皆さんは、オーストラリアのシドニーにあるオペラハウスをご存じだろうか。

 

 

筆者はこれまでに何度もオーストラリアを訪れているが、シドニーに行くと、毎回オペラハウスを見てきた。

 

もっとも、内部には入らず、いつも外から眺めているだけではあるが、西(北に向かう鉄道)、南(サーキュラー・キー)、東(ボタニックガーデン)、北(マンリーに向かう船)と、様々な方向からオペラハウスを見てきた。

 

オペラハウスの外観を眺めるたびに、その独特のデザインに驚かされる。世界遺産にも登録されている、オーストラリアを代表する建物の一つだと言えるだろう。

 

しかし、オペラハウスの建築については、紆余曲折があった。特に、オペラハウスを設計した建築家である、ヨーン・ウツソン(以下、敬称略)に関する物語は、悲しみを含んでいる。

 

ウツソンは、デンマークのコペンハーゲンに生まれた。

 

造船技師の子供として育ち、コペンハーゲンのロイヤルアカデミーで学んだ。その後は、国内外の様々な建築家のもとで修業を積み、世界各地の伝統的な建築について学んだという。

 

デンマークは、海が美しい国だ。筆者は残念ながらデンマークの国内を観光したことはないが、イギリスへ向かう途中、乗り換えでデンマークの空港を利用したことがある。機内の窓から見たデンマークの海は、素晴らしかった。

 

オペラハウスの、まるで貝殻のような独特の屋根の形は、海と関連する要素を思い起こさせる。このことは、ウツソンが海の美しい国で育ったことと、関係があると思う。

 

ウツソンはデンマークに戻った後、自宅の設計をはじめとして、様々な住宅の設計に取り組んだ。建築設計のコンペティションにも参加して、優秀な成績を収めたという。

 

この当時の詳細は分からないが、ウツソンはまだ国際的には無名だったと思われる。建築家として活動しながらも、その範囲は比較的狭い地域に限られていたのではないか。

 

しかし、1957年、ウツソンの運命を大きく変える出来事があった。

 

第二次世界大戦が終わり、オーストラリアは発展の時期を迎えていた。そこで、オペラ等の大規模な上演が可能な施設が求められていたという。シドニーでは、オペラと関連する施設を作るためのコンペティションが催された。

 

コンペティションには、たくさんの応募があった。ウツソンも、このコンペティションに参加を決めた。

 

すると、国際的には無名だったと思われるウツソンの作品が、多くの作品の中から勝利したのである。

 

この時のことについて、様々な逸話を見かける。どれが本当の話なのか分からないが、いずれにしても、ウツソンが考案したデザインが、審査員を強く印象付けたことは間違いないと思われる。

 

ウツソンは、嬉しかったと思う。きっと、自身の能力の全てを注ぎ込もうとしただろう。

 

ウツソンは新天地に渡り、自身のデザインの実現に取り組んだ。しかし、オペラハウスの建築は、様々な壁に当たった。ウツソンは、工事の途中で、辞任することになったのである。

 

次回の記事で、この続きについて書く。

 

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