鬼鹿毛 | 不思議なことはあったほうがいい

 説教節小栗判官」の物語に登場する怪馬。

大納言兼家が鞍馬寺毘沙門天に祈願して生まれた有若は、幼い日から秀才・美麗にして、やがて「小栗」と改名し嫁探し。アレコレ言って相手がきまらぬうちに、横笛吹いて市原を行くと、「深泥ケ池の大蛇」にみそめられ、大蛇は美女にヘンシーン。ついにカンケイしてしまう。  これが父の逆鱗にふれた。小栗は故郷をおわれ、常陸の国へ流人となる。

 じっとしている小栗ではない。出入りの薬屋を仲人に、武蔵・相模の郡代、横山殿の息女・照手姫に懸想する。ところがナイショでことをはこんだことで、横山はカンカン! そこで三男・三郎が小栗暗殺を立案。小栗を宴席に招いて、乗馬の技をリクエスト。たやすいこととひきうけて、小栗とその十人の部下が厩へゆくと……

 「左手と右手の、萱原を、見てあれば、かの鬼鹿毛が、いつも食み置いたる、死骨白骨、黒髪は、ただ算の乱いたごとくなり。十人の殿原たちはご覧じて、「のういかに小栗殿、これは厩でのうて、人を送る野辺か?」」

 そのとき雷のようなすざまじき鼻息吹! 見れば「これやこの、冥途の道に聞こえたる、無間地獄の構えやらんも、これはいかでまさるべし」! 屈強の山男85人が持つような頑丈巨大な楠の柱を左右に八本、そのほか、三人がかりで抱くほど太い栗の柱がズンズンズンとぶっ立ち、横木は千本あるかとまがうほど。鉄の格子をすかしてみれば、四方八本の鉄鎖でつながれたその馬こそ、噂にもれきく奥方の鬼鹿毛!!

 これに動揺した部下たちは、少しでも鬼鹿毛が小栗を食おうとするならば、切って殺して、横山一門七千騎と一戦交えようのいきおいに、小栗、「このような大剛な馬は、ただ力業では、乗られぬ」と馬に向って静かに語りはじめる。

 ……そもそも馬は人に飼われて念仏を横で聞き、後生大事と心がけるものなのにお前はどうだ、「人秣を食むと聞くからは、それは畜生の中での、鬼ぞかし。生あるものが生あるものを服しては、さて後の世をなにと思うぞ」。ところで今回は私の面目のために一馬場乗せてくれないか、もし聞いてくれたなら「鬼鹿毛死してその後に、黄金御堂と寺を立て、さて鬼鹿毛が姿をば、真の漆で固めてに、馬をば馬頭観音と、斎うべし」……。

 他人には見えないけれど、鬼鹿毛の目には小栗の額に「よねという字が三行座り、両眼に瞳の四体御ざあるを、たしかに拝み申し、前膝をかっぱと折り、両眼より黄なる涙をこぼいたは、人間ならば乗れと言わぬばかりなり」。………かくして小栗は、鬼鹿毛の裸背に乗って、「えっやッ」! 鉄の鎖ももげ抜ける。その歩く姿、「龍が雲を引き連れ、猿猴が梢を伝い、荒鷲が鳥屋を破って雉に会うがごとくなり」。       

 しっかと脇をはさみこみ、鬼鹿毛をすっかり手なづけて、実に拓みに手綱をさばき、次々と曲乗りの妙技を披露する。大きな桜木に馬を繋いで、横山の前へ戻った小栗は、「こんないい馬がいるのなら引き出物に十匹くらいチョウダイな」とケロリ。そのとき鬼鹿毛、桜木をくっと引き抜き、堀を飛び越え小山の如く屋敷のそとへと飛び出した! すっかりヘタレた横山、小栗が「芝繋」という呪文を唱えると、鬼鹿毛は小栗のもとへ戻ってきてゴロゴロゴロ……。
 面目丸つぶれの横山は後日、小栗主従を罠にかけて毒殺し、照手姫をも海に流す。照手は人買いに売られ売られて、美濃青墓の万屋・長の太夫のもとで「常陸小萩」と名乗り、下働きする。数年後、餓鬼阿弥という、らい病者が土車に乗せられてやってくる。熊野本宮湯の峰へ療治の途上、この土車を引けばたいそうな供養になるときき、照手は死んだ小栗主従供養のために、土車を引く……。のちのち、餓鬼阿弥は病本復し恩返しに万屋を訪れるが、じつは彼の正体は、閻魔大王の温情でこの世に生還した小栗その人であった。小栗は大軍率いて横山を討たんとするが姫にすがられ中止(それでも謀略を練った三郎だけは簀巻きにして殺した)、横山が献上した黄金で御堂をつくり、鬼鹿毛との約束どおり、馬頭観音をマツッた……。


 この物語のキモはなんといっても聖女・照手と餓鬼阿弥蘇生の話であって、冒頭の大蛇と契る話や、鬼鹿毛の話などは、もとは別に存在していた話をエピソードとしてとりこんだものであろう。大蛇との契り話は、「小栗」とはもとは「緒繰り」で、三輪山伝説(→「がんばり入道」 の流れからきているんではないかという説もあったりしてオモチロイのであるが、ここはお馬さんの話。


 鹿毛というは字の如く、鹿のような茶褐色をした毛並みの馬のこと。馬の中では一番多い毛並みという。鬼のようにデカイ・コワイ鹿毛馬というような意味であろ。こうした優れているが馴れない馬を乗りこなすことでヒーローの面目躍如=超常性を発揮するというのは、フと思い出すのは聖徳太子にまつわる話(「今昔物語」巻十一)。

 甲斐からたくさん馬が贈られて来たそのなかに、一匹気に入った黒駒があって(足は白かったともいう)、太子が乗ってみると、忽ち空に浮き上がり、雲かきわけて猛速力で駿河に至り、富士山に登った。そこから、信濃・北陸を経巡って三日後に戻ってきた……その証拠(?)に富士山五合目には「推古天皇六年秋九月、黒駒に乗りて登る御年廿五」なる石碑があるそうな。エー! 三度も登ったのに知らなかった! 次行くとき覚えておこう!!(このとき馬の口をとっていた舎人がずーと付いていた、お前は偉いやつじゃのお、というのがお話のオチ)

 で、こういった、スゴイ馬のことを「龍馬(りょうま)」という。なんでもスケベな龍がメス馬に産ませたのだそうで、一駆千里を行くという。中国の古典「事杖広記」では翼のあるペガサスみたいなナリで、これはまさに地の宝である云々とあるそうな。それが日本にも伝わって、おなじみ「万葉集」巻五、大宰府にいた大伴旅人が、都の友人にあてた手紙に記した歌。

 「竜の馬も今も得てしか、あをによし奈良の都に行きて来むため」

 猛烈に速い龍馬でなければ、あっという間に逢いに行けるのに……相手は男性らしいけど、まるで恋文o(^▽^)oキャハ……。まあ性能云々は別にしてワレワレ下々のものが「ベンツ」にあこがれるようなもんか。

 で、ちょうど同じ奈良時代、天平12年(740年)九月三日、九州にて反乱をおこした太宰大弐・藤原広嗣は、松浦から平城京まで一日で往復する馬を持っていたと、『平家物語』巻七にある(清盛死後の不安な世相を静めるため伊勢神宮に行幸しようというくだりで、玄昉の活躍を語る話)。追っ手に追われた広嗣はその馬とともに海に飛び込んだが逃げ切れず、亡霊となった云々(『続日本紀』によると十月二十三日捕らわれて、翌一日斬首となった。こちらでは広嗣は船で済州島の目前まで逃げたが、西風に吹かれて九州へおし戻された、彼は駅鈴を海へ投げて神霊に助けを祈ったがききとどけられなかった)……。この馬が何毛であったか残念ながら知らん。

 さらに下って、『太平記』、後醍醐天皇に龍馬を献上した侍がいたという話題が載っているそうな。これは月毛馬で出雲から京都まで(七十六里)一日で駆けてきたんダと、宣伝された。天皇・臣下悦に入っているなかで、一人「そんなアホな話あるもんか」とリアルに批判する男があって、すっかり天皇はシラケたんだと……。

 千里行く竜馬→三日で富士山巡り→北九州から奈良まで一日→山陰から京都まで一日→……時代が下るとだんだん数字が小さくリアルになってくるのがおもしろい。

 

  くだんの鬼鹿毛がどのくらい駆けるのかは「小栗」にはないけれども、きっとかなり走れはするんだろう。でも、わが鬼鹿毛は、聖馬ではない。人を喰らうバケモンであった!


 人食い馬! オオ、南方熊楠『十二支考』でチョット触れらてる。ギリシア神話・ヘラクレス12の難行のうちの第8番。トラキア・ビストン族の王ディオメデスが人食い馬を飼っていて、旅人をエサにしていた。ヘラクレスは馬番をやっつけて人食い馬を連れ出して、悪王を食い殺させた。それから馬もおとなしくなった。(※同書が紹介するところでは、「小栗」だけでなく「百合若」も、ギリシャ方面の昔話が起源であると坪内逍遥が書いたゾ、とかあるが、そういう方面まで話を広げるのは自分の本位ではない。)

 人食い馬! オオ、喰いはしないが、手塚治虫の『どろろ』 で出てくる「ミドロ」などはその仲間じゃぞ。……ふう、やっと前回からつながった。


 

 とはいえ、そもそも馬は臆病な動物。いつ敵(捕食者)が襲ってくるからわからないから、ちょっとのもの音でも、耳をピクピク、目んめもソワソワ、特に視界の外(真後)あたりから近づこうもんなら、強烈な後ろ蹴りをかまして逃げる……。そんなマニュアルのない時代、喰われないまでも、大怪我おったり、蹴り殺されたってことは日常よくあっただろう。

 お馬に乗るときは、まず、馬を安心させリラックスさせなくてはなりません。そのためには、ちゃんと馬の目に入るところから近づいて(現代調教馬は左側からと決められておる)、優しく声をかけてあげるのがまず第一歩。鬼鹿毛に対して小栗がとった態度、まず話しかけるというのは実は理にかなったことなのであった。落ち着いた状態で信頼関係さえあれば、馬は載せてくれる。そして、大切なのは、馬上で馬の身体に負担をかけないよう上手に重心バランスをとって座ること。などなどいっていたらきりがないが、きっと小栗は、そんな乗馬術を、マスターしておったのであろう。どこで習ったの? 東山? いや、深泥池の大蛇がアヤシイのじゃあないかなあと想像してみる。だって大蛇っていっても、そりゃ龍のことじゃろう? 龍というのは要するに馬と通じるし、市原野辺というところは鞍馬に参る道スジで、白馬伝説というのがあるし……。

 鞍馬寺のそもそもは、おなじみ『今昔物語』の巻十一、聖武天皇のころ、藤原伊勢人という人が自分のお寺が欲しいなアと思って探していると、貴船明神が夢にその寺すべし場所を告げたが、よくワカンナイ。そこで愛馬(白馬)に「われ聞く、昔天竺より仏法を震旦に伝え来けることは、白馬に負わせてぞ来たりける。しかるに、わが願い空しからずして遂ぐべくば、なんぢわが夢に見し所に必ず行き至るべし」といいふくめた。パコポコパコポコお馬が歩いていった山中に毘沙門天の像を見つけて、馬に鞍して見つけたところに建てたので鞍馬寺となったとさ(実在した伊勢人の生涯を考えると「桓武天皇」の時代の間違いであろう、と佐藤謙三先生が注している。……また、鑑真のお弟子が夢に白馬を見て、鞍馬寺を建てたという話もあるそうな)。

 鞍馬といえば判官義経の修行地であるから、そういうイメージもあったんでしょう。……まあ単に、大蛇はそのあたりの遊女かもしれんが……。


 馬は走るためにその足先を進化させてきた動物であるから、走ることがとにかく仕事。とはいえ、それを操る人間がちゃーんと相手をわかってあげないといけない。荒ぶる神をマツルことで、その暴威を沈静化したように、小栗は恐怖の鬼鹿毛を馬頭観音としてマツルことで、支配下においたのだ……「調教」=教育とは相手のことをわかっていて初めて成功するものなのである……などとお茶をにごして今日はこれまで。


→ついでに毘沙門つながり「むかで」

→ついでに馬つながり「埴輪馬」