衣通姫 | 不思議なことはあったほうがいい

 記紀には、「衣通姫」のあだ名で呼ばれる女性が二名いる。

 ①『日本書紀』では允恭天皇の后・忍坂大中姫の妹・弟姫。

 ②『古事記』では允恭天皇の娘・軽大娘女。


 ‥‥‥‥‥‥


 ①弟姫の話。

 反正天皇の没後、後継者として推された雄朝妻稚子宿禰は、病身であることを理由に固辞する。「父さん(仁徳)もダメだって言っていたよ」。が、どうしても彼を帝にしたい、妻の忍坂大中姫は、彼の部屋の前で清めの水を掲げ持って師走の寒空の下、ガンバリ続けた。「大王、群の望に従ひたまひて、強に帝位に即きたまへ!」水は凍りつき、姫の唇もきっとまっつぁお。とうとう根負けした雄朝妻稚子宿禰は、即位を承知した(数年後に新羅からいい医者がきて、元気になった)。
 忍坂大中姫は、そういう負けん気強い女性であって、まだ実家にいた頃、闘鶏(ツゲ)国造仁徳の晩年、皇室に氷室の氷水を献上する役についていた人)が通りかかって、彼女の畑のノビルを所望する。「何に使うの?」 と訊くと、「顔の周りにブンブンと羽虫が飛んでウザいので、これで払うのじゃワハハハ」。姫はトサカに来た。「人が一所懸命つくったものをそんなことに使うのにわざわざ取らせるとは無礼なKYオヤジ! 首や、余、忘れじ!!」。で皇后となるや早速彼を呼びつけて「死刑!」。「ひえーお許しを!」。そこで、位を落とすことで許してやったという。允恭即位暫く後、人々が勝手に「うちの先祖は○○」とかいって氏姓がぐちゃぐちゃになっていたので、盟神探湯を実施して、整理したというから、そのあたりとからんでくるのかも知れない。江戸幕府が初めの頃、何かと因縁をつけて大名を整理したのと似たようなもんかな?
 で、その后の妹・弟姫が、美女「衣通姫」。

 新居の落成祝いで天皇自ら琴を弾き、皇后が舞う。当時は舞役が「娘子を奉る」と言うシキタリがあったので、天皇が無理やり皇后にそれを言わせると、「じゃあ誰をくれるのかな?」‥‥しょうがないので「妾が弟、名は弟姫」と。容姿絶妙比び無く、其の艶色衣を徹りて晃れり!!‥‥なんかヒッコミ的だった雄朝妻が天皇になったとたん強引になっちゃって権力って恐ろしい。天皇は中臣烏賊使主に弟姫を向えにゆかせるが、姫は姉后のことを思って固辞し続ける。すると烏賊しゃんは七日間飲まず食わずで座り込みガンバル(じつはこっそり非常食を食らっていた、ズルイ!)。とうとう根負けした弟姫は降参。天皇は近くに別宅をこさえて通うことにする。ところがこのとき、皇后は産月で、出産なのにオンナ(妹)に会いにゆくっていうから、怒っちゃって、「産屋に火をかける!」と大騒ぎ!(このとき生まれたのが大泊瀬=後の雄略天皇→関連「ウガヤフキアエズ」 ) それで、弟姫は河内の茅淳へ引越させ、たびたび狩猟にかこつけて会いに行った。皇后が「出費がかさむから遠慮してください」と暗に批判するので、どうしてもお通いはまれになる。弟姫は「常しへに君も遇へやも、漁取、海浜藻の寄る時々を」と歌い、寂しさを訴えたという。天皇は后が嫉妬するといけないので、その歌を封印せよと命じたとか。それで浜藻のことを「名告りそ」というそうな。

 ‥‥この話は『古事記』には見えないが、 似た話は‥‥允恭の父・仁徳天皇が女官・玖賀姫を召そうと思ったが、皇后・磐之姫がこれまた嫉妬深くアブナイ人なので、播磨国造祖・速待に賜ることにしたが、姫は固辞し続けて死んでしまった。その後、仁徳は八田皇女(異母妹)を召したいと思い、磐之姫が留守の間にやっちゃって、怒った磐之姫は都に帰らない。向えに行った国持臣はしょうがないから雨のなかガンバッテ座り続けた。国持臣の妹・国依姫が涙ながらにうったえたが、磐之姫はガンとして譲らなかった。‥‥と、近い時代の話があって、キャラとか話がこんがらがっている可能性もあるけれども、「倭の五王」とか「河内王朝」とかいわれるこのあたりの天皇周辺は多くの兄弟親戚が骨肉の争いを繰り広げておるからこういう混同もありうることだろう。(逃げる美女という観点からすると仁徳よりさらに一代前の応神時代の天日矛がきになる伝説)

 あやうく傾城の美女となるところであった、という話。


 ②軽大郎女の話。


 允恭天皇が真夏のある日、スープを飲もうとすると、冬でもないのに凍っている! ナンジャコリャ!? 占いによると、家庭内に乱れがある、兄妹で愛し合っているのがいる! と。

 それで<発覚>したのが、皇太子・木梨軽皇子と、妹の軽大郎女の<近親相姦>。このありようを、『日本書紀』は「暴虐行て、婦女に淫けたまふ、国人謗りまつる、群臣従へまつらず」と書いた。神道でいうところの「国つ罪」に、<おのが母犯せる罪><おのが子犯す罪><母と子と犯せる罪><子と母と犯せる罪>というのがあって、きょうだいのセックスは禁止されていないようであるが、慣習として、母親違いであれば兄・妹、姉・弟の組み合わせでもOKだが、母親が同じときは結婚はやっぱりダメだったらしいのだ。いちおう皇太子だから、ということで、軽大郎女がただ一人、伊予へと流された。

 彼女こそ、『古事記』では、「その身の光、衣より通り出づれば」衣通姫と呼ばれたという。

 だが、多くの臣下が弟・穴穂皇子の味方となり、危機をかんじた軽皇子は、物部大前、小前兄弟を頼って、戦争の準備をしたのである。允恭天皇の死去=次期天皇位争奪戦が発生、先に行動を起こしたのは穴穂側で、軍勢に館をとりかこまれた大前は「願はくば、太子をな害したまいそ、臣、議らむ」と説得を試みる。軽皇子はここに自害して果てた‥‥というが、一説や『古事記』では皇子がこのとき伊予に流されたのだという。さきに「軽大郎女が流された」というのは伝承が紛れたのだ、と本居宣長は解説しているそうな。

 そこで以下、『古事記』によるなら、(都に残った)軽大郎女は「君が往き、け長くなりぬ、山たづの迎へを行かむ、待つには待たじ」と歌って、お兄様の後を追いかけた!(ちなみに『万葉集』では、磐之姫皇后が仁徳天皇を偲んで(おそらく八田皇女のもとへ通っていたとき)歌った歌というのがソックリ)。

 伊予の地へ!! 記紀の成立したより数年後の神亀元年三月、そこは流刑地としては諏訪と並んで「中流」と定められたと『続日本紀』にあるが、当時から温泉がでることで有名なところ。『伊予国風土記・逸文』によるならば、神代、少彦名 が亡くなったとき、大穴持(=大国主)はなんとかしなきゃと思案して、大分の温泉(つまり別府温泉)のお湯を地底トンネルを掘ってこの地に湧き出させ、少彦名に浴びせると、「しばしが間に活起りまして……「ましまし、寝ねつるかも」と曰りたまひて、踏み健びましし跡処、今も湯の中の石の上にあり。凡て、湯の貴く奇しきことは、神世の時のみにはあらず、今の世に病に染める萬生、病を除やし、身を存つ要薬と為せり」。なんだ、結構楽しそうなところジャン。過去には、景行天皇八坂入姫も訪れた。この八坂入姫は、天皇は彼女の妹のほうが好きだったのだが、妹が結婚を拒否して、姉を推薦したのであった。また景行には、播磨の稲日大郎姫(印南別嬢)という后があって(この人が倭健のママ)、『播磨国風土記』では、彼女に逃げられた天皇が、追い掛け回るという話があったりして、こういう話って、さっきからよくあるんだナア。その後、仲哀天皇神功皇后も伊予の温泉につかりにきたらしい。『万葉集註』に「伊予国風土記」に載っている皇后の歌として「橘の島にし居れば川遠みさらさす縫ひしわが下衣」。これ『万葉集』では誰の歌とは書いていないが、ようするに結婚相手をちゃんと見定めなかったのは失敗だわ、という歌。できすぎ。脱線。

 かくして愛の流刑地=温泉にて再会した、愛し合う兄・妹。

       (このシュチュエーション萌え~(/////)(死語))

 皇子の歌

「隠り国の泊瀬の川の、上ツ瀬に斎杭を打ち・下ツ瀬に真杭を打ち、斎杭には鏡を懸け・真杭には真珠を懸け、真珠なす吾が思ふ妹・鏡如す吾が思ふ妻、ありと言はばこそに、家にも行かめ・国をも偲ばめ」。かく歌ひて、すなはち共に自ら死にたまひき‥‥。

 この最後の歌は『万葉集』巻十三にソックリのが載っていて、ただラストが「ありと言はばこそ、国にも家にも行かめ、誰がゆゑか行かむ」となっていて、反歌「年渡るまでにも人はありといふを 何時の間にぞもわが恋ひにける」また一書の反歌に「世間を憂しと思ひて家出せし 吾や何にか帰りて成らん」。なんか再会したって歌ではない。むしろ、絶望して世捨て人になって当地にとどまろうという歌である。まあ、きっと、物語側が歌をパクってきた(歌を欲した)んだろうなあ。

「美」という字は、もともと羊を神様に饗したところからきているということであるから、美女も神様への貢ぎモノと考えていいのだろう。実際は兄妹ではなく、皇子が大郎女を賞して「斎」「珠」「鏡」とかいっているのは彼女は神に仕える身であって、それを犯したという罪のことなんじゃあないか、という推理もできる。

 

‥……‥‥

 

 『古今和歌集』「仮名序」紀貫之が、六歌仙を紹介するくだりで、小野小町のことを「古の衣通姫の流なり。あはれなるようにて、つよからず、いわば、よき女のなやめることろあるに似たり‥」云々と評している。これはどちらの女性のことだろう? ここでの「衣通姫」は個人名ではなく、「衣服を透けて通るほど素肌の美しい乙女」という一般名詞として考えたほうがよいのではなかろうか? 貫之は歌風が「衣通姫流」とでもいうような乙女なカンジなんだ、といっているのだが、「小町は衣通姫のような美人なんだ」というカイシャクした人があったらしく、のちの小町=美女伝説が作られることになる。さらに、小町が歌の上手なら、そのオヤブンの”衣通姫も歌の天才だ”ってことになり、和歌山の玉津姫明神がそれなんだってことになった。こういう例は探せばいろいろでてきそうであるが。

 素朴な疑問。衣服を通して光り輝く肉体! ってのは色白ってこと? 美白といえば、「なまず 」ででてきた豊玉姫。ってことは今回よくきく「オトヒメ」(→関連「機織淵 」)。それとも、服じたい薄絹で素肌が見えてイロッペーってこと? アメノウズメみたいなストリッパー?