池島信平のこと-3 番頭池島信之助




2009年3月12日記
池島信平のこと-3 番頭池島信之助
この写真は昭和36年頃に撮影されたもので、右が池島信平さんです。この頃は文芸春秋の編集長になっていた頃と思います。佐渡か柏崎に講演に来た折に立ち寄ったのではないかとこの写真を持っていた酒屋の忠男さんは言いました。たぶん、奥さんが撮影したのでしょう。
蛇足ですが、この写真の右上のかやぶき屋根の家が吾の母シゲコの実家です。
左のおじいさんは佐藤仁作さんで、戦前は佐藤酒造店を経営していました。前にも書いたように「稲荷山」という銘の酒です。
二枚目の写真が仁作さんが若い頃の写真で、半纏に佐藤酒造と稲荷山の文字が染め抜かれています。
この酒造店に番頭として働いていたのが池島信平の父、池島信之助でこの近くの当時上條村久米の人だそうです。
四枚目の写真は、番頭としての池島信之助が付けいていたいわゆる大福帳で左下に池島と書かれています。日付は明治三十六年と読み取れますので日露戦争の二年前に当たります。
酒屋の右隣は当時地主だった六衛門どんの屋敷で、そこに奉公に入っていたカタ子という名のこの村の娘を信之助が見初めて結婚し、東京に出て[北星舎]という牛乳屋を開業します。
そんな関係で、信平はこの片田舎の父母の故郷を訪ねたのだそうです。これが初めての訪問ではなくもっと若いときにも訪ねていて、信平さんが自ら写したという親戚に当たる村の古老の写真が残っているそうです。
酒屋は終戦の頃まで酒をを作っていたそうです。
密造が発覚し税務署に過重な罰金を課せられるという事件がありました。吾の曽祖父佐藤佐太郎も加担していて同様に罰金を課せられ、罰金を払うため先祖伝来の田畑を売り払い、息子の源二郎が東京に出ることになりますが、これは別の機会に書くことにします。
さらに、最後の三年は雑菌が入って毎年酸っぱい酒ができ失敗が続き、廃業を決意し、隣の岡田にあった酒屋に設備一式を売り渡したということです。
そのため、酒造りに関する機材は一切残っておらず、わずかに帳簿や樽に押す稲荷山という焼印が残っている程度だそうです。
仁作爺さんは米寿の祝をしてもらって九十歳で亡くなられたそうですが、私はその頃は仙台にいたので確かな記憶はありません。
参考資料
自伝的断章集成(司馬遼太郎):http://blogs.yahoo.co.jp/nkydr632/41920363.html
池島信平のこと-2 鎌倉円覚寺内松嶺院


2009年3月27日記
池島信平のこと-2 鎌倉円覚寺内松嶺院
2月23日にシニア海外ボランティアの2001年秋募集でモンゴルに派遣され同期生と横浜に集まって旧交を温めた。
受け入れ先がいずれもモンゴル国立科学技術大学だったせいもあって着任当時から家族ぐるみの付き合いをしている。
横須賀の小高い丘の上にあるMさんの自宅に泊めていただいて、翌日は北鎌倉のお寺めぐりをした。
最後に円覚寺を訪ねたが、越後の雪の中から出てきた吾にはおかめ桜という珍しい桜が咲いているなど思ってもみないことであった。
途中、小雨に降られたがそれはそれでゆったりのんびり散策を楽しむことができた。
柏崎に戻って、読みかけの「池島信平文集」(文芸春秋発行)の巻末の年譜を読んでいてこんな記述に出くわした。
昭和四十八年(1973年) 63歳
二月十二日 ホテル・オークラでのパーティに出席、・・・・・(省略)このあと銀座のなじみの店をハシゴ。
二月十三日、・・・午後六時ごろ心筋梗塞でたおれ、・・・・・午後七時三分没した。
二月十七日
・・・・・(省略)
戒名は「経国院篤信恒平居士」。 墓は鎌倉円覚寺内松嶺院にある。
どうやらお酒の好きだった人のようで、早すぎた死は「酒の飲みすぎだ」と遠い親戚筋の翁が教えてくれた。
「文学者墓地一覧表」によると鎌倉には文人たちの墓が多い。
中里恒子 小説家 鎌倉市山之内 円覚寺
長谷川天渓 評論家 鎌倉市山之内 円覚寺・松嶺院
中山義秀 小説家 鎌倉市山ノ内 円覚寺松嶺院・高野山三宝院
開高 健 小説家 鎌倉市山ノ内 円覚寺塔頭 松嶺院・妻で詩人の牧羊子、娘で随筆家の開高道子も合葬
池島信平 出版人 鎌倉市山ノ内 円覚寺塔頭 松嶺院
国府犀東 漢詩人 鎌倉市山ノ内 円覚寺
井上剣花坊 川柳作家 鎌倉市山ノ内建長寺塔頭 正統院
五味康祐 小説家 鎌倉市山ノ内 建長寺塔頭 回春院墓地
・・・・・
関連資料
写真2:柏崎市立図書館蔵書「池島信平文集」(文芸春秋社発行)、池島郁子殿昭和48年7月27日寄贈本
池島信平の墓: http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/25688122.html
馬頭琴奏者、オルテンドー歌手

ヤマモリさんへ
リポーさんは内モンゴルの馬頭琴奏者なのですね。
私が下手の横好きで、1999年の夏に10時間ほど手ほどきを受けたウランバートルの馬頭琴奏者アリュン
ボルトさんも今では家族とともにアメリカに移住して活躍しているそうです。
リポーさんの友達の友達は友達だという関係で、オルテンドー歌手の三枝彩子さんともお知り合いかもし
れませんね。
関連資料
馬頭琴奏者 アリュンボルト
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/7544/mn3/mn3.htm
オルテンドー歌手 三枝彩子
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/sato032/view/200704
池島信平のこと-1 佐藤酒造店


2009年3月5日記
池島信平のこと-1 佐藤酒造店
我が家の50メートルほど離れた隣に酒屋という屋号の家があります。
かやぶき屋根の古い家で、老朽化している上に先の二回の地震で被害を受け、春になったら取り壊される予定です。
この家は屋号が示すようにかっては「佐藤酒造店」という作り酒屋で「稲荷山」という銘の酒を作っていました。
私より一つ年上の忠雄さんが時々柏崎の街にある自宅から車で通って来て、取り壊しの準備作業をしています。
子供の頃は、「稲荷山」という瓶に貼るラベルが残っていたそうです。
この家が酒を造っていた頃、番頭として働いていた池島信之助という近郷(当時上條村久米)の青年が池島信平(第三代の文芸春秋社長)の父親です。
また、信平の母は、この集落(当時は刈羽郡南鯖石村小清水)の娘で、池島と結婚して東京に出て北星舎という牛乳屋を開業しました。
「池島信平文集」(文芸春秋発行)の巻末の年譜によると
「私の生家は本郷春木町にある。北星舎といって牛乳屋である。いまでは明治乳業に合併されて、その配給所になっているが、『北星舎』といえばあの辺の古い人は皆知っていると思う。母も六十九歳、健在で、(父は私の東大入学試験の日に死んだ)北星舎のおばあちゃんといえば、ちょっとした女傑として通っている。
父も母も新潟県刈羽郡の出身で、東京で成功したが、いつまでも越後の風習をそのまま守った人である。私は東京の下町育ちだが、芝居とかその他下町特有の文化的雰囲気には殆ど無関心に育った。兄などは中学校を卒業すると、すぐ一年間越後で百姓をさせられて、それから家業を継がされたくらいだ。夏休みになると毎年私も越後へやられ、農家の子と遊ばされた。盆でも正月でも、その祝い方は越後式で、正月の五日には沢山の親類と支店の主人たち(みんな越後人)が集まって大酒を飲む、---盛んではあったが、まことに無風流なものであった。」 (「本郷春木町」)
信平が少年時代の夏休みに母の実家(今は残っていない)に来て、そこからすぐ近くにあるこの酒屋の家にも来ていたことは想像に難くないことです。
私の父は、信平より5歳年下ですが、子供の頃一緒に遊んでもらったかもしれません。
しかし、私の父は文学にほとんど関心がなく、出版界で言われる「名編集長三羽鴉」に数えられる人物とは知らずにいたようです。
関連資料
池島信平(Wikipedia):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%B3%B6%E4%BF%A1%E5%B9%B3
樅の木は死んだ


樅の木は死んだ
隣の六衛門どんの屋敷には地元には珍しい樹木が多い。櫟(別名アララギ)、高野槇、アカシア、樅などである。日露戦争(1905年)の出征記念に植えられたと聞く。
この集落からは二人が出征したという。そのうちの一人、金子利助は乃木将軍の配下にあって旅順で戦い、銃弾を腹に埋め込んだまま帰国したという。銃弾は腹の中を移動し、何年も過ぎてある時外部に排出されたという。
吾が子供の頃、祖父源次郎になぜ日露戦争に行かなかったかと問うと「金玉が一つしかなかったので身体検査で不合格になった」と答えた。その時は、十分に納得したが、今にして思えば、孫には言いにくい理由があって誤魔化されたに違いないと思う。
道路際に生えた樅の木は枝葉が茂り電灯線に覆い被さるようになった。
東北電力(柏崎刈羽原子力発電所が近くにあるが、これは東京に電力を送るための施設で、地元は東北電力が供給している)が、二年ほど前に邪魔になる枝葉を切り落としたそうだ。
その後、枝葉が黄変し、ついに枯死したという。
枯れた枝が、強風の際落下して危険なので、木を根っこから切り倒すことになった。
3月4日(日)の朝、区長さんが立会いで専門の伐採業者が作業して一時間ほどで伐採作業は済んだ。吾はチェーンソーの音を聞いて野次馬で駆けつけ、ビデオ撮影をしながら観戦した。
年輪は写真に見るように100年経っていて日露戦争の頃植えたものであることがわかる。
伐採作業は4人で行われた。休憩時間に話をしていたら木に登って作業している人は、長鳥という土地の人で米山検校の子孫だという。米山検校の息子が勝子吉、その息子が勝海舟である。
吾が高校に入学した頃、祖父松風が「勝海舟の書いた屏風が見つかった」とか言って興奮して吾に話してくれたことがあった。吾は本気にしなかったけれども、今から思えば嘘八百ではなかったわけだ。
立ち会っていた区長さんも、その話題に乗って、家にも勝海舟の書いた屏風だか掛け軸だかがあったが親父が宮沢家に良い値で売ったという話をした。
良寛の書の偽物なども出回っているそうだから、これも鑑定団に観てもらうととんだ評価額が付く代物かも知れないけれど、歴史の傍観者から歴史の劇中人になれたような気がして心が躍る。
東北電力と言えば、一時、かの白洲次郎が会長をしていた会社だ。
樅の木を切って枯らした責任があると攻める気はないけれども、伐採の仕方や後の切り口の処理が適切であれば百年の神木を枯らさずに済んだかもしれないと嘆く村人の心情に同情してしまう吾である。
参考資料
米山検校:
樅の木:
即身成仏

即身成仏
暮れの掃除をしようと思って北向きの六畳間のパソコンデスクの下を掃いていたら蛙のミイラが出てきました。
たぶん、チー坊が捕まえてきてじゃれて遊んでいるうちに、飽きて放擲したか、蛙が必死で逃げ延びたのかはわかりませんが、部屋の隅の薄暗いパソコンデスクの下で往生を遂げたようです。
ひっくり返っての往生ではなく、この写真のような立ち往生?でした。
動物たちの気配







動物たちの気配
峠に続く農道には狸の糞がテンコ盛り。狸にはきまった所にまとめて糞をする習性がある。銀杏の実は消
化できないでそのまま排拙されている。雪原には兎の足跡がこのようなパターンの繰り返しでプリントされている。テンの足跡は一直線に点々と続くからテンと言うらしい。ほんとかね。
水を抜いた錦鯉の池の土手には狸の足跡だらけでタニシの殻が散らばっている。
沢の奥に入れば夜な夜な猪が出没し田んぼや畑に足跡を残しているらしいが、吾はまだ目撃したことがない。狸の足跡と違い爪が二つに割れているのが特徴と区長さんが講釈してくれた。野生の猪の肉は硬いので出回っているのは猪豚のものだというが野生の猪の肉の方がおいしいという話も聞くので真偽のほどはわからない。
そう言えば、昔、群馬北部の暮れ坂峠(若山牧水の歌で有名?)の近くの民宿でごちそうになったことがあったが、味は覚えていない。そこの女主人が好んで集めた益子焼の食器のコレクションに話題が弾んで猪の話は何も覚えていない。その日は確か狩猟解禁の日であったが私たち夫婦がハンターでないのを見て取って話を合わせてくれたに違いない。
リスは我が家のケヤキの石垣のあたりをうろちょろしている。去年の春、小指を噛まれてえらい目にあっ
た。ネズミも時々寝室の天井裏で暴れることがある。猫のチー坊が捕まえて来てじゃれて遊んでいることがある。
区長さんは鶏を飼っていたがあるときハクビシンに襲われて皆殺しにあった。以来、鶏を飼うのを止めた。狸や狢、ハクビシンが増えたせいで蝮や青大将などの蛇が少なくなっているという。
隣の悟さんがU字溝の掃除をしていたらヒキガエルの子供がいたといってわざわざ見せに来てくれた。冬眠していたのを無理やり起こしたことになる。気の毒なので我が家の池に放してもらった。
烏が少なくなっているのは町場の方が残飯が多いからで、大方はそちらに移動したらしい。柿の実より残飯が烏の嗜好に合うらしい。枯れ枝に烏が群れをなして止まっているのは会議をやっているのだそうだ。この流れてきた旅烏を仲間に入れるかどうかなどの議題で衆議に計るそうである。町方に移動するについても衆議の結果と思うが必ずしも満場一致とはいかないようで地元に残るのもいる。その烏は通常の烏のようにカーカーと単純な啼き方はしない。えー、あれが烏かと思われるような奇妙な鳴声でとてもカタカナで書き表せるものではない。
猫も月夜の晩に集会を開くのだと、浅草という屋号の家の一人暮らしの婆が話してくれたことがあった。畑仕事をするとき我が家の前の小道を通って行くのだが、心臓にペースペーカーを埋め込んでいるので休み休み歩く。我が家の猫を見るといつも「今度生まれてくるときは猫に生まれたい」というのが口癖だった。その婆が言うには、我が家にいたゴンという名の雄猫が集会の議長を務めていたのだそうだ。ゴンという名は、名無しのゴンベーに由来する。妹の次男坊が拾って来て飼っていた正真正銘の野良猫である。
ドイツに家族で引っ越すときに一緒に連れて行くのを断念して実家の母親に預かってもらったわけだ。
ゴンは猫にしては珍しく、ある朝、家で冷たくなって死んでいた。老衰であったが、死期が迫った頃はウンチを垂れ流す不始末の日が続いた。ゴンの墓は、千年杉の傍にある先祖代々の墓の一隅に葬られている。
朝、外に出ると鷺が錦鯉の池から飛び立つことがある。池には錦鯉どころかタナゴなどの小魚さえいなく
なった。数年前、蒼鷺が罠に掛かったので飼ってみないかと声をかけてくれた人がいた。捕獲することさえ違法行為であることを知っての上でだ。
最近、珍しく隣の家の屋根に白鷺が止まっているのを見た。二時間ほど少しも移動せず目だけで周囲を観察している様子だ。ごみを出しに行って帰ってきた田島さんの奥さん(篤姫:名はあつこなのだが当用漢字にあるような並の漢字ではないようなので吾が勝手につけたあだ名)が「置物かと思った」と言った。
小清水川には、農薬のせいか、河口にコンクリートの工事をしたせいか魚影を見ることがない。1993年頃は、橋の上から10センチ位のハヤの群れを見ることができた。
ふくろうは、春先の宵の口に裏の大杉で啼く。実際に啼くのは十日位のほんの短い期間だけだ。テレビの時代劇ではのべつ啼くのでそちらで聞くほうがはるかに多い。
猪は、これからも確実に増えるに違いない。山間部では蕎麦の畑は三分の二が踏み潰されたと聞いた。
江戸時代には、猪がお城の中まで跳び込んで来るほど異常繁殖して飢饉になったという。安藤昌益が警告した猪飢饉(けがじ)が刻々近づいている気がする。
狸も増えて畑に西瓜を作っても、うまそうなのは狸に食べられてしまう。スーパーで買って食べたほうが安上がりだという人もいる。
狸が増えたのに、狐の話は滅多に聞かない。したがって、狐に騙される可能性は皆無に近い。
写真説明
写真1:狸の糞
写真2:罠にかかった狸
写真3:兎の足跡
写真4:ヒキガエルの子
写真5:蛇を見つめる猫たち
写真6:インスブルックで買ったガラス細工のふくろう
写真7:屋根の上の白鷺
百万本のバラ

原曲はロシア人歌手アーラ・プガチョワ(Alla Pugacheva)のMillion Rosesという唄だったのですね。
