毎週二回のミーティングでは、障害者の幸福論の実践編として具体的な方法論を考えているのですが、その前提として現状何が私たちの幸福感を下げているのかを、皆の日々の出来事や疑問などを通して話し合っています。

個人的には今までも障害者だけの話し合いみたいなことはたまにあったのですが、その場合どうしても社会や介護回りの一方的な批判に終始し、最終的には「なぜ自分たちの主張が認められないのか」で行き詰まり、それだけならまだしも、そのうちそのやり場のなさからか何故か障害者同士でのマウントの取り合いになってしまう事も多々あり、そうなると勢い気の弱い私がターゲットになりがちになるので、最近では障害者の集まりに行くことはなくなりました。

ターゲットになるのが嫌だというのももちろんですが、そもそも私たちの苦悩は健常者が多数を占めるこの社会での生きづらさであるはずなのに、その解決策を考えるうえで健常者抜きで考えることは、私たちのガス抜きとしての効果はあると思いますが、問題解決の効果はあまり無いと思うからです。

例えて言うなら、女性に買ってほしい商品をオジサンだけで考えていると言いますか、障害者だけの対話はそれと同じ気がしてならないのです。「いやいやまずは女性に聞きましょうよ」と。

そんな障害者としては異端な考えを持っているせいか、以前から「お前は何で障害者なのに健常者みたいなことばかり言うんだよ」と非難されることが度々ありました。

でもその度に私は頭の中で「そうだからいつまでも相手にまともに取り合ってもらえないんでしょ」と無言で反論していたのです。



・継続の力


そんなマイノリティーの中でもさらにマイノリティーの私ですが、健常者である会社の仲間とのガチの話し合いを毎週2,3時間4年続けてきました。時間にすると

2.5時間×52週×4年=520時間

振り返るとあっという間でしたが、これだけの時間を障害者と健常者が一緒にお互いの幸福についてガチンコで話し合ったケースはあまりないんじゃないかと、少し自分の自信になっている気がします。

特に最初のころはお互いにモヤモヤすることも多く、理解してもらえない苛立ちも正直ありました。しかしそれでもお互いが耳を塞がず、話し合いから逃げず、希望をもって対話し続けてきました。

その結果、最近では不思議なことに意見の違いが出ても変にモヤモヤすることがなくなってきた気がします。

それは違いを受け入れられたと言いますか、無理にどちらかの考えを勝たせる必要はない事に気づいたと言いますか、憑き物が取れたと言いますか(笑)、不思議な感覚です。

少し真面目に考えてみると、それは私たちが一緒に考えだした「障害者は生命と尊厳の維持に他者の同意と協力が必要だ」という障害者と健常者との決定的な構造の違いを、その構造の違いからくる物事の捉え方の違いを、字面だけではなくお互いがちゃんと体得できてきているからではないかと感じるのです。

職人が繰り返し動作による長い修行によって、動作だけではなくその動作が持つ合理性を実際に体感して納得していくように、私たちの場合も長い期間の継続的な対話が、お互いの構造の違いによる表面上の発言や行動の違いによる違和感を、相手の構造内での合理性として自然と体得できたせいだと感じます。

それは私のような先天性の身体障害者は知らず知らずのうちに「出来なくて当然、やってもらって当然、気遣ってもらって当然」といういわば”保護の構造”に生きており、一方健常者は好むと好まざると「出来て当然、結果を出して当然、自己責任で当然」といういわば”貢献の構造”に生かされている。

そしてお互いがお互いの生きてきた構造によって出来上がった価値観で対話する結果、障害者は「社会がやってくれない、他者が気遣ってくれない」という感情を持ち、健常者は「障害者は社会に貢献しようとせず批判ばかり」という感情を持ち、これがお互いの”不納得感”となり、私たちの幸福感を下げているのではないかと思うのです。

しかしお互いが、相手である健常者が、もしくは障害者が、どのような構造を強いられ今まで生きてきたかをリアルに想像することによって、相手と自分の主張の違いを自分に対する攻撃や排除と受け取らずに、すくなくとも相手が置かれている構造からくる主張としては論旨明解とまではいかなくても、少なくとも一理はあるなと”納得感”を持てるようになるのではないか。

そしてその”納得感”こそがまさに私たちが長い対話の上に獲得した感情だと感じると同時に、その感情が何かしらの糸口になるのではないかと期待もって感じているのです。