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以前、「日本の歴史上における子だくさんってだあれ?」という記事を書きました。↓
まあ、皇族も貴族も戦国武将もお家断絶を防ぐために、子孫を残すことは至上命題だった分けで、必ずしも「好き者」といううがった見方をしてはいけません。なにせ、昔は子どもが生まれたとしても、まともに成人年齢に達するまで成長する保証がなかった。なので、一人でも多いに越したことはないという理屈も分からないではありません。
我らが伊達政宗様に至っても確認されているだけで16人の子供がおりましたし、ひいおじいちゃんの稙宗公に至っては洞(うつろ)と呼ばれる我が子を他家の養子や嫁として送り込んで乗っ取る戦法を常套手段としていたしで、子どもは勢力拡大の重要なウェポンだったんですね。
さて、今回の本題ですが、前回の「日本の歴史上における~」で子だくさんランキングのツートップだった第52代天皇である「嵯峨天皇」と徳川幕府の11代将軍である徳川家斉公はともに子供の数は50人台でした。(もちろん、一人の奥さんからではありません)
ところが、そんな二人を置いてけぼりにするぐらいに引き離すラスボスが実はいたのです。
彼の名は大垂日子淤斯呂和気(おおたらしひこおしろわけ)と言いまして(長い名前だなぁ)第12代天皇の「景行天皇」なのです。
景行天皇には、妻が70人、子供は80人いたと古事記には記されているそうです。
ホントに?っていうか、太古の昔の話でしょ!数えて覚えていた人本当にいたの?数え忘れられてた妻も子供もいたんじゃないの?暗記の達人だとされている稗田阿礼(ひえたのあれい)の記憶力を信じていいんかい?(ご存じない方はググってみてください)
ちなみに、この景行天皇の80人の子供のうちの1人が古代史における悲劇の英雄と伝えられ、勇猛果敢で天下無敵の日本武尊(ヤマトタケル)だったりします。
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。