「そんな…。」


驚きに目を開く小夜子とは対照的に社は俯いて目を堅く閉じた。震えはじめた手をどうにか止めようと膝をつかむが、全く止まらない。


「俺が…俺が気づいていれば無事に生まれたのに。俺が気づけなかったばっかりに…。」


小夜子は社の手をそっと握った。触れられたことで社は顔をあげる。涙は出ていない。出てはいないが、まるで血の涙が見えるようだ。離婚から何年か経っているはずだが、まだ傷はいえずそれどころか己を責め、小さな命を失った責をただ一人背負っている。

小夜子は社を抱きしめた。何も考えずに。そうすることが当たり前のように。


ふいに与えられた温もりに社は一瞬だけ身を堅くしたが、すぐに力を抜いてもたれ掛かった。今迄、誰にもこの話はしなかった。いや、できなかった。でも、話のなりゆきとはいえ小夜子には自然に話すことができたのだ。随分と年下の部下に話してしまった上、子どものように慰められるなんてみっともないことだと普段なら思うだろうが今はそんなことは考えられなかった。


小夜子の温もりは全てを癒してくれるようだ。ゆっくりとした鼓動も心地よくてつい頬をすりよせる。柔らかい胸からはほのかに甘い香りがする。その香りに誘われて社は小夜子を抱きしめ返した。自分の眼鏡の冷たい感触に近づきすぎたと気づき腕を緩める。それでも腕をほどくことはしなかった。社が腕を緩めると小夜子は社の頭にそっとくちづけた。社が顔をあげると慈愛に満ちた静かな笑顔をしている。つられて、社は微笑した。それはあの事件以来初めて見せた心からの笑顔だった。社は首を伸ばし小夜子にキスをした。とても自然に二人はソファに倒れこんだ。



先に目が覚めたのは社だった。寝返りをうとうとしたが、動けない。何となく胸の辺りが重苦しい。あぁ、アキのやつまた乗っかってやがると思った。どかそうと思って触れると触り心地が違う。毛皮じゃない。滑らかで明らかにアキより大きい。それにアキのわけがない、天に召されてから随分とたつ。嫌な予感がしてそうっと目を開けた。そこには裸の女神がいた。半身を社の胸にのせ穏やかに眠っている。見てしまったことでお互いの身体が密着していることを嫌でも意識する。滑らかな肌、柔らかな肢体、甘い香り…一気に昨夜のことが思い出された。


!!!


なんてことを!!!


部下に手を出すなんて。しかも一回り以上も年下の女の子に。いや、女の子ではない。立派な女性だった。社が落ち着きなくもぞもぞとしていると小夜子も目を覚ました。起き抜けの無防備な顔がとんでもなく艶っぽい。社と目があうとニコリと微笑んでおはようございますと言った。釣られておはようと応えたものの上ずった声しかでないのは見逃してほしいところだ。


小夜子がバスルームを借りたい旨を告げると社は視線でバスルームのドアを示す。ドアを確認するとなんのためらいも恥じらいもなく小夜子はそのままの姿で社の前を歩きバスルームに消えた。小夜子がいってしまうと慌てて寝室に行って部屋着を着る。居間に戻ってみるとソファの周りは脱いだ服が散らばっていて昨夜の痕跡がありありと残っていた。服を拾い集めてとりあえずたたんだが、バスを使った小夜子に何を着せるべきなのか…。


それよりもこの後どうすればいいのか。離婚直後は軽い付き合いだけを求めて一夜限りなんてのもあるにはあった。でも小夜子をそんな風に扱っていいわけがない。

ガチャリと音がしてバスルームのドアが開く。小夜子はバスタオルを巻いて出てきた。隠れるべきところは隠れているが、ほんの少し屈めば見えてしまう。先ほどの裸体より今の姿のがそそられるのは何故なのか…。この後に及んでそんなことを考える自分の何と浅ましいことか。


「俺の服でいい?」


小夜子がコクリとうなづいたのを見て寝室にとって返す。スウェットを探しだしたものの下着はどうしたものか。考えあぐねたすえに、新品のボクサーパンツがあったのを思い出した。


「ごめん、男ものだけど新品だからこれで我慢して。お茶淹れてくるから。」


社は小夜子が着替えをする時間をとるために必要以上に時間をかけてお茶を淹れた。スウェットを着るだけだからあっという間なのはわかってはいたが、それでも用心にこしたことはない。用心って?自分で自分に呆れ返る。用心するなら今じゃない。昨日の時点で用心するべきだったのだ。しかもソファで?俺は一体幾つなんだ?いい年のおっさんがそれはないだろう?






終始、辛そうにしていた社だったがそこで呼吸を整えるように一息いれる。一瞬で表情がなくなった。今までも淡々と話していたがさらに抑揚がない。


「あの日は、たまたま早くあがれたんだ。驚かそうと思って何の連絡もしないで麻依が好きなケーキを買って帰ったんだ。たまっていた休みがとれそうだったから何処か旅行に行こうって、何処にいこうか相談しようって…」


社が帰ると麻依は何やら熱心に雑誌かなにかをめくっている。そっと近づいた社には気づかないので後ろからそっと覗いた。そこに疚しいものがあるなんて思いもしなかった。ちょっとしたいたずら心だった。

見ると蓮の写真だった。それだけなら何とも思わない。だが、明らかに視線があっていないしプライベートだとすぐに分かるものばかりだった。社が息をのんだ音にハッとして麻依が振り向き次に慌ててアルバムを閉じた。


「帰ってたの?」

「あぁ、今ね。それはなに?」

「前に言ったじゃない?蓮のファンだったって。片付けてたらでてきたの。懐かしくて見てたのよ。」

「なんで隠すの?」

「だって恥ずかしいじゃない。追っかけって言われるぐらいの時もあったし、なんていうの?青春の甘酸っぱい思い出?」

「随分、マズイ感じのもあったみたいだけど?」


会話の途中からかなり社の表情は硬くなった。声も怒りが滲んでいる。

「それは申し訳ないと思うわ。ネットに流したり売ったりはしてないの。ただ、好きだから…。ファン心理であるでしょう?私だけのものが欲しいって。今はもうしてないわ。だから甘酸っぱい思い出。」

笑顔で言ってはいるが、なんだかその笑顔まで嘘くさい。社が持っている箱に視線を移し、いつもより大げさにはしゃいでみせる。


「ケーキ?嬉しい!ご飯の支度するわね。」

テーブルの上に広げた蓮グッズをかき集める。ひらりと一枚の紙が落ちた。社が拾いあげると麻依が慌てて取り返しにかかったが手の届かない高さに掲げて目を通した。驚いて気を抜いた隙に奪いとられたがしっかりと読んでしまった。

「中絶…?」

「違うの、これは…。」



そこで小夜子は息をのんだ。まぁ、普通は驚くだろう。当時の社はそれを見たときには文字通り頭が真っ白になったのだ。いまだに平常心で思い返すことはできない。



「『中絶された方へ』っていうタイトルだった。こんな症状があったらすぐに受診してくださいってやつ。」



社はそこでコーヒーを一口含み、また淡々と話し始めた。



「それは友達の…。」

「麻依の名前が入ってた。」

「…。」

「なんで?」

「…。」

「なんでなんだ?」


麻依は俯いてなにも答えない。

「俺の子じゃなかったのか?浮気?」

なにも答えようとしない麻依の肩を掴み、乱暴に揺さぶる。ようやく顔をあげた麻依の表情は社が初めて見る般若顔だった。


「ユキの子よ。だから?」

「だから…って。なんでおろすんだよ

「ユキの子だからよ。失敗しちゃったのよ。あの時はピル飲み忘れてて、まさか妊娠するなんて思わなかったわ。」

「俺の子だから?全然意味がわからない

「ユキの子なんか欲しくなかったのよ。」

「... 」

麻依は不気味に嗤っている。

「だって私は蓮のものだから。」

それこそ麻依が言っている意味がわからない。



その後の不毛な会話でわかったことは社もまた麻依の蓮コレクションの一部だということだった。



「コレクションの一部ってどういう意味ですか?」

「一時、俺と蓮が恋人同士だって噂があったんだ。確かに蓮はあの顔でずっと彼女はいなかったから。日本にきてデビュー後はストイックな生活をしていたからね。この業界じゃ結構いるし。もちろん、そんなことはなかったけど。麻依は蓮と、『俺』を共有してるつもりだったんだ。だから、ベッドを嫌がることはなかったよ。でも、子どもは別だったんだ…。」































朝早くから、男たちは伯爵の屋敷に行きました。馴染みの使用人にキョーコがまだ屋敷にいることを確認し、それとなくいくらで売られたのかも聞き出します。きちんとした額は知らないようでしたが、金貨十数枚だったようでした。男たちは自分たちが思っていた値段よりも安いことに安堵しました。それなら蓮の持っていた宝石の方が価値がありそうです。


直接、伯爵に会うことなど滅多にありませんが執事に会わせてもらえるように必死に頼み込みました。その常と違う必死さに執事もおれ、会えるかどうかはともかく聞いてみてくれると約束したのです。

男たちは伯爵が起きるのを辛抱強く待ちました。使用人たちは朝早くから起きて仕事をしていますが、貴族はお昼近くならないと起きてきません。男たちには目の覚めるような取引でも伯爵もそう思ってくれるかはわかりません。無理やり起こさせて機嫌をそこねては台無しです。


始めは渋っていた伯爵ですが、『キョーコのことで内密に話がある』と切り出され仕方なく話を聞くことにしました。折角、厄介払いができると思っていたところにキョーコが普通の人間でないと知れてしまえば取引がなくなってしまうかもしれません。本当なら早くキョーコを屋敷から追い出したかったのですが、キョーコの尾ひれが見つからないのです。先方はあの見事な尾ひれも含めて金を支払うと言っているのです。キョーコを問い詰めても頑としてわかりませんの一点張りです。キョーコ以外に知る者などいるはずがないのにです。こうなったら養い親を盾にして口をわらせるつもりでいました。


伯爵は物憂げに居間に入ってきました。居間といっても普段自分たちが使っている部屋ではなく、使用人たちの使う休憩室のようなもので質素な作りの部屋です。伯爵が入ってくると男たちは椅子から立ち上がりました。軽くうなずくと挨拶もなしに伯爵は話を切り出します。


「キョーコのことで話とは?」

男たちは顔を見合わせましたが、すぐに意を決したように一人の男が話しはじめました。

「実は、他のお屋敷に奉公に出されると伺いまして...。まだ、出発はしていないようですのでその前にお耳にいれたいことがあって無理言ってお目通りを願ったしまつです。」

伯爵は内心でギクリとしながら、顔に出さないように注意しながら続きを促しました。


「実はさるお国の高貴な方につかえる方からキョーコを雇いたいと話がありまして。何でも、珍しいものを集めるのがご趣味だそうで。」

珍しいものという言葉にますます動揺しましたが、そこは深く息を吐くことで誤魔化しました。男たちにはため息にうつったようです。

「しかし、すでにキョーコの行き先は決まっている。今更、そんなことを言われても約束を違えるわけにはいかぬ。」

「もちろんです。私どもも、伯爵様が約束を違えるような方とは思っておりません。ただ、その方も主人のために遠い異国まできて手ぶらというわけにもまいらないようで。確かにキョーコは働き者ではございますが、他に変わりがいない訳でもありません。異国の方には珍しくてもこの国ではさほど珍しくもありません。どうか、その方の忠義のためにも今一度、お考え直しては下さいませんか?」


人魚の正体がキョーコであることは先日の舞踏会で多くの人間に知れ渡りました。どこかで外国の金持ちが耳に入れたのでしょう。伯爵は考え込みました。国内で厄介払いするよりもどこか遠く異国に行ってしまった方がキョーコの真実の姿がわからなくていいかもしれません。あとで正体が知れても返品もききません。それに尾ひれもみつからないままなのです。


「なるほど、そこまでお困りのようなら考えてもいい。その使いの者とはいつ会える?」

「今日の午後お会いする予定ですが。」

「ならば、そのままお連れすように。」

「はい、わかりました。」


そこからは蓮の思うまま事が進みました。わざとらしく忠義な使用人のように喜んで見せました。自分に人を騙せるほどの演技ができたことに驚きを感じましたが、今はそんな感情にひたっている暇はありません。伯爵にはあの男たちに見せたルビーとエメラルドを惜しげもなく渡してやりました。綺麗な石ではありますが蓮にとってはそれだけのものです。難破船に行けば似たようなものがごろごろしているし、キョーコとは比べ物になりません。


蓮は玄関でキョーコを待っていましたが、なかなか出てきません。痺れをきらして執事を呼びに行こうとしたところで大きな物音がしました。


「早くしろ!俺が伯爵様に叱られるだろう!」

「お願いします。伯爵様に会わせてください。私はここにいたいんです!!」

「そんなこと知るもんか。お前の奉公先はもう決まってるんだ。言う通りにしないと殴ってでも連れて行くぞ!」

「そんな!ではせめて、義母さんを!義母さんも連れて行けるようにお願いします!!」

「俺にそんなこと言っても知るもんか。さっさと立たないか。」


キョーコの声でした。蓮が迎えに来るまで待っていると言ったのです。まさかその蓮だとも知らずに抵抗しているようです。乱暴な男の声に蓮は慌てて走り出しました。声のする扉を勢いよく開けると男がキョーコに殴りかかろうとしているところでした。蓮はキョーコを背にして男の前に立ちはだかりました。


「何するんだ、お前は誰だ?」

驚いたのは男です。自分よりも大きな男が突然現れたのです。しかもとんでもなく殺気を放っています。

「お前こそ、何をするんだ?その娘は私が買ったものだ。丁重に扱ってもらおう。」

男はしげしげと蓮を眺めました。キョーコを買った男を見たのは初めてですが、仕立てのいい恰好から間違いはなさそうです。

「そ、そうですかい。いや、キョーコが渋ったものだからつい...。傷つけるなんてそんな気はなかったんですよ。ちょうどいい、あなた様がいらっしゃるんならどうぞ連れて行ってくだせーや。」

面倒事に巻き込まれるのはごめんだとばかりに男は蓮にキョーコを押しつけました。退室しようとする男に蓮は声をかけます。


「待て、この娘の義母はどこにいる?娘が望むならその義母も連れて行こう。遠い異国で一人では心細いだろうて、義母がいるなら一緒のほうが心安かろう。」


男はまさかそんなことを言われるとは思わず、驚きました。

「そ、それは俺に言われても...。」

「ならば、執事を呼んで来い。もう一度、伯爵様にお目通り願おう。」


結局、蓮は伯爵に会わずにキョーコの養い親をも連れ出すことに成功しました。執事が事の顛末を伯爵に伝えると喜んで義母を渡してくれたのです。キョーコと共にいなくなってくれれば、これでお荷物が減るというものです。


蓮は馬車にキョーコと養い親を乗せると港に向かいました。そこからいくつか船を乗り継ぐと蓮の用意した家がありました。いつしか養い親は天に召されましたがそれまでは3人仲良く暮らしました。蓮とキョーコは数年に一度住まいを替えながら、海と陸の橋渡しをしました。『首に痣のある人間』のよりどころとなったのです。





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やや、(かなり?)尻切れトンボぎみですがハッピーエンドということで許してやってください。二人のもとにはきっと恋愛相談に人魚やら人間やらがやってきたり、いつしかキョーコが人魚と人間の間に子をもうけた者の産婆になってたりするんじゃないかなぁなって思っていたりします。