終戦70年を迎えた本年、「祖国と青年」1月号には、歴史体験セミナーにおける勝岡寛次さんの昭和天皇についての講義録が掲載されています。
前半は、開戦の詔書と終戦の詔書を繙きつつ、常に平和を祈られる昭和天皇の御心について述べられていますが、後半では、戦後の昭和天皇について触れていらっしゃいます。
その後半のお話を、今回と次回の2回に分けてご紹介します。
『昭和天皇実録』の公表以来、様々な学者が昭和天皇について論じてゐますが、中には聞き捨てに出来ないほど、おかしなことを言つてゐる人がゐます。その一つが、昭和天皇は占領下でキリスト教に「改宗」する道を探つたといふものです。原武史といふ人が、昭和天皇は、キリスト教に改宗しようとしたんだ、と言つてをります。
確かに『昭和天皇実録』を見ますと、占領下で昭和天皇がキリスト教関係者に頻繁にお会ひになり、皇后と一緒に何度か聖書の講義を受けられたことは事実なんですね。ですから、さういふ解釈も出てくるんでせうが、それは余りにも無知といふか、この国の拠つて立つ根本が天皇のお祭りにあるといふことが全く解つてゐない、学者の空理空論だと私は思ふんですね。
このことを考へる上で、非常に重要だと私が思ふのは、敗戦から丁度一年後の昭和二十一年八月十四日に、昭和天皇が終戦後の歴代首相や閣僚を一堂にお召しになり、座談会を催された。その座談会の席上、冒頭に昭和天皇はかういふことを仰つたといふことを、侍従の入江相政といふ人が記録してゐます。
「聖上より御言葉あり、…朝鮮半島に於ける敗戦の後国内体勢整備の為天智天皇は大化改新を断行され、その際思ひ切つた唐制の採用があつた、これを範として今後大いに努力してもらひたしといふやうなお言葉であつた」(『入江相政日記』)
「朝鮮半島に於ける敗戦」といふのは、七世紀半ばの白村江の敗戦のことですね。日本は歴史上、対外戦争をして負けた前例が、それまでにもたつた一例だけあるわけです。それがこの白村江の敗戦(六六三)です。
この時は、日本は唐と新羅の連合軍に大敗したんです。その敗戦後にどういふ施策がなされたかといふと、遣唐使を盛んに派遣して、唐の制度を積極的に採用した。唐の法制度である律令を採用し、宮中(大津宮)ではそれまでの和歌に代つて、漢詩文が大流行するんです。昭和天皇が仰つた「思ひ切つた唐制の採用」といふのは、そのことを指してゐます。
私は何年か前にこの歴史体験セミナーで天智天皇・天武天皇のお話をしたことがあります。「唐風」と「国風」といふお話をその時に致しました。壬申の乱(六七二)は、煎じ詰めて言へば「唐風」と「国風」の思想的対決なんだと。「唐風」といふのは、天智天皇が白村江敗戦後に採用された政策のことなんですね。全てを中国風に改めた。
これはまあ、或る意味では仕方がないんです。唐に負けない国になるために、唐の制度を積極的に採用し、唐の文化も大幅に取り入れたわけです。昭和天皇は、「これを範として今後大いに努力してもらひたいし」と仰つた。そこで、これを二十世紀の敗戦後の日本に当てはめると、どういふことになるでせうか。
まづ、米国式の憲法を採用した。宮中でも、米国人のキリスト教徒であるバイニング夫人を皇太子の家庭教師にしたり、天皇陛下さへもが、皇后と一緒に聖書の講義をお聞きになつたと。まあ、象徴的に言へばさういふことですよ。
ですからこれは、私に言はせれば、「唐制の採用」ならぬ、「思ひ切つた米制の採用」なんです。(続く)