第2‐107話 障害者の幸福論実践編「自分を知る3」
検査の結果、私には身体障害のほかに発達障害もあると分かりました。中学高校になっても小学校の算数に取り組んでいたので、私の知能に何らかの問題があることは分かっていなかったわけではないのですが、身体障害による劣等感が大きすぎて、そのほか脳にも問題があることを認めることができなかったのだと思います。ただでさえ馬鹿にされてしまうことが多いなか、新たに馬鹿にされるような材料を他者に与えては絶対にダメだという危機感と言いましょうか。親にもそのように教育されてきました。生きていくためには他者より秀でた能力を持てと。自分の劣った能力を自分で認めるなと。そのため、私はその無理筋の理論を叶えるために「嘘」という方法を選びました。しかしそれは決して安易な手段を選んだつもりはありません。私の能力ではそれがこの世に存在する唯一の解決策だったのです。少なくとも私はそう思い込んでいました。今になって考えてみれば、それこそが私が長いあいだ苦しむことになった発達障害による影響だったと思います。それは元来の身体知能両方の能力の低さによる劣等感と、自らの生理的欲求と安全欲求を他者に完全に委ねざるを得ない構造によってもたらされる片時もなくなることのない不安感、それを私の発達障害による「拘りの強さ」と「完璧主義」と「ぐるぐる思考」によって認知がゆがめられ結果、私を取り巻く他者の認知とに壊滅的な相違が生じていた、ということです。私の頭の中私は今でも他者との話し合いの中で泣くことがあります。大体の理由は自分の思いが相手に伝わらないという悔しさからです。最近では社員が必ずやらなければならない動画研修を私がかたくなに拒んでいたことを発端に泣きました。私は担当者に「自分はヘルパーじゃないからやる必要はないんだ」と強弁して誤魔化していたのですが、社長に「いや、そんなことはないよ」と言われた私は、本当はその動画研修内の小テストを間違えことが怖いからやりたくないんだ、ということを必死に訴えました。しかし社長は「間違えてもいいんだ」の一点張りで、私の恐怖心を分かってもらえずあまりの悔しさに「怖いんだ!」と連呼しながら号泣してしまいました。45歳の漢泣きです相手にしてみればすべての人がやっている、3分から長くても10分の短い動画を見て簡単な三択問題に答えるというものを、なぜそんなにかたくなに拒否するのか、私の恐怖心の元であると訴える間違えだって許容してるし、他のみんなだって普通に間違えているといっているのに、なぜ私だけが子供のような理由を泣きながら必死に訴えるのかを理解できず困惑しているようでした。しかし話していくうちに、そのテストの結果は誰も確認はしてないという話を聞き、少し安心した私は恐る恐るやってみることにしました。結果は、6問中6問正解。社長は「ほら、できるじゃん」と喜んでくれました。気をよくした私はさらに5問の問題に取り組みましたが、そのうち4問を間違えてしまい、「ああ、やっぱりやらなければよかった、もうやりたくないな」と思いそれを口に出してしまいました。しかし社長は「じゃあ一緒にもう一回動画を見てみようよ」といって一緒に見てくれ、それでもよくわからなかったというともう一回一緒に見て見れました。すると、先ほどまであれほど分からなかった、自分ではその部分の説明はなかったと思っていた箇所がやっと自分の耳に入ってきて正解することが出来ました。私は少しうれしい気持ちになりました。過去を思い返してみれば、私が他者との良好な人間関係を継続的に維持できずにいたのは、いつもこのような事だったと思います。私の態度や能力が問われる→私が必死に正当化する→相手がそれに反論する→反論に反論できず感情に訴える→相手がそれに反論する→反論できず関係を遮断するそれは今までであれば、ただただ不本意な行為を無理やりやらされているという被害者意識でしかありまりませんでしたが、今は検査によって、自分の「こだわりの強さ」や「完璧主義」や「ぐるぐる思考」は一般社会の常識を大きく超えたものであり、それこそが他者とのコミュニケーションに多大なる影響を及ぼしているという選択肢を自分の中に持つことが出来ました。これからはその事実を踏まえて自分に起こる問題を考察していくことは避けて通れないのだと自分に言い聞かせるとともに、それこそが私が私を”受容”するための重要な鍵なのだと信じようと思っています。