池島信平のこと-9 カタの号泣

池島信平のこと-9 カタの号泣
塩澤實信著「雑誌記者池島信平」に次のような記述がある。
(以下引用)
母親カタが、半狂乱になって、信平の遺体にすがり、絶叫しはじめたのはこのときだった。
「まだ死んでいない。死んでいない!・・・・・・・こんなに温かいじゃないか!・・・・・・まだ、生きている。注射を、注射をしておくれ!」
カタは、信平の顔に頬をあて、手で胸をさすり、体温ののこる遺体にとりすがって、必死に哀訴した。四十三歳で寡婦となり、七人の子供を育てあげた気丈な母が、はじめて見せた愁嘆場であった。
兄弟の中でも、人一倍母親思いの信平だった。旅行に、よく母を連れて歩いた。両親を早く喪った吉川英治は、信平の親孝行ぶりをみて、
「奈良へ来ても伊勢路に来ても、見れば見とれぬ母ある人の、ははともなうを」
と、色紙に絵と賛をして贈ってくれたほどだった。
(引用終わり)
早くに両親を亡くした吉川英治には、こんな短歌があったのを思い出した。
「酒飲めば そこはかとなく、父もいて 母もいる心地ぞする」
徳川無声の朗読による「宮本武蔵」のレコードの解説文にあったもので、多少の記憶違いがあるかもしれない。
生き物便り 縞蛇(シマヘビ)

生き物便り 縞蛇(シマヘビ)
5日からようやく春らしい日が続いて冬眠から覚めたのだろうか、今年初めてシマヘビを見た。傍を通り過ぎたときも少しも動かないのでうっかり見過ごすところだった。
家に戻ってデジカメを取って戻ってきたときも同じ姿勢のままだった。
冬眠明けで寝ぼけているのか、体温が上がらず活動が鈍いのか良くわからない。
1メートル位の鼻先まで近づいてカメラを向けたらやっと頭の10センチほどを横に動かしたので生きていることが分かった。
最近は、狸や狢が増えて蛇を見ることが少なくなったと村人は言っている。
この村には子供がほとんど姿を見せないから、怖いのは狸や狢であって人間ではないとこのシマヘビは思っているのかもしれない。
花便り 桜

花便り 桜
北鎌倉では3月24日に早い種類の桜が咲いていたが、雪深い越後ではようやく山桜が咲いてきた。
屋敷内に四季咲きの桜の小さな木があるが、2年前の大雪の年に幹が裂け、切り落とした所から小枝が出てまた花を咲かせるようになった。
この春は、彼岸を過ぎてからも小雪が舞う日が数日あったから、写真に撮っても桜の花とも雪とも見分けが付かない。
生き物便り 蛙

生き物便り 蛙
むらぎもの 心楽しも 春の日に
鳥のむらがり 遊ぶをみれば 良寛
今朝、池の周りを歩いていると聞きなれない鳥が鳴いている。
大杉の辺りかと思って見上げても一向に姿が見えない。
池ははびこった水草を掃除するために水を抜いているが、中ほどに一段深く掘った錦鯉の退避場のような1メートル四方の囲いがある。
どうもその辺から声がすることに気が付いた。
長靴を履いて近づくと茶色の蛙が数匹(2匹ではない)が一斉に水中に隠れた。
そこの見たものはこんな蛙の卵だった。共同産卵場になっているらしい。
蛙はゲロゲロとかガーガーと鳴くものとばかり思っていたが、あんないい声で鳴く蛙もいるのだ。普段はゲロゲロで産卵期だけあんな小鳥のような声で鳴くのか吾不識。
生き物便り 鶯

生き物便り 鶯
今年の春は彼岸を過ぎてから雪が降ったりして、鶯も出番のタイミングに迷いがあったであろうが、例年のささ鳴きが聞かれなかった。
鶯も少子化で、初めてこの春を迎える新生児がいなかったのだろうか?
それとも、出番を待っている間のイメージトレーニングによる学習効果の成果によるものであろうか?
弟が墨絵や日本画を習い始めた。上手とも下手とも言えないが最初の作品らしいので記念の意味で添付する。
失礼、鶯と思ったら目白でした。
1000年残る森

2009年4月4日記
1000年残る森
朝のテレビで「マイツリー」が話題になっていたので、少し古いがこんな記事を思い出した。
「2007年6月17日 毎日新聞より
大相撲関脇の安馬関(23)=写真=が、昨年12月に交通事故で亡くなった父への鎮魂の思いを込めて、母国モンゴルで7月、植樹を計画している。故郷の村で学校建設に取り組んでいた父の志を受け継ぎ、「1000年残る森をつくりたい」と燃えている。」
1000年という年月は、大袈裟に思えるかもしれないが、モンゴル人の時空に関する尺度は日本人と比べると10倍位大きいような気がする。
「100キロは距離ではない」ということわざ?があるが、「ちょっと、そこまで」という感じで400キロ離れた川に釣りに行ったりする。
JICAでモンゴルにいた頃、一緒に昼食をしていた教授が「チンギス・ハーンは新しい」と言った。キリストは2000年の昔だが、チンギス・ハーンは800年そこそこだと言う。
なるほど、そうだと納得はするが、キリストとの対比が当時の吾には不適切のように思われた。
吾が家の先祖代々の墓の傍に千年近い大杉がある。根元が空洞になっていて子供なら3人も4人も入ることができる。子供の頃、ここの蟻地獄で遊ぶのが面白かった。
モンゴルの科学技術大学にいた頃、この大杉の写真を学生に見せた。その学生は後に東北大学に留学し、仙台の街にそんな大杉がないかと探し回ったが見つけられなかったと言う。いつか彼女に見せてやると約束してあるがいまだ果たしていない。
それにしても、安馬(現日馬富士)の森が千年経ってどんな木がどんな太さに育つのだろうか? ちょっと想像ができないが、多分、日本の十分の一位の太さかなと思う。
関連資料
父の遺志継ぎモンゴルに「1000年残る森」植樹(安馬関):
http://www.trims.co.jp/recyclenews/2007/06/1000.html
池島信平のこと-8 横浜事件

池島信平のこと-8 横浜事件の影
新潟日報3月31日付けで「横浜事件 免訴で終結」という見出しの記事がある(添付資料)。
池島信平は「雑誌記者」の中で次のように書いている。
――「横浜事件」というのは、東京を中心とする三十余名の言論知識人が、横浜地方検事局思想検事の拘引状(こういんじょう)を携(たずさ)えた神奈川県の特高(とっこう)警察陣によって、検挙投獄された事件の総称であり、被検挙者の所属は、研究所員や評論家を含めた主として編集者よりなり、ジャーナリストであるところに特徴があった。
従って事件は多岐に分れ、その間の連関は極めて乏しく、むしろ複数のケースを時間と地域の同一性から「横浜事件」と総称しただけで、強いてこれらの事件の共通性を求めるならば、それは増大する戦況の不利と、国内情勢の不安とのために兇暴化した天皇制警察が、軍国主義的絶対権力を笠に着て、ジャーナリズムの抵抗線に襲いかかったという事実のなかに見るほかはないであろう。――
これはわが友、美作太郎法学士の定義である。法文のように固苦しい表現であるが、簡にして明快である。
要するに、戦争遂行上、邪魔になる総合雑誌の編集者をまず十把一からげにブタ箱に入れ、拷問をし、その中で身体の弱い者を殺したという事件である。
中央公論社関係では小森田編集長初め六名、改造社関係では大森編集長他五名、日本評論社は美作君以下五名が、その難に遇ったわけである。岩波でも小林勇、吉野源三郎君が引っぱられている。
なんのためにこういう事件がデッチ上げられたか、よく分らない。今日でもいろいろな説があるが、だいたいこの事件の関係者たちの想像では、昭和研究会を中心とする近衛一派の和平運動弾圧への口実を見つけるため、まず雑誌ジャーナリストを拷問して、何かを聞き出そうとしたのが真相に近いと思う。これが政治家や学者を捕まえるなら、いくら特高でも、証拠を少しはニギっていなければ出来ぬだろう。しかし今日から考えれば想像以上に社会的に無力であった雑誌記者の十人や二十人引っくくるのは、彼らにとって朝メシ前だったのである。
「国体を破壊する目的」という口実をつけられ、小さな私的会合まで共産党まがいの集会とみなされ、猛烈な取調べと拷問のもとに発展して行った事件である。この人達の受けた暴力の詳細はすでに幾多の記録が残っており、詳説を避けるが、横浜事件というのは、われわれ編集者にとって最大の受難史であった。
わたくしなぞ、戦後、横浜へ行くたびに、いつもやりきれない気持に襲われたものであるが、ほんとうの敵は横浜署の一握りの刑事ではなく、旧内務官僚の一部と軍部である。
関連資料
横浜事件(Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
番組紹介
NNNドキュメント'07「1枚の写真が…~横浜事件65年目の証言~」:
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Japanmilitarism/yokohama_jiken.htm
映画「母べい」:http://movies.yahoo.co.jp/
冗談!冗談! 三姉妹

あの長寿の双子の姉妹、きんさんとぎんさんに、どうさんという妹がいるそうです、現在ブラジルに住んでいて103歳だそうです、子供の頃、養子に連れて行かれたということです。
今日、三時過ぎに急に雨が降り出して、作業場に逃げ込んでテレビをつけたら、たまたまこんな風な話が聞こえました。東京新聞が伝えるところとか言っていました。朝日新聞ではないと思います。

