左甚五郎&飛騨の匠 | 不思議なことはあったほうがいい

 出不精のこの僕が、奥さん「死ぬまでに世界遺産が見たい!」と大げさにいうので、お手軽に日光東照宮を散策。さあ、これで「ケッコウ」と言うことができるわい。ニコニコ

 家康の墓所(奥社)は別料金払って入らねばならんが、その入り口の鴨居(?)にいるのが有名な「眠り猫」、その作者として名高い伝説の彫刻師こそ左甚五郎。僕の東京お気に入りスポットのひとつ上野動物園、その隣の上野東照宮の門に「昇り竜・降り竜」の彫刻を残したのも彼であった。

(脱線だが、日々修復されキラビヤカな日光東照宮に対して、上野東照宮はせっかくの彫刻も色がついていなかったりしてお客もまばらでサミシイ。オリンピックみたいな大イベントに金をかけようというのもいいが、こういう文化財にも金をかけて立派に完成させてやってもいいんじゃないか)


 文禄年間、播磨明石の生まれで、13歳ころから大工として活動をはじめ、京の方広寺や紀州・根来寺の工事で活躍、江戸城改築にも参加したが、抜け道の秘密を知ってしまったために刺客に襲われる。高松に逃げ延びて殿様にかくまわれ、以降ここを拠点に各地に名品を残し58歳で死去したという……襲われたとき右腕を失い以降、左腕一本で勝負したから「左」というようになったんだ。いや、生来左利きだったから「左」なんだ。いや、逆にもとから「左」という姓だったので、そういう伝説が生まれたんだ……

 …っていうか、そもそもその来歴じたい、のちのひとが噂・講談などをくみあわせてつくった伝説なんだ、そういう人は実在しなかったんだ、全国に「甚五郎作」とつたわる建築装飾が数多くあるが、実際の製作年代があわないじゃねえか、そもそもヘンテコな伝説が作品にまとわりついているじゃねえか。

 たとえば先の上野の竜は別名「水飲み竜」ともいうが、それは夜中に不忍池の水を飲むため門から離れて動き回ったからだ。埼玉・秩父神社では、彫物の竜が田畑を荒らして困るので、これを鎖でつないだ(「つなぎの龍」という)などなど。

 だから「甚五郎作」という彫刻があるだけで、寺社や商店がとかく話題になって繁盛することもある。悪人に苦しめられている店があり、旅の隠居一行がそれを助けたが、たまたま甚五郎もそこに居合わせてオレも一肌脱ごうと彫物残して去っていった(ってそれは昔「水戸黄門」でやった話。甚五郎役がドリフの仲本工事だったので「実在の怪しそうな人だなあ」とボクも思った。ひひひ)。

 

 ところが「弘法も筆の誤り」といわれるように、天才大工もときに失敗することがある。

 とある大寺社の建築に携わった甚五郎、なぜか柱を短く切ってしまい大ピンチ。そんなとき、甚五郎の妻がアイデアを出す。枡組をはさんだらいいんじゃね? ほら、柱の上に彫刻がはさまっているアレのこと。「ああ、そうか!」 それでピンチを脱した甚五郎であったが、余計な口出しをして夫を辱めたことを後悔した彼女はナントガーン自害してしまった。以来、棟上式のときには女人をお祭りするのが大工さんの慣習になったんだそうな。……

 京都・大報恩寺千本釈迦堂での、飛騨守・高次と妻の「おかめ」の物語としても知られるストーリーで、「おかめ・ひょっとこ」のおかめはこの「おかめさん」の顔を模したものでもあるのだ云々。同様のストーリーで飛騨国分寺・七重塔での飛騨匠と娘「八重菊」の話では、工事があやうく失敗しそうになった、というドジの露見を恐れた匠は娘を殺して寺の庭に埋めた。そこから一本の銀杏が伸びたが、彼女は身重だったので、乳がポタポタしたたった…。今でも天然記念物として残っている云々。(ひょっとこの起源関連→「竜宮童子 」)

 橋をつくるときに人柱になるのは女が多いが、じつは寺社を作る際にも、女の助け=犠牲があった、ただしそこには名工のドジというオプションがあった。どんな優れた人間でも失敗はあるもので、失敗しないことを前提にしていたら、イザ失敗したときパニックになってしまう。だから心がけるべきは「失敗しないこと」ではなく「失敗したときの対処」、というのがボクが日常・会社でお仕事するときの心構えなんだが、周りの人には理解できないらしく、完璧主義者が多くて困る。そういうやつにかぎって失敗すると笑ってごまかすだけで、失敗のフォローを押し付けたりするこまったもんだ。また脱線。


 なにがいいたいかというと、ほんとうは「ヒダリ甚五郎」ではなくて「ヒダノ甚五郎」が訛ったんじゃね? という説もあるよということ。つまり「飛騨の甚五郎」、彼は「飛騨の匠」でもあった。

 

 飛騨の匠も伝説的大工として奈良時代から知られる名前だが、たとえば『今昔物語』巻二十四では親友でもある天才絵描・百済川成にイタズラをしかける話がある。

 「我が家に一間四面の堂をなむ建てたる、おはして見給へ」と招待されたので、川成が遊びに行くと、なるほど小さな堂があり四方の戸は開け放ってある。中に入ってくれというので、「川成、縁に上りて南の戸より入らむとするに、其の戸はたと閉づ。驚きて廻りて西の戸より入る。亦其戸はたと閉ぢぬ。亦南の戸は開きぬ。されば北の戸より……」という具合にあっちが開けばこっちが閉まり、こっちが閉まればあっちが閉まるというカラクリ部屋だった。飛騨の匠はゲラゲラ笑って勝ち誇ったが、後日、川成は本物そっくりの死体の絵(ニオイまでする!)で匠をだまして溜飲を下げた。

 また飛騨の匠はより腕を磨くために、自ら彫った木彫りの鶴の背に乗って空を飛んで大陸へ渡った。途中弓矢名人に射かけられるなどピンチもあったが無事・秘伝を身につけ帰国した。死後、大工の神・木鶴大明神として祀られたのはそういうわけである、とはさきの飛騨国分寺に伝わる木鶴神木像の話。


 そもそも「飛騨の匠」とは個人のことではなく、飛騨国から徴発された建築に携わった徭役人足たちの総称であった。どういう経緯があったのかわからんが、飛騨国は租庸調のうちの庸調が免除されるかわりに、毎年一里ごとに10人づつ、国合計だと、100人前後の「匠」を供出するという制度が律令で義務付けられていた。この制度は平安時代末期まで続いたらしい。全員が優秀な技師だったわけではなく、大半はドカチンやガラダシやスミツボのテモトやらだったが、それでも最新技術を身につけた職人が一年後には飛騨に戻るのだから、飛騨は一大建築屋大国だったわけだ。その成果として先の国分寺や国分尼寺があり、その建築は都の最新式技法の見本市=練習台=モデルルームのようなものだったらしい(たとえば全国で唯一、当時最新の唐招提寺と同じ造りをしていたのだとか)。


 木をあつかう技術者のうち著名な人の話は記紀にもある。『日本書紀』雄略天皇のところには何人かそういう人たちが出ている。

 雄略十二年、天皇に楼閣建築を命ぜられた闘鶏御田(ツゲ・ノ・ミタ)は、足場でのその作業ぶりがまるで飛ぶ鳥のごとくで(トビさんか…)、それをホケーと見物していた采女が供物をひっくり返してしまった。天皇は御田が采女を犯そうとしたんだとかんちがいし、御田を処刑しようとするが秦酒公が歌で訴えて助命した。闘鶏というのは大和国下辺のあたりの地名(余談。その直後に歯田根命が下辺の采女を犯そうとして騒動になるエピソードがあるがこれも歌の訴えで罪一等減じられてたらし。次の猪名部の話とも含めて似たような話の連鎖錯綜)。(→闘鶏氏の起源関連「衣通姫 」の忍坂大中姫の話。)

 雄略十三年、工匠・猪名部真根(イナベ・ノ・マネ)が石台の上で木材を加工していると、天皇が尋ねた。斧を石にぶつけて壊すことはないのか? と、真根サンは「つひに誤らじ」と自信満々。そこで、天皇は采女に女相撲をとらせて真根を動揺させ、その結果、真根は斧を傷つける。天皇、ワシに嘘をついたな!と怒って真根を殺そうとしたところ、仲間の匠が歌で助命を請うた。「あたらしき イナベの匠 懸けし黒縄 其が無けば 誰が懸けむよ あたら黒縄」。それで天皇ハタと目覚めて、処刑を中止した。なるほど真根はスミツボ名人だったんだ。(ちなみにこのとき処刑中止を知らせるために走った早馬は甲斐の黒駒だった…あ、聖徳太子!→「鬼鹿毛 」)

 スミを引くというのは、あのタコ糸でパンとはじくのがケッコウカッコウいんだが、『万葉集』巻十一に「♪かにかくに 物は思わず 飛騨びとの 打つ墨縄の ただ一道に」とあって、飛騨匠のそれはかなり有名だったらしい。ちなみにこの猪名部という一族は、応神天皇のとき、武庫の港で大火災があったとき、どうやら新羅の使者の宿舎が火元らしいということで問題になり、あわてた新羅王がお詫びに献上したのが、「能き工匠」猪名部の祖先だという…これは摂津の地名に残っている…。

 そういう「公式」な話とは別に、彼らはみな飛騨の川合に拠点を置いていたという伝話があった。そもそも、村を流れる小鳥川辺に「信夫」という醜女があって、オトコができないのを嘆いてお月さんに拝んで、月光の映った水を飲んだところ、処女懐胎した。生まれた子供が「飛騨匠」の初代・土利仏師=鞍作鳥なんだと……。


 そもそも飛騨は美濃の一部で、良質の木材を産出したから馬に負わせて運んだところ、空飛ぶごとく速くてびっくりした、だから「飛騨国」というと、『和漢三才図会』にあるというが、それは近江大津宮造営=天智天皇の頃の折のことという。それで、現場で木を切り出したり加工したり、材料をもとにくみ上げたりする技術をもった人々が集まって、奈良時代には有名だったということかもしれない。


 すぐれたアイデアや技術があっても身は一つ、たくさんの仕事をこなすにはどうしてもアシスタントが必要だ。そこで飛騨の匠=左甚五郎は、不思議な術で木偶人形に魔法をかけて、ああだこうだとこき使い、予定の如く事業を終えた。それで、いらなくなった木偶たちを川に流して棄ててしまった……治水土木のエキスパート(それは古代においては風水・占いのエキスパートでもあった)を現場でささえる職人や手元たち、それがじつは河童の起源である、というのも興味深い伝説。ここに柱を補って死んだ地上の乙女と、柱そのものとなって死んだ水中の乙女の接点があるんじゃないか。