池島信平のこと-4 横須賀海兵団
2009年3月12日記 2014年8月14日修正 海軍工作学校
池島信平のこと-4 横須賀海兵団
池島信平文集の「雑誌記者」の中の「狩り立てられる編集者」の一節に2週間の横須賀海兵団入隊の時の私的制裁のすさまじさが書かれている。


吾の母シゲコの弟満(三男)は昭和2年生まれで、明治42年生まれの信平よりは18歳ほども年下であるが、同じ横須賀の工作学校に入学し、終戦の昭和20年の2月24日、海軍病院にて死亡と報告されている。
享年十九歳であった。


享年十九歳であった。


仏壇の遺影は、吾と良く似ていると子供の頃から言われてきた。
忠(次男)も終戦の前日14日に、台湾で戦死と報告されている。処不明と付記がある。
なぜか、この戸籍簿にはどちらも嘘っぽいものを感じている。
忠(次男)も終戦の前日14日に、台湾で戦死と報告されている。処不明と付記がある。
なぜか、この戸籍簿にはどちらも嘘っぽいものを感じている。
涅槃会 団子まき

涅槃会 団子まき
涅槃図を掛けんとすなる僧五人 高浜虚子
小学校にあがる前だったと思う。祖母テルに連れられて安住寺の団子まきに行ったをの良く覚えている。
子供の目にはこの涅槃図は吸い込まれるような巨大なものに見えた。
象や孔雀や虎や二こぶ駱駝などさまざまな動物(52類)が画き込まれているが猫だけはいないのだと祖母が説明してくれた。
その理由は良く覚えていない。
団子まきが始まると、皆が気が狂ったように大声を挙げながらばら蒔かれた団子を拾った。
吾の足元に転がってきて靴下で踏みつけた物まで隣の席の婆さんが指先で穿り出して自分の袋に掻き入れた。
以上は子供の頃の思い出であるが、今回六十年ぶりに団子まきに参加した。
あの頃と同じ涅槃図が掲げられていたが吸い込まれるような巨大さは感じられなかった。
涅槃会の法要が終わっていよいよ団子まきが始まると、これまでの静寂を破って皆が狂気のように大声を挙げ、団子を拾おうとして畳の上をばたばた這いまわる音が御堂に響き渡った。
それと同時に三歳くらいの男の子が火がついたように泣き喚いた。
団子まきが終わって静けさが戻っても、男の子のしゃくり声は止まなかった。
この子は地獄を見たのではないかと思う。
和尚さんに出版されたばかりの竹林史博著「絵解き涅槃図」という豪華本を貸していただいた。
涅槃図に猫が描かれない理由として、諸説あるが、吉田平七郎氏の説は次のようなものだそうである。
「摩耶夫人が天上から薬袋を落としたが、木の枝に引っかかり、鼠に命じて取らしめようとしたところが、途中で猫が食い殺したために、臨終に間に合わなかった。
そのため猫は寄せつけられなかったというのである。」
関連資料
安住寺の涅槃会 団子まき(ムービー):http://www.youtube.com/watch?v=1GZ80Q39NGQ
AFPBB News から
2009年3月26日記
24日のカラオケの月例会の帰りの車でだれかが空から水銀が降ってきたとか言っていた。
いがらしみきおの「かむろば村へ 1」では数百匹のザリガニが雨のように降り注いだという話が画かれている。自然現象? 超常現象?
関連資料
中国から?水銀飛来: http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009032302000071.html
24日のカラオケの月例会の帰りの車でだれかが空から水銀が降ってきたとか言っていた。
いがらしみきおの「かむろば村へ 1」では数百匹のザリガニが雨のように降り注いだという話が画かれている。自然現象? 超常現象?
関連資料
中国から?水銀飛来: http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009032302000071.html
池島信平のこと-6 歴史よもやま話 鎌倉仏教


池島信平のこと-6 歴史よもやま話 鎌倉仏教
池島信平の母、カタ子はここ小清水集落の出身で、先祖代々の墓は黒姫山を望む東の山の峠近くにあります。
菩提寺は、吾が家と同じく安住寺で、曹洞宗です。
また、信平の父は、近郷、上條村久米集落の生まれで、小清水集落の佐藤酒造店の番頭として働いていました。
信平自身の墓所は、前の記事にも書きましたが、鎌倉円覚寺の松嶺院にあります。
関連資料
映画「禅」公式サイト:http://www.zen.sh/
安住寺:http://www8.ocn.ne.jp/~anjyuji/soutou/soutou.htm
円覚寺松嶺院:http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/25688122.html
こんな映画を見ました 禅


こんな映画を見ました 禅
吾が家の菩提寺である安住寺 http://www8.ocn.ne.jp/~anjyuji/ は曹洞宗ですが、開祖道元禅師についての吾の知識は皆無に近いものです。
先日(2月24日)、北鎌倉で寺めぐりをしたとき、通りに面した石段の上に「只管打座(しかんたざ)」の石碑があったので写真に撮っておきました。
今日、この映画を見て、道元と鎌倉との関係がいくらか分かりました。
また、源公暁(くぎょう)が謎めいた歴史上の人物として吾の興味を刺激し続けています。
参考資料
映画「禅」公式サイト:http://www.zen.sh/
霞か雲か
2009年3月19日(水)記
今朝は晴天で、春霞がたなびいていると思っていました。
しかしそれだけでなく、風が吹くたびに杉の花粉が黄色い粉となって飛び散っているのが見えました。
さらに、ガソリンスタンドの主が言うには、大陸からの黄砂で車の天井は黄色い埃が積もっているとか。
昨日モンゴルのウランバートルでは強風が吹き荒れて、小中学校では5時には授業を終え、まっすぐ帰宅するようにとの通達が出たそうです。
さまざまなものが入り混じった春霞のようです。
今朝は晴天で、春霞がたなびいていると思っていました。
しかしそれだけでなく、風が吹くたびに杉の花粉が黄色い粉となって飛び散っているのが見えました。
さらに、ガソリンスタンドの主が言うには、大陸からの黄砂で車の天井は黄色い埃が積もっているとか。
昨日モンゴルのウランバートルでは強風が吹き荒れて、小中学校では5時には授業を終え、まっすぐ帰宅するようにとの通達が出たそうです。
さまざまなものが入り混じった春霞のようです。
田舎の田舎暮らし 豚汁ならぬ猪汁

田舎の田舎暮らし 豚汁ならぬ猪汁
狸や猪の被害に困り果てている話題ばかりが続きましたが、泣き寝入りしているわけではありません。
米山の山麓の大平という集落に七世帯の家族が住んでいるそうですが、猪の被害に音を上げてついに集落が結束して反撃に出たそうです。
今日はその成果を祝って、猪の肉を囲んで酒盛りをするそうです。
数日前、猪の肉は臭いとか、硬くて食べられないとか、いろいろ話には聞くのですが吾は食べたことがないので真偽の程を確かめたいという話をいとこに話しておいたら、今日、大平集落の友達からお裾分けで少し手に入ったので、それを少し分けてもらって試食することができました。
生の肉かと思ったら、すでに筍や牛蒡をなどで煮込んだ調理済みのトン汁ならぬ猪汁でした。
暖めてすぐ食することができましたが、全然臭みはなく、程よい硬さで豚肉より脂の少ないものでした。
これからは野生の猪で肉も自給できる可能性は十分です。
この年で殺生はしたくないけれども、ここの限界集落では吾は若手のホープと期待されているようですから、これからライフルの射撃訓練を受けようかと冗談でなく考えているところです。
蛇足ですが、大平集落の友達という人は、去年の夏、私たちの畑を訪ねてコスモスの種をもらって行った人だそうで見ず知らずの他人ではないということです。
田舎暮らしの達人 田島利康先生


田舎暮らしの達人 田島利康先生
昨年の春、田島さんの永年の友人である台湾の陳夫妻が日本を訪問され、吾と田島さん夫妻の住んでいる小清水集落にも立ち寄られました。
写真は、田島さんの案内で吾の畑の隅にある作業小屋(地元では「テムジンの小屋」と言えば知らぬものはない?)を訪問されたとき撮影されたものです。吾の両隣が陳さん夫妻です。
帰国されてから陳さんはブログにそのときの話を掲載されました。
原文は中国語です。
吾は、中国語は、ニーハオ、シェーシェー、とサイチェンしか知りません。
そこで、インターネットの機械翻訳(エキサイト翻訳)に頼ってそのままの日本語を手を加えずに以下に掲載します。
訳文中、「小さい清水」とあるのは、この集落の名、小清水のことです。
どなたか、ボランティアで原文から品位のある日本語に翻訳していただけると助かります。
ーーー以下エキサイト翻訳文ーーー
生活達人
1位は都市の生活の東京人に慣れて、定年退職はその後新しい〓県の辺鄙で遠い田舎まで走って、質朴な山の住まいの生活を過ぎています。 こちらの生活の人に達する---田島と利康先生、私の家の友達で、私は1977年6月にかつて彼の東京でのは一週間住んで、30年後に、家内は私が異郷の下の家と彼らの夫妻に着くことと一緒に5日生活して、日本田舎の勤務と休憩を体得して、同じく見習いをして退いて者の生活を修理します。
田島先生は1人の撮影技師で、東京で広告を経営して30数年設計します。年期の60は営業を終えて、自ら定年退職します。3年余り前に1棟の農家を買って、整えてはいけない後にいつも東京と新しい〓が行き来して、1年の大雑把な半分のある都市、半分のある農村、2種類のまったく異なっている定年退職する生活を享受します。彼は1人の生活にわかる人で、海鮮を買うことが好きで自分で沙西米を処理して、自分はそばをすることができ(ありえ)て、同じく旅行することが好きで、若い時かつて親しい友人とヨーロッパまで(へ)自分で旅行して、中年あとでかつて遊覧船をも持ちました。そのため年上な定年退職は農家を買って、彼の過去の生活の経験と鍛練から、必然を植えるのであるようです。
生活が無知なことができ(ありえ)ないで暮らすことにわかって、良い友達の推薦・紹介のもとで彼は新しい〓県の柏崎市の辺鄙で遠い田舎まで(へ)1棟の2高い建物の農家を買いました。その村落は小さい清水に40戸の人だけあらせて、田島の家はこの村の山辺に位置して、付近の家全部で10戸、しかし4戸が居住する人はいないことがいます。出発間際になるその日は1部のおかしい手を来て、取り除くことを始めて最も彼の家の1戸に接近して、それからただ9戸の人だけに残ります。
この小さい村落は老人村と称することができて、ほとんど子供に会えないで、若い人はすべて故郷を離れて都市まで(へ)発展して、老人を残して郷里を死守して、いったん家に往生して無人の家になったら。友達の家の周辺は4棟の空っぽな家があって、このような情況に属します。むこうの1位はただ嫁さんのすでに85高齢に位置して、跡継ぎがなくて、一人で郷里に近くにあって、毎日菜園で野菜を植えて、除草して、施肥して暮らして、いつかは人はしおれて、あの家も絶対に空っぽな家になります。
幸いに都市人はこのような村落に運んで入れたくて、さもなくば更に数年を過ぎてこれが下ろして無人の村になったのではないだろうか。小さい清水の地元の人はすべて1対の東京人が運んでくることを知っていて、とても好奇心があり、もとても光栄です。これらのお年寄りの若い子弟が次から次へと東京へ走るため、意外にも東京人は彼らの共にささえ合うこの田園に引っ越してくることをと願って、どうして感動させられませんことができるだろうか!まるで1枚の絵の彩色上絵は《新しい〓青年が東京に大急ぎで駆けつけていることを見て、東京の老人は新しい〓》に引っ越して、若い人は生活を創造するため、老人は生命を探します。
東京を遠く離れます 生命を探すもとはつけます
ひとつは東京で生まれて、成長、生活した1甲子の人はどうしていずれもにぎやかなことを遠く離れますか?またどうして冬季にあってと積雪の満ちる物差しの農村が歳月をして定年退職のために落ち着いて運命のありかに立つことができ(ありえ)ることを選びますか?『年齢が古くなってセメントのジャングルを辛抱して、私は青くてつやつやしている田野を必要とします。』これは都市の田舎の主要な原因から田島先生です。別の理由は良い友達の田舎の体験で、彼に新しい〓に引っ越すことを決定させます。ありますひとつは遺伝子の記憶と伝承する理由に属します:彼の父の誕生は新しい〓の北方で、彼の奥さんの母方の祖父も新しい〓人で、少し肉親捜しが年長者あるいは祖先の出生地に帰りますそうです。我が国から過去の原籍法、彼らの夫妻はまったく新しい〓人で、また後退の故郷の行動を植えるのであるようです。
実はどんな理由が東京から新しい〓まで(へ)重要ではありません。都市の郷から野生は重点がで、都市の老人がどのように楽しくて無事に暮らして、田舎の生活を享受するのは重点がです。しかし現代から生活する標準、粗末な郷が生活に位置して楽しみが苦行を積む気持ちを修理することがいるのだと言って、さもなくば田舎の生活は一部困難で苦しいです。田島先生がもし持っていて生命のもとの点の願いを探すのではありませんならば、普通の都市人は恐らくこのような生活を適応しにくいです。もしかすると「生命のもとの点を探します」の引っ越す根本的な原因。
都市人は郷の位置する日に適応して、確かで、田島先生は特に言及して、彼らのこのような移住者のようで、このような地方で生活して必ず「3神器」---自動車、コンピュータのネットワークとストーブがあるなくてはなりません。自動車とネットワークはすべて外に中隊の経絡のツールをつなぐので、彼らが完全に都市の生活を捨て去ることができないことを意味して、ストーブは季の家屋のなくてはならない施設に4ヶ月の雪続くのです。
東京を離れるのはのために俗世から遠く離れるので、田舎の目的に引っ越して静かなことを求めて、年配の人のは行為に引っ越して、勇気と健康を必要として、まだ苦行を積む実修の気力があるなくてはなりません。田島先生は自分に例えて自分生命のもとの点を求めて、私は彼が修行していることを賛嘆します。
2008/6/1~5日本の新しい〓旅行途中記述する---1つ
挿し絵は田島先生の農家です(家の後から山の斜面が撮影します)
図をおりて田島奥さんと家内のために家の前で撮影します
読者の感銘:0 1 0 0 0
lionelは空の部落で23:23:27で発表します 伝言 (0) | 引用 (0) | 人気 (77) | 回転して郵送します
ーーーエキサイト翻訳文おわりーーー
清新快哉 様
長い文章を翻訳していただき、ありがとうございます。早速田島先生にもお知らせしたいと思います。
佐藤武久
以下は清新快哉 様が11回にわたりコメント欄に投稿された中国語からの訳文をまとめたものです。
生活の達人、田島利康先生
都市生活に慣れられてきた東京人なのに退職されてから、新潟県のへんぴな集落にお越しになって、素朴な田園生活をお送りになってる人間がおられます。この方は生活の達人である田島利康先生です。我が家の友達です。1977年6月、私は田島先生の東京の家に一周間住んだことがあります。その後30年たって、私はまた家内を連れて、田島先生の集落の家を訪れ、田島夫妻と一緒に五日間お暮ししていました。それは日本の田舎生活をご体験しようと思った一方、退職者の生活をご見学したかったからです。(1)
田島先生は写真家として東京で広告の設計に30年余り従事されてきました。だが、六十になるとすぐ休業されて、自発的に退職されました。3年余り前に農家の家を一棟お買いになったが、きちんと整理されてから、常に東京と新潟の間に行き来されています。都市と集落とではほぼ半年ずつ暮らされて、まったく相違の退職生活を一斉にお楽しみになっています。(2)
田島先生は生活の達人です。海鮮を買って刺身を作ったり、自分で蕎麦を打ったりされていました。それに、旅行もお好きなことですし、若い時、友人とご一緒に個人旅行でヨーロッパへおいでになりました。中年になってから、またご自分のヨットを乗られました。このような前歴から見れば、定年退職後の田島先生は農家の家をお買いになったのは当り前だということが分りました。(3)
生活の達人はぼんやりして暮らされるわけがないんです。知友のお薦めで、田島先生はついに新潟県柏崎市から遠い集落に二階建ての農家をお買いになりました。小清水という集落で、四十戸しかなかったんです。田島先生の家は山の麓にあります。隣は十戸しかなかったが、その中に四戸の空き家だったんです。お別れだった当日には一台の掘削機がやってきて、一番近いの隣の家を取り壊してしまいました。それで、九戸の隣しか残らなかったはずですが、と存じております。(4)
この村ではあまり子供に会えないで、「老人の村」と言ってもいいです。若者はもっと伸びたりするために、みんな集落から都会へ出て行ったが、故里を死守されているものは唯の老人しかいないから、一朝往生を遂げられるとその家も空き家になるわけです。田島先生の隣にはこのような空き家がもう四つあったそうです。田島先生の向こう側の隣は孤独なお婆さんで、85才だったけれど、子孫もいないし、一人で家を守られています。お婆さんは毎日のように畑に野菜を植えたり、除草したり、肥料を施したりされて、日を送られています。一朝萎まれてしまったら、その家も空き家になるに違いないと存じます。(5)
幸い、都市からの人はこのような集落が気に入られます。さもなければ、幾年もたってからこの集落は「無人村」になってしまうかなと存じます。小清水地元の人々はみんな東京から引っ越されてきた田島夫妻のことをよく知られているばかりか、好奇心も強いし、光栄と感じられています。集落の老人達の子孫はつぎつぎに上京して行ったのに対して、今や東京人は反って喜んで集落に引っ越されてきて、老人達と共にこの田園を守られてるんです。これはどんなに集落の老人達を感心させられることでしょう。私は絵のような光景がまざまざと目に浮かんでおりました。それは『新潟の若者達は東京へ駆けて行き、東京の老人達は新潟へ移動される』という色絵だったんで、しかも若者達が人生を構築されるための、老人達が生命を探求されるための色絵だったんです。(6)
東京からかけ離れて、命の起点を探せよ
東京に生まれられて成長され、60になった人なのに、どうして繁華な都会からかけ離れなくてはいけないんでしょうか?また、どうして冬雪の厚い山里をお選びになって、それを退職後の生息場所とされなくてはいけないんでしょうか?「年を取るほどにコンクリートの森にはじっと我慢できず、緑の野原が欲しい」と田島先生は都会から集落への経緯をおっしゃいました。一方、この前に田舎に居られた知友を見習ったりされたことも新潟へと決められてご移住になったもう一つの理由だと言えるでしょう。(7)
なお、遺伝子に関する記憶と伝承という理由もあります。それは田島先生の父上は新潟の北部のご出身だったし、奥様の外祖父様も新潟人だったからです。この点から見ると、まるで先人の跡を尋ねられるために、祖先の出身地にお帰りになったようです。(日本)昔の戸籍法により、本来ならば田島夫妻は新潟に属してる人に違いないと存じます。それで、田島夫妻のご移住は帰郷活動でもあろうかと存じております。(8)
実は、東京から新潟への移動というよりも、都会から田舎への移動という方が骨子となるものだと存じます。都市の老人達は如何に楽にお住みになって、田舎生活を楽しめられる事こそは大事なことでしょう。しかしながら、現代生活の視点から見れば田舎生活を楽しめたりしながら、 苦しい修行する覚悟の上ではないと、あんまり田舎生活を暮せないと存じます。もしか田島先生のような「命の起点を探せよ」という意志を持ってない普通の都市人の場合だったらどうでしょう?恐らくこういう苦行気味の生活にどうしても慣れないかも知れないと存じます。確かに、「命の起点を探せよ」ということこそはご移住になった理由ではないかなあ、と存じます。(9)
都市人は集落生活に慣れるまではたいへんなことです。田島先生のお話によりますと、集落に暮らしたい人は必要な「三種の神器」を持たなければならないです。その三つの宝物は車、インターネット、暖炉です。外部とのコミュニケーションと連絡の手段だからと言われて、自動車とインターネットを集落でも常用されているということによって、都市生活を全部放棄されて欲しくないということが分かっております。それに、暖炉も四か月ほど長い雪の季節に欠くべからず暖房の必需品ですから、と存じますが。(10)
喧騒を避けられるために東京から離れられて、閑静を求められるために集落に移住された。お年寄りのご移住は勇気と健康の上、苦行される意志をお持ちになる必要です。田島先生はご自分自身の命の起点を探されてるんですから、私は田島先生のご修行をご賞賛いたします。(11) 終わり
<快哉/訳>
参考資料
生活達人---田島利康先生(中国語の原文): http://blog.yam.com/lionel/article/16556707
池島信平のこと-4 横須賀海兵団



池島信平のこと-4 横須賀海兵団
池島信平文集の「雑誌記者」の中の「狩り立てられる編集者」の一節に2週間の横須賀海兵団入隊の時の私的制裁のすさまじさが書かれている。
吾の母シゲコの弟満(三男)は昭和2年生まれで、明治42年生まれの信平よりは18歳ほども年下であるが、同じ横須賀海兵団に入隊し、終戦の昭和20年の2月24日、海軍病院にて死亡と報告されている。
享年十九歳であった。
仏壇の遺影は、吾と良く似ていると子供の頃から言われてきた。
忠(次男)も終戦の前日14日に、台湾で戦死と報告されている。処不明と付記がある。
なぜか、この戸籍簿にはどちらも嘘っぽいものを感じている。

