前回の記事で、オーストラリアの都市、シドニーにあるオペラハウスを設計したヨーン・ウツソンについて書いた。今回は、その続きを書く。

 

ウツソンはシドニーに行き、建築事務所を開設、オペラハウスの建設に取り組んだ。

 

約70年前のシドニーは、当然のことながら、現在とは異なる風景だったのだろう。しかし、サーキュラー・キーへと続く美しい入り江は、今も昔も変わらないと思われる。ウツソンはシドニーの港を眺めながら、これまでにないような美しいデザインの建築物を作ることに、決意を新たにしたと思う。

 

独特のデザインを実現するために必要なコンクリートシェルという技術に挑戦し、当初のデザインに修正を加え、良い物を作るためにウツソンは奮闘した。

 

しかし、オペラハウスの建設は様々な困難に直面した。

 

まず、ウツソンは当初の予定よりも着工を早めさせられたという。計画が完成する前に、工事を始めるように指示された。これには、政治的な影響が関係していたらしい。

 

そして、建設は長引き、予算も膨れ上がった。どうやら、コンクリートシェルの屋根を作ることが難しかったらしい。当初は、完成までに3年、費用は700万ドルと予定されていたのだが、結局は完成までに16年、費用は1億200万ドルかかったという。

 

ウツソンは努力したと思う。建設期間の長期化や費用の高騰について、気になっていただろう。それでも、オペラハウスを作るために、懸命に仕事に取り組んでいた。

 

しかし、ある時、大きな変化が起きた。

 

工事の途中で、ニューサウスウェールズ政府の政権が交代した。すると、建設費の高騰について、関係者はウツソンを問い質すようになった。政府と衝突するようになり、支払いが止まった。1966年、ウツソンは設計者の地位を辞任することになった。

 

ウツソンはシドニーに作った事務所を引き払い、デンマークに戻った。その後、二度とオーストラリアを訪れる事はなかったという。

 

オペラハウスは、後を継いだ建築家のチームによって工事が続けられ、完成した。しかし、設計者であるウツソンが、完成したオペラハウスを見る事はなかったのである。・

 

ウツソンがオーストラリアを離れた後、その功績は世界から認められた。

 

シドニーのオペラハウスは今の時代でも独創的なデザインだが、公開当初のインパクトは相当なものだったと思う。多くの人々が、ウツソンのデザインを評価したことは想像に難くない。

 

1999年、ニューサウスウェールズ州政府はオペラハウスの改良のために、ウツソンを再雇用した。もっとも、当時80歳を超えていたウツソンは、恐らくデザインの設計等には関わったが、現地を訪れる事はなかったのではないかと思われる。

 

2003年に、ウツソンは建築のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞した。それに、オーストラリア勲章や、シドニー大学から名誉博士号も受賞している。もっとも、高齢であることを理由に、賞は息子が受け取ったという。

 

2007年、オペラハウスは世界遺産に登録された。今も、シドニーを代表する建築物として、多くの人々を魅了し続けている。

 

オペラハウスの建設について、工期の延長や費用の高騰などはあったが、そうした点を軽く上回る、驚異的な成果を残したと思う。

 

ウツソンの心中を慮る。後に大きく名誉は回復されたが、解任された当時の心痛はいかほどだったろうか。夢を抱いて故郷を離れ、新たな世界へと渡って奮闘した結果、途中で帰国することになった。まだ工事途中のオペラハウスを残してシドニーを去った時のウツソンの心の痛みを思うと、やりきれない気持ちになる。

 

ウツソンの業績をもっと知りたい。

 

次にシドニーを訪れる時には、今度こそ建物の内部も見学しようと思う。そして、ウツソンが残してくれた、歴史に残る偉業をもっと見てみたい。

 

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