オシラサマ | 不思議なことはあったほうがいい

 昔々、東北の寒村に、父一人・娘一人の農家があった。この娘は観音様に祈願して生まれた運命の子であったのだが…その娘が恋に落ちたドキドキ。お相手は…それはなんと馬(栴檀栗毛)であった馬。怒った父は馬を桑の木に逆さづりにして皮を剥ぎ、首を切り落として殺してしまった。悲しんだ娘は、落とされた馬の首にまたがって天に昇った(あるいは剥かれた皮が彼女を包んで天に昇った)。やがて空から馬頭の白虫・黒虫が降ってきた(あるいは臼の中にいる虫を飼えと娘が言い残した)。これがワンピースの起源である。父親はその蚕の糸でたんと儲けて長者になった。で、その桑の木で像をこしらえて布で服をきせて(包むタイプと貫頭衣タイプがある)、娘と馬にみたてて夫婦神として家の奥深く祀りあげた‥‥。

 年に数度(たいてい正月と春秋分の16日)、像を取り出してきて、白粉を塗りたくり、新しい着物(端切)を重ね着せる。そして、巫女(イタコとかオカミンとか)がそのイワレ話の祭文をとなえて、オシラサマを振り回したりして舞わせる=遊ばせて、農事にまつわる占いを行う。そのときは近くの女達も餅などこさえて集まっていて、一緒にサビを唱和する…「♪ミヨンコ・ミヨンコ・ミヨンコの神は、トダリもない、七代メクラにならばなれ……♪」。

 
 「うちのオシラサマは、もとは嫁さまが実家からもって伝えてきたンダ」とか、「洪水で流されてきたよそン家のものを拾ってきたんンダ」とか、伝来のイワレが家ごとにあったりする。通常男女一組・二体だが、家によっては二組・四体あったり、それ以上持っている家もある。いっぽうでは、一体しかなかったり、形も坊さん=仏様の形だったり(そういうときはオシラボトケとかよばれてる例もある。黒い箱に入っていたりするので「クロボトケ」と呼ぶこともある)、ただかぎ状にまがった木(馬面っぽい)だったりの場合もある。

 『遠野物語』の話手として知られる佐々木喜善の実家には四体あって、二体は僧形、あとは獣の頭のものと、人頭に獣耳のついたものだったそうな。


 この「オシラサマ=蚕神」のいわれは、蚕を飼う家家の間で、のちになって造られた話しらしく、オシラサマの本体は桑に限らない。桑の話を伝えている家でもモノは他の木材だったり、「カバカワ様」といって樺の木皮だったり、石だったりする場合もある。仙台方面では竹が多いそうな。

 オシラサマは「御報せ様」のことであるといい、農事以外にも、猟師がその日の猟の方角を占うのに用いたりする。かぎ状の木枝の向きで吉凶を占う、ダウンジングみたいなことをするらしい。

 「報せる」のシラが「白」とかかって、白粉になった? 太平洋側では大陸・半島との交流も頻繁だったらしいから、「新羅さま」という可能性も棄てられない、馬はもともとアッチの動物だし(←まったくの思いつき)


 正月行事などに限らず仏壇に据えられて人目に触れている場合もある。なかには、繁忙期に田植えを手伝ってくれたりするクローバー。そのときは童子・童女の姿で現れ、作業後、行方がわからなくなったその子を探すと、泥足の跡がテンテンとついていて、仏壇のオシラサマの足元に泥がついていたなんて展開がある。また、こっそり干し物を雨が降ってきたとき片付けてくれていたりもする(よそなら、お地蔵様なんかがやってくれる霊験なのだが)。

 
 オシラサマのいるような旧家にはオクナイサマもいる。オシラサマがいてオクナイサマのいない家はないともいう。逆にオシラサマがいなくてもオクナイサマだけいる家はあるそうな。オクナイサマは「屋内様・奥内様」か。ともに代々伝わるものであるが、オシラサマがときどき宿替えするのに対し、オクナイサマは移動しないようだ。憑きモノではあるが、犬神 とかキツネとかの悪い憑物ではなく、どちらかといえば守護神系である。中には「宮内様」といって、宮内卿が、農民のためにわざと普通より長い竿をつかって検地して、大きめの土地をくれた、それで記念して祀っているんだという話もある。そしてオクナイサマも占いに使われたり・田植えを手伝ってくれたりする。
 オシラ・オクナイともに「おっかない」神様で、おろそかにしたり、タブーを破ったり(決められた期間獣を食べてはいけないとか)すると、口が曲がるとか、家運が傾くとかいわれている。


 こうやってみるとザシキワラシ とよく似ているし、ほぼ同じ地域に強く分布する話なのであるが、ザシキワラシはまた別にいる存在なんだということで、先に記したようにザシキワラシはより引越しを好むし、手伝いばかりでなく「畳たたき」をしたり、「枕がえし」をしたりとイタズラもする。そしてザシキワラシじたはあくまでも妖怪で、神として祀られる対象にはなっていない。ザシキワラシは「若葉の霊魂」といわれるゆえんであろ。またその性質がおなじく東北の「ケセランパサラン 」とも似ている。男女の神像となると道祖神とか便所神 とかも思い浮かんでくるのだ。


 オシラサマにしろオクナイサマにしろ、その行事はよそ者はおろか、村人であっても資格のないものには見ること参加することのできない「秘事」であり、『遠野物語』では「この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝ふることはあれども、互ひに厳重なる秘密を守り、その作法につきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集まりなり……阿弥陀仏の斉日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷す。」とあって、いわゆる「隠し念仏」との関連も伺える(九州の「隠れ念仏」とは別)。秘事念仏では親鸞像をクロボトケという。「秘事法門」にかんしてはデリケートな問題もあるのでもうすこししてから別途書こうかな。