前回「障害性と障害者性」で、
障害者は本来自分の障害と正面から正直に向き合うが、健常者社会により障害者に対して行われる”普通を目指す教育”により間接的に「普通でない自分は価値が低い」という自己否定を学び、その結果、いくらやっても普通になれず評価されない正直な言動を捨て、自分の存在を正直さとは違う方法で無理やり肯定しようとするが、それが自傷行為となって自らの存在意義を失わせ追い詰めることになる。

よって、障害者に健常者の”普通”を強制することは、障害者に対する”自己否定”と”自傷行為”の強制であると考えました。

このように私の苦悩は普通じゃない能力を否定され、いつまでも”矯正”され続けたことから始まったと感じます。今でいう「教育虐待」とでも言いましょうか。

例えていうなら、算数だけはどうやってもダメな学習障害の子に、ダメな算数ばかり毎日毎日やらせている状態。しかし強制している側は”普通”が免罪符となりその加害性に気づいていない。

私の様々な日々の訓練はまさにそういう状態だったと感じます。

ではなぜ私の能力はいつまでも”普通”と比較され続け、否定され続け、矯正され続けたのでしょうか。

そしてそこからくる苦悩は逃れようのない、仕方のない事だったのでしょうか。

今回はそれを考えてみたいと思います。



・能力


そもそも”能力”とは何でしょうか。

”能力”とは、本来”生きる”ことを基準としているのだと思います。

特に狩猟採集をしているような時代には、生命に直結する危険がいたるところに潜んでいたでしょうから、それらをかいくぐる事の出来る優れた”能力”を持つものが生存可能性を高められたのでしょう。

その後、狩猟採集が得意な人、農耕が得意な人、道具を作るのが得意な人などがそれぞれの能力を交換しながら群れを拡大させていき、生物としては比較的貧弱にもかかわらず他の種を凌駕し繁栄していったのです。

このようにして何代にもわたりいくつもの危機を乗り越えて、種の発展に貢献してきた能力。

言葉や文字のない時代からその能力を次世代に引き継ぐための手段として、”真似”が用いられてきたのではないでしょうか。

赤ん坊が歩き方や言葉を覚えるのもすべて真似ですね。

その結果、私達には”目の前の生き物の真似をする”という命令が遺伝子に刻まれることになったのだと想像できます。

そう考えると、”普通”の親が私に”普通”を強制し、私もそれに従い”普通”になろうとしたのがわかります。

親は”子供に真似をさせろ”という自分の遺伝子の命令に従い、私も自分の遺伝子の命令にしたがって必死に真似しようとしていたのです。

しかし問題は、私が”普通”では無かったということでした。



・遺伝子の記憶


つまり、普通じゃない私がいつまでも普通を強制され続けたのは、「真似できない子供の場合どうすればいいか」という情報がお互いの遺伝子に記載されていなかったことが原因だったのだと思うのです。

だから医学的な根拠を無視して本能のままに”真似”で突き進んでいたのでしょう。

以前私と同じ脳性麻痺を持つ先輩から「無理して歩かないほうがいいよ」と言われたことがあります。

その方は強い麻痺がありながらも、筋肉の緊張をうまく利用しなんとか歩けていましたが、若いときに無理して歩きすぎた結果、今では股関節を痛めほとんど歩けなくなってしまったとのことでした。

当時過度なリハビリなどで無理せずに、車いすを適切に使って生活していれば、股関節を傷め立ち上がる事さえままならなくなることはなかったのではないかとおっしゃっていました。

これもその先輩に指示をする周りの人がすべて脳性麻痺を体感した事のない「普通の人」だったから起こったことなのではないでしょうか。



・能力の本質


ここ数年、ニュースを見るたびにSNSの影響を実感せずにはいられません。

自他ともに才能を認められチヤホヤされていた著名人が、スキャンダル一つで一夜にして社会から総スカンを食らうのを見ると、我々が日々ありがたがっている”能力”とは一体何なんだろうかと考えてしまいます。

その高い能力で高い地位を得ていたはずなのに、その能力に一切の変化がないにもかかわらず評価が一変し、その地位をはく奪され存在意義を問われるというのは、一見不思議な事のように感じますが、個々の事例を見ていくとそこには明確な共通点が見えてきます。

それはそれらの事柄がすべて”倫理”に反する行為に起因しているということです。

その事実から見えてくるのは、少なくとも現代社会において本当に求められているものは、「1番」や「100点」という物理的に変換可能で明確な正解のある”能力”ではなく、”倫理観の高さ”や”志の高さ”といった今のところ順位も点数もない”思想”であり、そのことから考えると「”能力”は”思想”に劣後する」と言えそうです。

しかしそれも人類の歴史を考えると納得できます。

いくら能力が高く食糧を多く確保できたとしても、群れの一員としての志の高さが無ければ食糧を独り占めしようとするだろうし、倫理観が低ければその高い能力を使って食糧を無理に奪うこともあったでしょう。

逆にたとえ能力が低くても倫理観が高く志が高ければ、その個体が群れに対して急に脅威となることはなく、”安心”を確保できていた。

そしてその個体の能力の低さからくる”安全”の低下を皆で補い合えば、安心で安全な群れを形成できたはずです。

つまり我々が社会という群れを安心で安全に維持するためには、物理的に高い個人の”能力”よりも、一人一人の高い倫理観や高い志といった”思想”が重要であり、それこそが人類が幾代にもわたって経験を積み重ねて得た真理であり、SNSは近代の”能力主義社会”による誤解によって埋められていたその根源的な真理を、ただ掘り起こし白日の元に晒しているだけなのです。



・誤解のもと


社会が本当に求めているものは、実は”高い能力”ではなく、”高い倫理観”であり”高い志”である。

そう考えると、もし私が高い倫理観と高い志を持っていれば、社会は私の能力の低さを問題としないと考えられます。

実際、過去にあった障害者に対する大きなバッシングで、「障害者は歩けないから排除しよう」「しゃべれない障害者は許せない」といった物理的な能力の有無を問うようなものは聞いたことがありません。

私の記憶にあるのは相手方の都合を無視した自己主張であり、それが群れ(社会)にとって脅威ととらえられ猛バッシングを受けた、というものです。

具体的には「車いすを運べ」という権利の主張ですね。

確かに車いすだからと言って入店を拒否され、降りたい駅で降りられないというのは同じ車いすを必要とする私も理不尽だと思います。

しかし問題だったのは、車いすは入りたい店に入れない、降りたい駅で降りられない、という抗議の内容ではなく、その抗議の仕方が倫理観が低く志が低いと社会にとらえられたのだと思うのです。

例えば、お店の店主に階段をおぶって運んでくれという要求は、店主が腰痛やその時の店の具合など何かしらの理由で拒否をした場合、店主の判断する権利は障害者の飲食権に劣後するのでしょうか。

また、バリアフリー化がされていない駅で降りて駅員さんに無理に人力で運ばせようとするのは、バリアフリーの促進に貢献するという主張がありますが、何の決裁権もない末端の駅員さんを酷使しなければその駅はバリアフリー化されないのでしょうか。

例えば、その運航会社の本社に行って決裁権のある役員に直接その重要性を説明するなり、その駅がある小選挙区選出の国会議員の方を通じて鉄道会社の監督官庁である国土交通省の鉄道局に要望した方が、よほどバリアフリー化には効果的なのではないでしょうか。議員の方も地元の駅がバリアフリー化されれば自身の功績として選挙でアピールできWinWinになれると思うのです。

しかし表面的な”普通”や”平等”に目を奪われ、相手の体を心配したり立場を慮ったりしたりしない一方的な他責の姿勢が、社会から倫理観が低く志が低い行為の代表である”弱い者いじめ”と捉えられ、激しいバッシングになったのだと感じるのです。




・能力と存在意義


このように考えていくと、本来社会の障害者に対するニーズとは、健常者の真似しろという物ではなく、倫理観と志を高く持ってほしいということしかないと思うのです。

よって、障害児だった私が受けてきた「”普通”と比較され続け、否定され続け、矯正され続けた」という苦悩は、社会の総意によって行われた逃れようのないものではなく、親による”我が子が真似が出来ない”という本能の焦りから来た親個人のニーズを原因としているものであり、社会は障害児であった私の権利の代弁者である親のニーズを立場上尊重せざるを得ず、結果親と一体となり私に”真似”を強制させていただけなのです。

そう考えると”普通ではない子を持つ普通の親”が我が子を普通と比較し普通を強制しなければ、本来私が普通に近いかどうかに関して全く興味のない社会は当然私に普通を強制することはないので、私の苦悩は親の”志”次第で十分に避けることの出来るものだったと言えます。

さらに言うと、そもそも「生命と尊厳の維持に他者の同意と協力が必要」な障害児に対して、無理に”普通”に近づけさせようとしたばっかりに自己否定を学ばせ、その苦悩から逃れるために倫理観と志を低くさせてしまっては、自らの生命と尊厳を維持するために欠かすことのできない他者の同意と協力を得ることが難しくなってしまうため、障害児の育て方としては全く持って本末転倒だと言わざるを得ないのです。



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これで「障害者の幸福論 分析編」は終わりになります。

次回からは「障害者の幸福論 実践編」に入りたいと思います。

どうぞご期待ください。