した『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(押見修造著 太田出版 660円+税)の方が当たりでした(汗)。ここまで書いて向谷地さんの本を薦めないということが笑えますけど。
著者は吃音を持っていて漫画家になった方で、吃音を持つ主人公の青春を描いています。絵柄もかわいいし、青春漫画としてもおすすめです。この主人公の志乃ちゃんも、多様性の大海原へ泳ぎだした青春なのではないでしょうか。
肩に力が入り過ぎていて辛い当事者の方がいらっしゃったら、是非とも、鏡を見て!そして変顔をして!おもいっきりありえない変顔をして、クスッと笑えて来たら、親指を立てて満面の笑顔を自分に見せてあげてください。
By katsuko.