第2‐104話 対話ノート「変化」
デラックス生姜焼き定食今月で新事務所に移ってから丸5年が経ったことになります。時が経つのは早いですね。当時、引っ越した翌月にコロナが騒がれ始め、その後3年ぐらいは大変な時期が続きましたが、無事に皆で6年目に入ることが出来ました。毎週続けている”障害者の幸福論”ミーティングも、最近ではより具体的な話をすることが増えてきました。例えば、誰かが「この間こんなことがあったんだけどどう思う?」といったことに対して、皆がそれぞれの立場で意見し、またそれに対して誰かが意見をするという具合です。その時に、「だってあの時もそうだったじゃん」と、この5年で皆で共通体験した出来事を例に出すことも増え、付き合いが長くなってきたのを実感します。そんなことを毎週皆で食事をしながら話し続けていますが、最近ふと気づいたことがありました。それは、当初は「それはヘルパーがこうだから」とか、「だって障害者がこうだから」といった、問題の責任がだれにあるのかという”犯人捜し”のような発言が多かったのですが、最近では、「その時にこう思ったんだよね」とか「それは○○だったからじゃない?」というような、登場人物の内面を考察する”分析”のような発言が多くなってきたと感じたことです。つまり、ある出来事に対して「どちらが正しいか」という”正誤の問題”にしていたのが、ある時点からは「それをどう捉えたのか」という”心の問題”にするようになったのです。私がそのことに気付いた時、「最近の話し合いで変にモヤモヤしなくなったのはそれが原因か」と妙に腑に落ちたのです。だって突然”犯人”や”原因”にされる心配がなくなったのですからね。それは他のメンバーも同じだと思います。ではなぜ我々にそのような変化が起こったのでしょうか。私が考えるにそれは、この5年の間、それぞれ経験もそれによって得た知識もまったく違うメンバーが長い話し合いを経た結果、自分が当然だと思い込んでいたものが実は全然当然では無く、単に自分がそう捉えただけなんだと理解した結果なのではないかと思うのです。例えば私が”正しい”と思うことは、「私の能力や経験や立場によって出来上がった価値観(構造)において正しい」のであって、「あなたの能力や経験や立場によって出来上がった価値観(構造)では正しくないかもしれない」という、考えてみればごく当たり前の現実の存在を”認めた”だけだと思うのです。ただそうだとしても、言ってみれば”共通の正しい”が無いまま、考えが違う者同士がうまくやっていけるのかという疑問が残ります。私も最初はそう考えていました。考えが一致してこその”仲間”だと。よく身近でもテレビでも離婚原因で「考え方が違うから」というのを耳にします。まさにこの考えですよね。考え方が違う。捉え方が違う。だからあなたとは一緒にはやっていけないんだと。しかし自分でも気づいていませんでしたが、今では考え方が違っても信頼できる仲間になれるんだと確信しています。それはなぜだと言われてもはっきりとしたことは言えませんが、ただ一つ確実に言えることは、私たちが皆「話し合うことから逃げなかった」ということです。どんなに意見が違っても、平行線になっても、また次の会には席に座り、またみんなで話をつづけたのです。そのことだけは胸を張って言えます。ただそこでは自分の意見を相手に無理に飲ませようとすることなく、”犯人”を決めようとせず、ただ淡々と自分の心情やその時の考えを正直に吐露する、そうすることによってお互いが”意見の違いはあるけどあなたは信頼できる人だ”という気持ちになった。そしてその気持ちがお互いの心の中にあった”疑念”を少しづつ溶かしていった。そんな感覚です。逆に話し合いから逃げるということは、”意見の違うあなたを受け入れない”という宣言であり、どんなに言い訳をしてもその行為に含まれるある種の”傲慢さ”を否定できないと思うのです。そう考えると、メンバーには皆に傲慢さとは逆の”謙虚さ”があったと言えるのかもしれません。逆に言うと、だからこそ話し合いを続けることが出来たのだと言えそうです。もし本当にそうならば、これからもその謙虚さを忘れずにいれば、仲間と今のような良好な関係を今後もつづけられるのだろうし、さらに続けていくことで、もしかしたら”無”から発生したこの信頼の輪がさらに成長していくかもしれないと思うと、なんだか少し希望のようなものを感じるのです。