N-007 ダビデ全身像
N-007 ダビデ全身像 H.64×W.20.5×D.15cm (1504年 フィレンツェ・アカデミア美術館収蔵)
週二回更新がすっかり定番となってしまいました。。
このダビデの石膏像については、2009年の12月に一度記事にしています。
”ダビデ”って誰?ということについて書いていますので、良かったら読んでやってください。
旧約聖書・サムエル記の登場人物で羊飼いの少年ダビデは、敵将の巨人ゴリアテに・・・・・。
アカデミア美術館の本物 1873年に損傷を防ぐため移動されました。
さて、1500年頃のローマで”ヴァチカンのサン・ピエトロ聖堂のピエタ”を完成させたミケランジェロは、フィレンツェに戻りました。
サヴォナローラが去った後(ローマ法王に破門されて、焚刑にされた)のフィレンツェでは、メジチ家の支配に代わって共和制が樹立され(実際には、商人達による少数独裁政治)、ピエロ・ソデリーニという人物が市政長官となりました。
ソデリーニは、政治混乱によってフィレンツェを去った多くの優秀な芸術家を再び呼び戻します。
フランス軍によるミラノ攻略によって行き場を失ったレオナルド・ダ・ヴィンチは1500年に、そして1501年にはミケランジェロがローマからフィレンツェに帰還します。
もう50歳に近かったダ・ヴィンチは既に名声を確立しており、1503年からはあの”モナ・リザ”を制作し絶頂期を迎えます。
一方のミケランジェロは、ローマでのピエタによる名声があったとはいえ、まだ26歳の新進の彫刻家でした。メジチ家が失脚してしまったため有力者からの庇護を失ってしまったミケランジェロに、市政当局は彫りかけのまま40年以上放置されていた巨大な大理石の塊を与え、”巨像”の制作を依頼します。
この大理石は、もともと15世紀前半に持ち上がった大聖堂の装飾計画に由来します。それはフィレンツェ大聖堂の屋根に、地上からも識別可能なくらいの巨大な彫像を設置し、フィレンツェ共和国の宗教心、芸術性、政治力を誇示しようというものでした。
ドナテルロやブルネレスキが、テラコッタ、中空の金属などの素材で彫像制作にとりくみましたが、1460年代にアゴスティーノ・ドゥッチオ(ドナテルロの弟子のひとり)という彫刻家に大理石の巨人像の制作が依頼されます。ドゥッチオは5メートル近い巨大な大理石の塊を用意し制作に取り組みましたが、結局断念しその大理石は放置されてしまいます。
ルーブル収蔵のアゴスティーノ・ドゥッチオの作品
1470年代には、再びアントニオ・ロッセリーニ(この方も相当な巨匠ですが・・)がこの巨人像の制作を引き受けますが、やはり未完に終わってしまいます。
ワシントン・ナショナルギャラリー収蔵のロッセリーニの作品。兄弟弟子だったセティニャーノに強い影響を受けています。この人の作風だと、”巨人像”っていうのはちょっと無理があるかも・・・。
ミケランジェロが取り掛かった時点で、その石の塊がどの程度掘り進まれたものだったのか?
既にドゥッチオと契約したときに”ダビデ像”を作るということは決定されており、脚部・衣服(!)・脚と脚の間の空間といったところまでは制作が進んでいたということです。
1500年に、当時この大理石を管理していた大聖堂事業監督所の作成した”在庫目録”には、「粗く輪郭を描かれたまま仰向けの状態で放置された”ダビデ”と呼ばれる大理石像」という記述があるそうです。
そんな”残りもの”の大理石から、ミケランジェロはあの傑作ダビデ像を”取り出し”ました。
このダビデ像に関して、正面からみたときの重量感に比べて、側面から見た場合の印象がやや薄く、扁平に感じられるという指摘があるのですが、これは素材となった大理石の”厚み”による制約だったのではないかと言われています。
ダビデ像が完成すると、その勇壮な姿にフィレンツェの街は歓喜につつまれたといいます。
1504年一月には、当時のフィレンツェの巨匠のほとんどが参加した”巨像設置委員会”が開催され、ダビデ像の設置場所について議論が交わされました。
ちなみに参加者は・・・
ボッディチェリ 「大聖堂正面に!」
サンガッロ 「大理石が傷むのでロッジアの屋根の下に!」
ダ・ヴィンチ 「同じくロッジアの中!」
フィリピーノ・リッピ「ミケランジェロ本人が決めるべきだ!」
すごい面子ですね~~。こんな人たちが一堂に会して会議室みたいなところで喧々諤々の議論をかわしたのでしょうか・・・想像するだけでわくわくしますね。
1504年にはウルビーノを去ったラファエロもフィレンツェに到着していたので、このダビデ像を見つめていたことでしょう。
1504~6年というのはいわゆる”三大巨匠”がフィレンツェに全員集合していた時期なんです。
現在の市庁舎前のダビデ像。1910年からレプリカが設置されています。
そして、そして・・・
ダビデ像の完成、モナ・リザの制作、という歴史的なイベントに続いて、さらに”盛期ルネッサンス”のクライマックスとなるはずだった絵画対決があるのですが、それは次回。。。
今回取り上げた、N-007 ダビデ全身像 は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
S-231 マリア首像(ピエタ)
S-231 マリア首像(ピエタ) H.41×W.25×D.28cm (ミケランジェロ作 ヴァチカン・聖ピエトロ寺院)
さて。お待たせしました。。。やっとこさミケランジェロでございます。
どっから取り組もうかなぁ~って感じなんですけど、とりあえず時系列ですすむのが素直ですかね。。。
この石膏像のマリア首像は、あの”天才”彫刻家ミケランジェロが若干24歳のときに制作したピエタ像の原作大の部分像です。
ヴァチカン市国 サンピエトロ寺院の原作彫刻はこちら、
1498~1500年頃制作
この作品について何か語ることが出来るでしょうか・・・。私ごときに・・・。
石膏像についても語るべきことはほとんど・・・。私ごときに・・・。
終了。。。ってわけにもいかないので・・・。
ミケランジェロってことになると、本当にこういう気持ちになるんですよね。。皆さんもよくご存知ですし。。。あまりにも評価が確立していますからね~。。自分自身の勉強という気持ちで、まとめてみることにします。
一般的に、盛期ルネッサンスの”三大芸術家”と称されるのは、
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)
ミケランジェロ・ボナローティ(1475~1564年)
ラファエル・サンツィオ(1483~1520年)
ということになって、年齢的にはミケランジェロはレオナルドとラファエルに挟まれた中間の世代になります。
絵画に非凡な才能を見せたミケランジェロは、13歳の時にまずギルランダイオの工房に弟子入りし、その一年後にはフィレンツェの実質的な支配者だったメディチ家の宮殿(ヴィア・ラルガ)に呼ばれ、研鑽を積む日々をすごします。
当時は、”豪華王”と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニィフィコ)の治世で、文化・芸術が非常に重要視された時代でした。
高い教養を持っていたロレンツォは、単に文化・芸術を保護・奨励しただけでなく、その成果を十二分に自身の外交政策に活用しました(ロレンツォの庇護の下にいたレオナルド・ダ・ヴィンチは、”外交手段”の一つとしてスフォルツァ家支配によって隆盛を極めていたミラノ王宮に派遣されたのです)。
将来を期待されて、ミケランジェロは1492年のロレンツォの死の時まで、このメディチ家宮廷で過ごしました。この間、ミケランジェロはドナテルロの彫像作品や、ジョット、マザッチオの絵画などを研究・模写することで、自身の制作スタイルを確立してゆきました。
この時代の代表的な作品としては、
1492年 ケンタウロスの闘い カーサ・ボナローティ収蔵
1492年頃 階段の聖母レリーフ カーサ・ボナローティ収蔵
ロレンツォが亡くなると、前回の記事にも登場した修道僧サヴォナローラの登場によって、フィレンツェには混乱が訪れます。
ミケランジェロ自身は、サヴォナローラの思想に心酔していたと伝えられていますが、一方でメディチ家の存在が危うくなるにつれて、身の危険を感じたことからヴェネツィアへ脱出することになりました。
ボローニャなどにも滞在し数点の作品を残した後、ミケランジェロは1495年にローマに到着します。
ローマでのミケランジェロは、
1496年頃 バッカス フィレンツェ・バルッジェロ美術館収蔵
ローマのリオリア枢機卿のために、この”バッカス”を制作し、
さらに1498年から、今日取り上げている石膏像の”ピエタ”像を、フランス人の枢機卿だったジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラのために制作しました(枢機卿は自分の葬儀の記念としてのピエタ像を求めていた)。
1500年にこのピエタ像が完成した時、ミケランジェロは若干24歳・・・。
この像の完成後、1501年にミケランジェロは共和制となったフィレンツェに戻り、”あの”彫像を制作することになります・・・。
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N-051 ヴィーナス誕生
N-051 ヴィーナス誕生 H.85×W.33×D.20cm
ルネッサンスに関連した石膏像としては、こんなものもあります。
既に2009年9月に一度紹介済みなんですが、ずいぶん時間がたっているんでもう一度。。
以前の記事はこちら → N-051 ヴィーナス誕生
このヴィーナス誕生は、もちろんこちらの絵を参考に近世に作られたものです。
(この石膏像と同じような原作彫刻がルネッサンス期に作られたわけではありません。)
貝殻の大きさがずいぶん違うけど・・・、こんなに大きかったら取り扱いが大変だものね・・。
現代に生きる我々にとっては、この絵の作者であるボッティチェリはルネッサンスを代表する芸術家ですが、彼は没後300年近くにわたって、ほとんど評価されていなかったことをご存知でしょうか?
彼のもう一つの代表作として「春」がありますが、この二枚の絵画はいずれもギリシャ神話・ローマ神話に主題を求めた作品です。
初期ルネッサンスに於ける、人文主義、古典・古代への回帰の流れの中でこのような作品が生まれたわけですが、1491年に始まる狂信的な修道僧サヴォナローラによる異教排斥運動によって、こういったギリシャ・ローマ的な主題の芸術が強く否定されてしまいます。
ロンドン・ナショナルギャラリーの「ヴィーナスとマルス」
確かにね・・・。こんなにいいムードの絵画だと、サヴォナローラさんは”キ~~”ってなっちゃいそうですね~。
ちなみに、神話上でこの二人は不倫関係・・・。子供サティロスの一人がマルスの兜をポンとかぶせられているところが楽しいですね。。
ボッティチェリ自身もサヴォナローラの思想に心酔してしまい、それ以前に描いていたギリシャ・ローマ的主題の自分の作品の多くを廃棄してしまったそうです。
現代に初期ルネッサンスの魅力を存分に伝えている「春」「ヴィーナス誕生」の二枚の絵画は、フィレンツェから離れたメディチ家がらみの私邸に飾られていたため、廃棄されることなく生き延びたのです。
サヴォナローラは数年後には火刑になり、神聖政治は終わりメディチ家による支配が復活しますが、ボッティチェリはキリスト教を主題とする宗教画に回帰し、それ以降は自然・人文主義的な絵画は制作しなくなってしまいました。
1501年 神秘の降誕
このような経緯で、19世紀に英国の”ラファエル前派(ラファエロ以前の中世や初期ルネッサンスを規範とする絵画運動)”の画家達がを再発見するまで、ボッティチェリはほとんど評価されていない存在でした。
1852年 ラファエル前派の代表作家 ジョン・エヴァレット・ミレイ 「オフィーリア」
今回取り上げた、N-051 ヴィナス誕生 は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
K-155 マリエッタ・ストロッチ胸像(正しくは、マリア・スフォルツァ胸像)
K-155 マリエッタストロッチ胸像 H.52×W.47×D.25.5cm (ロンドン・ヴィクトリア&アルバート美術館収蔵)
既に、2009年の8月に一度紹介済み(すごい時間が経ってるな~、もう一年半も前かぁ~~)の石膏像なのですが、ルネッサンスをたどってゆく中でもう一度取り上げてみます。
前回の記事はこちら ⇒ K-155 マリエッタストロッチ胸像
もう、このブログでも何回か指摘しているのですが、この石膏像は”マリエッタ・ストロッチ”ではなく、正しくは前回の記事でもご紹介したフランチェスコ・ローラナ作 「婦人像(マリア・スフォルツァ?)」 という名です。
(どこかの時点で名前を修正しなきゃいけないんだけど、いろいろな販売店様などとの関係もあってなかなか訂正できていません・・・。)
オリジナル彫刻は、ドイツのベルリン美術館に収蔵されていたのですが、第二次大戦の爆撃で破壊されてしまい、現存するのはそこから型取りされて残されていた石膏像のみです。
ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館に収蔵されているものが最も由緒正しいとされていますが、Wikiにはロシアのプーシキン美術館のものだけ写真がありましたので、こちらを、。。
1470年頃? フランチェスコ・ローラナ 「婦人胸像(マリア・スフォルツァの肖像?)」
ローラナの活躍したナポリや、その作品のモデルとなったスフォルツァ家の人々ゆかりの地であるミラノなどが、このルネッサンス期も含めてそれ以降、ころころと支配者が変遷していったことで、彼の作った肖像彫刻が散逸してしまい、そのモデルに関してもなかなか特定が難しいようです。
ただ、前回の記事でご紹介した「中古代婦人半面」が”アラゴン家のイザベラ”であるとすれば、この胸像のモデルではないかと考えられている”マリア・スフォルツァ”は”イザベラ”の母親ということになります。
マリア・スフォルツァ(イッポリータ・マリア)は、ミラノの支配者だったヴィスコンティ家の傭兵隊長だったフランチェスコ・スフォルツァの娘で、ナポリ王だったアラゴン家のアルフォンソ2世に嫁ぎました。
そして、ナポリで生まれた3人の子供の中の一人が”イザベラ”で、彼女は自分のお母さんの出身家であるミラノのスフォルツァ家に”戻った”ということになります(実際に、結婚相手のジャン・ガレアッツォ・スフォルツァは従兄にあたる)。
アラゴンのイザベラ(マリア・スフォルツァの娘)
なんと親子だったのね!この二人!モーレツに感動!!
実は、私も今回こうやってあれこれ調べて書いてみるまで、この二人が親子だということは全く知りませんでした。長年石膏像で作ってきてるのにね・・・。自分自身にとっても勉強になりますな~。。
それで、スフォルツァ家っていうことで、どうしてもここでレオナルド・ダ・ヴィンチについて触れておきたかったんです。
ルネッサンス期の巨匠としてミケランジェロと並び称されるレオナルド・ダ・ヴィンチですが、一般的に彼の作品として取り上げられるのは絵画ばかり・・。
ちょっと前の記事で書いた通り、フィレンツェのヴェロッキオの工房で修行したことを考えると、少なくとも修行時代には彫刻の仕事もたくさんこなしたはずですが、作品として残されているものはほぼゼロなんです。
最大のライバルであったミケランジェロが”彫刻家”を自認していたのと対照的に、ダ・ヴィンチは”俺は絵画だ”っていう思いがあったのかもしれません。。
そんなことで、石膏屋さんとダ・ヴィンチというのはとっても接点が少ない関係なんで、フランチェスコ・ローラナの作品紹介の記事にくっつけて、ダ・ヴィンチの唯一の彫刻作品(あくまでもメジャーな逸話の中ではっていうことですけど・・・)について書いてみます。
ダ・ヴィンチの解説本をいろいろと読んでみて、唯一”彫刻”作品に関するエピソードとして登場してくるのが、「フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像」についてです。
フィレンツェで修行時代をすごしたダ・ヴィンチは、その庇護者となったメジチ家のロレンツォ・イル・マニィフィコ(豪華王)の命により、ミラノ公スフォルツァ家の騎馬像を制作するべく1482年にミラノに派遣されました。
既に、ドナテルロによる”ガッタメラータ将軍騎馬像”、ヴェロッキオによる”コッレオーニ将軍騎馬像”の存在を知っていたレオナルドは、さらに壮大な騎馬像を構想します。
高さ約6メートルという壮大なサイズで、しかも二本の後足のみで立つ騎馬像をイメージし、たくさんの習作素描を描きました。
スフォルツァ騎馬像のためのスケッチ
騎馬像の習作スケッチ
約10年間という構想期間を経て(もちろんこればかりに関わっていたわけではないですが・・)、1493年、馬の部分の原寸大の粘土原形が披露されるまでになり、必要なブロンズの量の計算、大型の像の鋳造方法までが考案されます。
ところが、鋳造を待つばかりになっていた原型は、戦争のために制作が中断されてしまい、1499年にミラノに侵入してきたフランス軍によって破壊されてしまいます。
フランス軍によって破壊されてしまったことは残念なことでしたが、なんと・・・なんと・・・!この騎馬像が、我らが日本で復元されていることをご存知でしょうか!!!(長々書いてきたのは、ただこれを紹介したかったんです)
現在では、すっかりショボショボになってしまった日本ですが、バブルの頃は違いました。。もっとガンガン攻めてた時代もあったんです。
1989年(平成元年)、まさにバブル絶頂期に名古屋で開催された「世界デザイン博覧会」に、なぜか(バブルの頃はモノを作るのに理由なんていらなかった・・・)このダ・ヴィンチの”スフォルツァ騎馬像”が復元され、展示されたのです。
当時の東海銀行(なつかし~)のパビリオンに展示されたということですから、おそらく東海銀行が資金を出したんでしょう。
1967年にスペインのマドリッドで発見されたダ・ヴィンチの手稿やデッサンを元に復元されたものだそうです。前述のように二本足で立ち上がってはいませんが、人物を含む高さが8.3メートルという超ド級サイズです。素材はFRP。
現在は、名古屋国際会議場に寄贈されて展示されているそうです。
大変な労作ですね~。たずさわった方々のご苦労がよく分かります。
ましてや、ダ・ヴィンチ作品の復活ですものね~、普通の時代背景じゃ躊躇しちゃってつくれないですよね。
いろんな意味で、この時代にしか出来なかった偉業です。
ミラノで復元された「レオナルドの馬」
今回取り上げた、K-155 マリエッタ・ストロッチ胸像 (フランチェスコ・ローラナ作 マリア・スフォルツァ胸像) は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
M-445 中古代婦人半面
M-445 中古代婦人半面 H.39×W.20×D.15cm (1471年頃 ローラナ作 パリ・ルーブル美術館収蔵)
いよいよミケランジェロか~!・・・・・・・と思っていたんですが・・・・・・・
石膏像の一覧のリストを眺めていたら、あれもこれも・・・そういえば・・・。となってしまったので、きょうはこちら。
”中古代婦人”ってさ。。これまたいい加減なネーミングですが、こちらは出自がはっきりしている彫刻です。
原作の彫刻はこちら、
アップの写真、
1471年頃 フランチェスコ・ローラナ作 「貴族の女性の肖像(アラゴンのエレノア?イザベラ?)」 パリ・ルーブル美術館収蔵
作者のフランチェスコ・ローラナ(1430~1502年)は、ヴェネッイア勢力下のダルマシア出身(犬のダルメシアンの発祥地・現在のクロアチア)で、なぜか南のナポリでそのキャリアをスタートさせた人物です。
ナポリっていう土地は複雑な歴史を持つ場所で、
11世紀~ノルマン人による支配によって、”ナポリ・シチリア王国”に、
1266年~フランス王家、アンジュー伯による支配、
1441年~スペインのアラゴン家による支配、
1494年~フランス王、ヴァロア朝のシャルル8世によるナポリ再征服・・・・・以下、取ったり取られたりの繰り返し・・・。
という流れで、ローラナが活躍したのは、スペインのアラゴン家支配の時代です。
彼がナポリに残したのは、
1466年頃制作 アルフォンソ一世の凱旋門 ナポリ カステル・ヌーヴォー
ローラナは、この辺を担当したみたいなんだけど・・・たくさんの彫刻家が共同で作業したようで、それぞれの分担はよく分からないんだそうです。。。。。
この凱旋門の制作のために、ピエトロ・ダ・ミラノ(ミラノ出身)、フランチェスコ・ローラナ(クロアチア出身)、パオロ・ロマーノ(ローマ出身)、イザヤ・ダ・ピーサ(ローマ出身)、ドメニコ・ガッジーニ(ミラノ出身)などがイタリアの各地から招聘されました。
それまで、ルネッサンスは北方で発展していたわけですが、このアラゴン家による凱旋門の制作を機に、イタリア北部の彫刻家達がナポリを訪れてルネッサンスの息吹を伝える作品を生み出すようになりました。
こういったアラゴン家との関連から、今日とりあげている石膏像の彫刻が制作されたものと思われます。
ローラナがシシリー(シチリア島)に滞在していた時期(1466~1471年)に、このアラゴン家にまつわる人物の胸像が何点か作られており、石膏像の婦人像もその中の一点です。
こちらも、ルーブルのものと同一人物(アラゴンのエレノーア?、イザベラ?)を描いた肖像彫刻 ローラナ作 シシリー・パレルモ州立美術館収蔵
この女性はミラノ公爵のジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの妻だった人物で、”アラゴン家のイザベラ”とする説が有力です(どこの美術書でも確定的ではないみたいですが・・・)。
当時のミラノはスフォルツァ家の支配下にあり、スフォルツァ家とナポリのアラゴン家とは近しい関係だったようです。この石膏像の人物もスフォルツァ家の血筋としてナポリで生まれ、本家のあるミラノに嫁ぎミラノ王妃となりました。
スフォルツァ家は、それ以前の支配者だったヴィスコンティ家の傭兵隊長出身の家系だったのですが、宮廷では学者、芸術家を保護し、ミラノにおけるルネッサンスの熱心な庇護者となりました。
なかでも”イル・モーロ(ムーア人風の)”と呼ばれたルドヴィーコ・スフォルツァ(1452~1508年)は、あのレオナルド・ダ・ヴィンチの初期のパトロンとなったことで有名です。
当時のミラノ宮廷にダ・ヴィンチが仕えていたことから、あの”モナリザ”のモデルがこの石膏像の人物のアラゴンのイザベラなのではないかとする説もあります(モナリザについては”説”がたくさんありすぎますが・・・)。
この方、相当な美貌と地位だったようで、あのラファエルも描いているんです。
ラファエロ作 イザベラ・ダ・アラゴナ
レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「白貂を抱く貴婦人(チェチリア・ガッレラーニ)」
この絵は萌えるよね~。モナリザより断然こっちの方が惹かれる。。。この貴婦人は、前出のルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)の愛妾だった人物なのですが、なんとなくアラゴンのイザベラにも似ているような・・・。
う~~ん。ここまで書いてきて、複雑すぎますか??
アラゴン家と、スフォルツァ家が出てくるんで、ゴチャゴチャしてしまいました。
結局、ローラナさんはナポリ・シチリアっていう南の場所で、ずっと北の地であるミラノの王室(スフォルツァ家)の人物の肖像彫刻を作っていたということです。
次回も、フランチェスコ・ローラナ作の作品をご紹介。。
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M-460 ベロッキオ半面
M-460 ベロッキオ半面 H.24×W.19×D.13cm (ポッライオーロ作 フィレンツェ・バルッジェロ美術館収蔵)
さて、ルネッサンスという時代にはたくさんの彫刻家の巨匠達がいたわけですが、後世へのその影響力でランキングするとすれば、
間違いなく第一位は、ミケランジェロ
第二位はドナテルロ
そして第三位あたりに食い込んでくるのがこのベロッキオさんではないでしょうか。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1437~1488)
ただし・・・。ここでさみしい事実をお知らせしなければなりません。。。
きょうとりあげているこの石膏像の半面は、実は・・・、実は”ベロッキオ作”でもなければ、”ベロッキオの肖像彫刻”でもないんです(たぶん)!
それでも日本の石膏像業界では長年”ベロッキオ半面”という名前で販売されてきました(トホホ)。
作家の名は、アントニオ・デル・ポッライオーロ(別名アントニオ・ベンチ)。フィレンツェのバルッジェロ美術館にオリジナル彫刻は収蔵されていて、おへその上くらいからの胸像です。
(オリジナル彫刻の画像がどうしてもWikiでみつかりません。。。また出会ったら追加します)。
バルッジェロ美術館を取り上げた図鑑では、
「Ritratto d'Igonoto(無名の肖像彫刻) Antonio Benci, detto del Pllaiolo(1432~1498年)」
という表記になっていて、人物名が不明の肖像彫刻ということになっています。
但し、この彫刻が展示されている部屋が”Sala del Verrocchio(ベロッキオの部屋)"という名前!
ベロッキオ作品がたくさん展示されている部屋なんですが、この彫刻に関してはポッライオーロの作品。
この辺から誤解されちゃったのかなぁ・・・?もしかしたらベロッキョの姿を描いた肖像彫刻なのかもしれないけど・・・。上の挿絵のベロッキオの顔立ちとはずいぶん違うような気もするし・・・。
それで、この半面の作者である、ポッライオーロさんはというと、
ポッライオーロの肖像(ちなみに”ポッライオーロ”とは、”鶏屋”のこと。鶏屋さんの息子だったみたいです)
代表作は、
1475年頃 フィレンツェ・バルッジェロ美術館 「ヘラクレスとアンタイオス」
というわけで、本来であればポッライオーロ作の石膏像ですからポッライオーロについて書くのが当然なのですが・・・。ここだけの話・・・ポッライオーロについては、それほどネタが無いという・・・。
というわけで(しつこい)、今日は彫刻史上での存在感がずっと大きい”ベロッキオ”さんの方のご紹介ということ
になります。
ベロッキオは、前回の記事のセティニャーノ(1464年没)や、ドナテルロ(1465年没)の次の世代としてフィレンツェに登場し、15世紀後半に指導的立場で活躍しました。
ロッセリーノの工房で修行した後独立し、メディチ家と強いつながりを持った大規模な工房を運営します。その工房には、若き日のレオナルド・ダ・ヴィンチが在籍し、師を上回る腕前を披露したことからベロッキオが絵筆を執らなくなってしまったというエピソードは有名です。
また、このベロッキオの工房には、あのボッディチェリも在籍しており、来るべき”盛期ルネッサンス”への胎動がそこにはありました。
レオナルド・ダ・ヴィンチのような”天才”の影に隠れてしまいがちですが、ベロッキオ自身も大変な足跡を残している芸術家です。
1475年 キリストの洗礼 ウフィッツィ美術館収蔵
絵だってすごいんだけどね・・・。この絵が有名な”断筆”の作品。
画面一番左下に控える天使(右の天使はベロッキオによるもの?)と、後景をレオナルド・ダ・ヴィンチが担当したと言われています。大部分はベロッキオ自身の制作によるものなのですが、レオナルドの筆致を見た師匠はその技量に驚き、二度と絵筆を握らず、以降は彫刻と金工に専念したそうです。
こんなにすごいのにね・・・。もうこういうレベルでのダメ出しは、凡人には理解不能です。。。
ベッキオ宮殿 「イルカと少年」
これはよく図鑑に載ってますね。
フィレンツェ オルサン・ミケーレ聖堂 「聖トマスの不信」
1475~1480年頃 バルッジェロ美術館 「花束を抱えた夫人」
19世紀の研究者が、ダ・ヴィンチの手が入っているのではないか?とした彫刻です。
レオナルド・ダ・ヴィンチの彫刻作品って残ってないんですよね~。彫刻も手がけたことは確かなのにね・・・なぜか一つも残っていない・・・。
フィレンツェ・バルッジェロ美術館収蔵 「ダヴィデ」(この写真は英国のV&A美術館のレプリカ)
なんといっても、こちらが有名。若き日のレオナルド・ダ・ヴィンチがモデルになっていると言われるダヴィデ像。
ドナテルロも・・・。
ミケランジェロも・・・ダヴィデ像を作っています。。
みんな、右足を支脚にして左側を向いています。これはキリスト教で左側が”悪しきもの”がやってくる方向とされているからです。ダヴィデは悪しき存在と戦う象徴なんですね。。
そして、遺作となったのが、何回か前の記事でも取り上げた騎馬像・・
1488年頃 ヴェネツィア・サンマルコ大同信会館前広場 「バルトロメオ・コッレオーニ将軍騎馬像」
(ベロッキオは、この作品の鋳造前にヴェネツィアで客死しました)
ベロッキオの大先輩であるドナテルロが、パドヴァに作った”ガッタメラータ将軍騎馬像”をさらに発展させた作品。高々と上げた左前足がまぶしいです。。。
ドナテルロの騎馬像では、左前足の上がり方はずっと控えめですし、足の下に球体をはさんでなんとかしのいでいます。
ベロッキオの作品では、全体の動きにより躍動感が加わり、左後ろ足を前方に位置させることで三本脚でバランスをとることに成功しています。人物の体のひねり、足の踏ん張り具合など随所に進化が見られます。
あと、忘れちゃいけないのがこちら、
このてっぺんの”金の玉”!これは、ベロッキオ工房の作品。
これはこちらの屋根なんです、
フィレンツェで一番大きな”花の聖母教会”の屋根のてっぺん。
ブルネレスキの設計による二重構造の屋根を上っていった、一番上にこの金の玉がのっかっています。
この屋根の上の展望台まで、一度だけ上ったことがあるんですが、ここの階段はマジでやばい・・・。500年も前の建造物で、しかもおわん状になった屋根の中を螺旋階段で上がってゆくんだけど、あんまりいい気持ちはしない・・・。しかも観光客が行列で上って行くんで、同時に何人くらいの人間がこの屋根の中を歩いてるんだか???。その人間達の重量だけでもすごい危険なような気がするんですが・・・・・まあ、イタリア人は気にしないでしょうね・・・。
ちなみに、屋根の上のバルコニーは爽快です。町が一望できて最高。。
さあ、ベロッキオまで来てしまったので、とうとう次はミケランジェロになるのかな・・・。
石膏屋さんとミケランジェロは関係が深いからね~。
今回取り上げた、M-460 ベロッキオ半面 は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
A-331 笑う少年胸像
A-331 笑う少年胸像 H.32×W.29×D.20cm (1464年頃制作 セッティニャーノ作 ウィーン美術史美術館収蔵)
本格的に2011年が始動してきまして・・・、ドドド~ッと忙しくなってしまって、しばらくお休みでした。。
やっと土曜日で落ちついて記事が書けます。
さて、ルネッサンス彫刻の世界を、石膏像と絡めながらポツポツとたどっていますが。。。
ドナテルロ
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ルカ・デッラ・ロッビーア と来て、
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本日は、”デシデリオ・ダ・セティニャーノ(1430~1464年)の作品です。
”セティニャーノ?”誰、それ??っていう声が聞こえてきそうですが、安心してください。私も10年前まで名前もしりませんでした。
通り一遍の美術書だとドナテルロ、ベロッキョどまりで、セティニャーノまではなかなか取り上げられません。でも、ちょこっと深く掘り下げた書物だと必ず登場してくる重要な彫刻家です。
セティニャーノの肖像 ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』の挿絵から。
この石膏像の”笑う少年胸像”は、ルネッサンス期のフィレンツェで活躍したセティニャーノの晩年の作品です。
(但し、このセティニャーノはわずか34歳でこの世を去っていますので、晩年もなにもないわけですが・・・)
1460~1464年頃に制作され、オリジナルはオーストリア・ウィーンのウィーン美術史美術館に収蔵されています。
ほぼ石膏像そのまんまですね。とっても再現性の高い石膏像だと思います。
デシデリオ・ダ・セティニャーノは、短命であったにもかかわらずたくさんの作品を残しており、特に幼子や少年を描いた彫刻作品のしっとりとした質感は独特で、素晴らしいものばかりです。
フィレンツェのバルッジェロ美術館にもたくさん作品がありますし、パリのルーブル、ベルリン美術館、ワシントンナショナルギャラリー、にも作品が収蔵されています。
レリーフ作品では、ドナテルロをさらに発展させたような極薄彫りの表現で、繊細で優雅な画面を作りだしています。
ワシントン・ナショナル・ギャラリー 「悔悛の聖ヒエロニムス」
フィレンツェ・バルッジェロ美術館 「少年の洗礼者聖ヨハネ」
フィラデルフィア美術館 「聖母子」
なんといいましょうか。。全体を”もっちり”というか、”しっとり”というか・・・・・。ドナテルロやロッビーアと同じようなテーマを描いているにもかかわらず、”厳しさ”とか”激しさ”とは無縁の、優しい洗練された世界観が貫かれているように思います。
もちろん立体作品もたくさんあって、
フィレンツェのサンタ・トリニタ教会 「マグダラのマリア」
当時のフィレンツェでは、先日このブログで紹介していたドナテルロの作品が”かすんで見える”と評されるくらい絶賛されたそうです。こちらは、木彫(そういえば、ドナテルロのマグダラのマリアも木彫でしたね。。何か理由があるのかな?)
ベルリン美術館収蔵 同じくトリニタ教会ために作られた”マリエッタ・ストロッチ胸像”
石膏像でも”マリエッタ・ストロッチ胸像”っていうのがありますが、あれは名前が間違っちゃってるんです・・。
その辺の事情は下のリンク記事を参照してください。
ルーブル美術館収蔵 少年像
こちらは、”うつむき坊や”と呼ばれている石膏像の元ネタと思われる彫刻。
こんな風にセティニャーノは石膏屋にとっては馴染み深い作家なんですね~。
大きな作品では、
フィレンツェ サン・ロレンツォ聖堂 「秘蹟の祭壇」
フィレンツェ サンタ・クローチェ聖堂 「人文主義者 カルロ・マルスッピーニ記念碑」
このような多額の費用を投入して制作される大型の墓碑は、当時の彫刻家の腕の見せ所でした。
フィレンツェでは、ドナテルロ、ロッセリーノ、そしてヴェネツィアでは、ピエトロ・ロンバルド、アントニオ・リッツォなどの作家達が、キリスト教の世界観に基づきつつ、古典・古代(ギリシャ・ローマ)の要素を消化した”凱旋門型壁付墓碑”と呼ばれる墓碑のスタイルを提示してゆきました。
フィレンツェ・バルッジェロ美術館 「洗礼者ヨハネ(サン・ジョバンニ・バティスタ)」
ちょっとボケちゃってる写真だけど。。。この像に、セティニャーノの魅力が凝縮されているように思います。
リアリティと写実性を追及しているんだけど、あくまで若々しく、優雅で優しい。。
次回は、レオナルド・ダ・ヴィンチの師として有名な”ベロッキョ”を。。
今回取り上げた、A-331 笑う少年胸像 は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
L-645 果物連レリーフ(ロッビーア工房?)
このレリーフについては、昨年の6月に既に一度ご紹介しています。
この石膏像のレリーフ自体は、ルカ・デッラ・ロッビーアの作品かどうかははっきりしていないのですが、ほぼ共通した特徴を持つ文様のレリーフが15世紀のロッビーア工房の手によって制作されているんです。
その辺りの事情については、以下のリンクの記事を参考にしてください。。
さて、前回の記事でご紹介した、”カントーリア(聖歌隊席)”の作者であるルカ・デッラ・ロッビーアについて、もう少しだけ。。
カントーリアは大理石作品でしたが、その後のルカ・デッラ・ロッビーアは、こんな作品で一時代を築きました。
1445年頃 キリスト誕生
1446~1449年頃制作 聖母子像
1430年代に、カントーリアの制作によってフィレンツェでの彫刻家としての地位を築いたルカ・デッラ・ロッビーアは、1440年代にテラ・コッタの新しい製作技法を編み出します。
テラ・コッタ自体は古代ギリシャ・ローマ時代から存在した技術ですが、ロッビーアの作品の特徴はその釉薬にあります。
Wikipediaからの記述によれば、
”鉛ガラスのスリップ(泥漿)をかけて焼いた粘土の、光沢のある表面に、建築学的な彫刻にふさわしい美しい色を絵付けした。”
とありますので、彩色は焼いた後に行われたようですが、他に類を見ない独自の彫刻作品を作り出すことに成功しています。
このようなルカ・デッラ・ロッビーア工房の生み出したテラ・コッタ作品は、その独自の色彩、屋外での耐久性などが評価され、ルカの死後も一族によってその技術は継承され、約一世紀に渡って制作が続けられました。
松の文様ですね。。
1442~1445年 メディチ家とライバル関係にあった”パッツッィ家”の礼拝堂装飾。
1475年 聖母子レリーフ ワシントン・ナショナルギャラリー
フィレンツェ オルサン・ミケーレ教会の装飾
”ざくろ”があって、”ぶどう”があって・・・。この植物文様は、ほぼ石膏像のレリーフに共通する表現です。
次回は・・・、セティニャーノの予定です。。。
今回取り上げた、L-645 果物連レリーフは、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
M-495 聖歌隊半面(A)・(B)
M-495 聖歌隊半面(A) H.15×W.11×D.8cm
M-495 聖歌隊半面(B) H.15×W.11.5×D.6.5cm
(ルカ・デッラ・ロッビーア作 フィレンツェ・ドゥオモ付属博物館収蔵)
完全にお正月ボケな状態で・・・。どこまで書いたっけ・・・。
そうそう。ドナテルロのガッタメラータで昨年は終わってました。
ルネッサンスの彫刻の夜明けはギベルティとドナテルロだったわけですが、そのドナテルロの対抗馬的な人物になったのがルカ・デッラ・ロッビーアという彫刻家です。
ルカ・デッラ・ロッビーアの肖像
実は、このルカ・デッラ・ロッビーアについては、昨年の5月~6月に何回かに分けて取り上げていて、今回の聖歌隊の半面も既に紹介済みです。。ルネッサンスを辿っている流れの中で、もう一度記事にしてみることにしました。またか~、と思った方は、どうぞスルーしてくださいませ。。。
ちなみに過去記事は、以下のリンクから読むことが出来ます。。
もちろん、この時代のフィレンツェにはキラ星のような彫刻家がたくさん居ましたので、それぞれがライバルなわけですが、ドナテルロとロッビーアはある一つのお題でガチンコ直接対決した仲なのです。。。
そのお題というのがこちら、
ルカ・デッラ・ロッビーア作 カントーリア(聖歌隊席) フィレンツェ・ドゥオモ付属美術館収蔵
ドナテルロ作 カントーリア(聖歌隊席) フィレンツェ・ドゥオモ付属美術館収蔵
この二つの作品は、フィレンツェの大聖堂(花の聖母教会)内の聖歌隊の囲いの柵として制作されました。
ルカの作品は、”(旧約聖書の)詩篇”150篇(神への賛歌)に基づいた10枚のレリーフがはめこまれ、その中で子供達が様々な楽器を持って歌っています。
一方、ドナテルロの作品は、楽しそうに輪になって踊る子供達が描かれています。
二つの聖歌隊席のレリーフは対になっているもので、1431年にルカ・デッラ・ロッビーアに、続く1433年にドナテルロに発注され、共に1439年頃に完成しました。
どちらの作品にも共通しているのは、生き生きとした子供達の姿。のびのびとした生命感と、歓びがあふれています。。。
一口に”ルネッサンス”と言っても、こういった自然や人間を写実的に描写した表現は”初期ルネッサンス”の特徴で、年代で言うと14世紀の後半~15世紀末までで、サヴォナ・ローラが火あぶりになった辺り(1492年)から、こういった初期ルネッサンスののびのびとした表現は徐々に後退してゆきます。
そういう意味では、この二つのカントーリアは初期ルネッサンスの持っていた時代の雰囲気をとてもよく伝えていると思います。
ドナテルロよりも15歳くらい若かったルカ・デッラ・ロッビーアは、このカントーリアが出世作となり評価を確立しました。
石膏像になっているのは、ルカ・デッラ・ロッビーア作の方の、上下2列あるレリーフの下段左端のパネル、
右から三人目の振り返ってこちら目線の少年(?)がM-495、左から三人目がM-495-2ではないかと思います(ちょっと角度の関係でいまひとつ自信がないんですけど・・・たぶん)
前景の分厚い人物と、奥側の薄浮き彫りの人物を見比べると、作家が限られた厚みの石材の中で、最大限の立体感を作り出す努力をしていることがよく分かります。
このパネルの群像の足元に注目してください。。。ややこしいですね~。。
次回、もう一回ルカ・デッラ・ロッビーアを取り上げます。この人は大理石彫刻よりも、独特のテラコッタ作品で有名な人なんです。。そちらを。。。
今回取り上げた、M-495,M-495-2 聖歌隊半面(A),(B) は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。
お正月だよ!初詣。
お正月なんで。。
彫刻のことはちょっと離れて・・。
と言いつつ・・・・。おキツネ様に毎年注目。。
すごい立派なんですよね~。尻尾がボーンと太くって、表情がなんとも言えない。。
けっこう”難しい”顔してるんですよね~。。
って結局。。彫刻かい。。。
きょうは初詣に行ってきました。
我が家は、毎年赤坂の豊川稲荷というところにお参りしています。
こじんまりしているし、そこそこの混雑なんで大好きな場所なんですが、さすがに今日はちょっと混んでました。
午後遅くから出掛けたんで、お参りした後は、ささっと家族新年会へ。。
(昨日もおばあちゃんの所で、さんざんご馳走になったんだけど・・・。お腹はへっちゃうのよね。。)
こちらも、毎年初詣の後の定番のお店。。
赤坂Belle Vieのすぐ裏手の路地にある”Marumo(マルーモ)”というイタリアン。
特別ものすごいお店っていうわけじゃないんだけど、なんだか居心地のいいお店なんです。
なぜか、ここで一番お目当てにしているのが、三陸産の”牡蠣”。
ピザ屋で牡蠣っていうのもよく分からない話ですが・・、とにかくおいしいんで”食べるぞ~”と思っていたのに・・・
「もう二個しかないんです。。ごめんなさい」
ガ~~ン、ということで2個だけいただきました。。。女房と息子が。。。あ~あ。。。
場所の割には、とってもリーズナブルなお店なのではないかと思います。
まあ、この辺りは”いいお店”は星の数ほどあるんでしょうけど、なぜか決まった所ばかりに行っちゃって・・・。
今日気がついたけど、厨房、給仕の方々・・・全員”男”でした。女性ゼロ。なんか意図があるのかなぁ??
ただ、皆さん気遣いのある方ばかりで、ピシッとした心地よい雰囲気でした。。
帰り際に、大きな道路の反対側のホテルビル(名前忘れた。。。昔からある、ピンクの縞々のビル)に出来た、ちまたで話題のあの”HOOTERS"をちらっと覗いてみたところ・・・。
入り口に行列。。。!
中は大盛り上がり!!。7,8人の外人さんのオッサン軍団がはじけまくってました。。
(ガラス越しに激しく手を振るんで、負けじとリアクションしてあげました。。。)
オッサンの感性は世界共通だのぉ~~。と妙に関心して帰ってきました。。。
お正月の都心は、静かで気持ちいいですね。。