池島信平のこと-13 雑誌「諸君」の休刊



池島信平のこと-13 雑誌「諸君」の休刊
光が丘公園で開けれているハワリンバヤル09を見た翌日4日、JR大宮駅の上越新幹線の乗換え口でモンゴルの若い友人と待ち合わせの連絡を取ったが、どう間違えたか予定時間になっても当人が現れない。
暇つぶしに近くにあったキオスクをぶらぶらしているときに見つけたのが「諸君!」の最終号だった。
池島信平が40年前に創刊したもので、創刊時の池島信平の精神は、「正論」に引き継がれるようである。
越後に向かう新幹線の列車で二階の席を取ったが、モンゴル人の友人は昨夜は仲間と飲み語り明かして一睡もしていない上に、大宮駅中央口の雑踏と喧騒の中に立ち尽くしていたので疲労困憊し、席に着くとすぐに眠りこけてしまった。
途中、上越の雪嶺が見える場所でゆすり起こしたが、さしたる反応もなくまた眠りこけてしまった。
仕方なくというか、お陰でと言うか、吾はひたすら「諸君!」の論壇の巨星たちの列伝を読みふけった。
関連資料
《「諸君!」休刊で「正論」にエール》で考える・・・:http://blogs.yahoo.co.jp/master3511/31947333.html
池島信平のこと-12 菊池寛の大きな袋

池島信平のこと-12 菊池寛の大きな袋
「信平さん記」(司馬遼太郎)より一部転載
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昭和40年ごろ、三重県をいっしょに旅行したことがある。伊勢松坂の宿で早く眼がさめたため朝風呂に入りに行った。大きな湯ぶねの真中に信平さんの笑顔がうかんでいた。
当時さほど親しくなかったので、共通の話題などはなく、ごくお座なりの話柄として、雑誌社の経営者としての菊池寛の偉さについてきいてみた。
「大きな袋をつくておいてくれたことですね」
この表現がおもしろかった。
国語解釈していうと、「中央公論」や「世界」に健康法のはなしやプロ野球における管理の限界といった企画は入りにくいのである。菊池さんがつくった袋は、政治・経済だけでなく、およそ人間の現象にして印刷するに足る内容ならすべて入る。ふつう雑誌というものは性格規定から出発しており、”おもしろくて有意義な企画ではあるが、うちの雑誌にはむかない”という選択の規制がたえず働いており、わるくするとそのために内容が衰弱するものなのである。
大きな袋という表現は、このひとが上司だった菊池寛に対するみごとな対応からうまれたもので、しつこくいえば、菊池寛をひとことでとらえているとともに、信平さん自身をもあらわしている。天賦のカンのよさや人懐っこさ、あるいは正直さといった資質が、みじかい菊池寛評のなかにすべて出ているのである。
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池島信平のこと-11 母カタ子の先祖の墓


池島信平のこと-11 母カタ子の先祖の墓
「池島信平対談集 文学よもやま話 上」の野上弥生子との対談で、母カタについてこんな話をしています。
(以下引用)
池島 いや、お元気でなによりです。わたしの母も八十三ですが、元気でしてね。いまだ頭が上がりません。この間も軽井沢の寮にいたのですが、「お盆で墓参りするから、連れていけ」・・・・・・。そこで、車で柏崎までいったんです。親類縁者、みな集めましてね、お墓の前にござを敷いて、「先祖は全員酒飲みばかりだったから、信平、お墓にたっぷりお酒をかけておやり」。こう申すんです。そして、その後は冷や酒の宴会で、まあ、その元気なことといったら・・・・・・(笑)。
(引用終わり)
その墓というのはこの写真のもので中央の墓石には嘉永二年 福相勇貴信士霊位と刻まれている。また左の小さな墓石には明治三十五年 金子常三郎建之 屋敷先祖大倉与左エ門と読み取れる。
カラー写真の中央がカタ子、その後ろが池島信平、右手の青年が写真提供者の金子享司氏、現在78歳である。左は昔、佐藤酒造店だった「酒屋」と言う屋号の家の佐藤忠雄氏の母堂フミで現在96歳でご健在である。
「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(4)」 田中角栄 涙の絶叫



「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(4)」 田中角栄 涙の絶叫
叔父清次郎は、復員後東京に出て小さな電気工務店をスタートさせました。
小さいながらも[東洋におけるスイスのごとき]会社を作りたいというのが口癖でした。
しかし、現実の世界は頭で考えたように理想どおりに行かず、業界の内部事情がわかってくるにつれて
これからは政商を目指さなければならないと次第に生くさい話をするようになりました。
「政治家なんて財界の男めかけ(妾)のようなもんだ」などとかなり過激な発言をすることもありました。
工場や銀行などの自動ドアの取り付け工事などで事業が軌道に乗り出してからは、政治評論家の藤原弘達との対談、プロゴルファーの中嶋常幸を招待しての社内研修会など有名人、著名人との接触が多くなってゆきました。
その中で叔父が一番自慢していたのは、郷土新潟の出世頭で、この年代の人たちがもっとも成功した人物と崇める田中角栄とゴルフ場で写したこの写真です。
叔父以外にも郷土から出てある程度の事業に成功した人が最も自慢するのは田中角栄との記念写真のようで、私が調べた小伝に同じような写真を掲げている人を他に二人ほど知っています。
その頃は、学歴のなかった叔父の相変わらずの有名人好き位に思っていました。
80歳を越えた叔父がこれまでの人生でもっとも尊敬する人物(政治家と限定していなかったと思います)は[ゴルバチョフと田中角栄]だと言っていました。
ゴルバチョフは私も納得できますが、田中角栄は叔父の世代はともかく、我々世代には毀誉褒貶、評価の分かれる人物です。
このような叔父の伝記まがいの記事を書きはじめて、妹達からも次の原稿はどうなっているかと催促されるけれども、しばらく、田中角栄とのゴルフ場での記念写真を手元に置きなっがらさっぱり筆が進みませんでした。
モンゴルに来て、待ち合わせでサクラベーカリーという小さな日本食堂でコーヒーを飲みながら近くにあった日本の週刊誌を何気なく眺めているうちに田中角栄に関する次のような記事を見つけました。
《
田中角栄
派閥緊急総会で涙の絶叫
私はかって、人の悪口を言ったことがあるか。
誰か私が一度でも人の悪口を言ったのを聞いたことがあるか。
私は一度として他人の悪口を言ったことはない!
しかし、今日だけは口にだして言わずにはおれない!
政治家は51%は公に奉ずべきだ!
私情と言うものは49%にとどめておくのが政治家だ!
自分のためにだけあらゆることをして、テンとして恥じることのない者については、これは断固排除せざるを得ない。
日本を誤らせるような行動は絶対に許せん!
われわれのグループは、このことだけは守ろうではないか!
こうなれば、もはや個人の問題ではない!
・・・・・・・
》
51%と49%という数字が出るあたりが、コンピュータ付と渾名された角栄さんらしいが、この文章に触れたときに私は叔父の直感が間違っていないように感じ、思わずはらはらと落涙した。
ちなみにこの週刊誌というのは、フラッシュ 4/7.14 春の大感謝合併号で、表紙の写真は安めぐみで若い男性読者が奥さんにしたい人気No.1のアイドルだそうである。
私のモンゴルへの旅も、エスゲイが息子テムジンの嫁探しの旅に出たように、こんなモンゴルの娘が息子のつれあいになってくれたらどんなにかいいだろうと思うことが多々あり、嫁探しの旅をしているようなものでもあるが、こればかりは自分の嫁探しではないので意のままにならない。
余計な無駄口をきいたが、安めぐみのグラビア写真ばかり眺めていないで、この田中角栄の小さな記事を見つけたことはアズニーマズニー(モンゴル語でラッキー)であった。
私の親しいモンゴル人に話せば、それは佐藤さんがモンゴルを好きになってくれたからチンギスハーンの魂がいつもサトーさんをお守りしているからですよと言うに違いない。
いつの間にかである調に変わったが、敢えて直さずにおきます。
関連資料
ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真-1、2、3は古いページから転載します。
ウソツキクラブ短信

ウソツキクラブ短信
成田空港からウランバートルまでのMIATの飛行機の中でSecret Life of Beesという映画をやっていましたが、画面が小さい上に斜めの席からでは見にくかったのであきらめて、持参してきたこんな面白い本を読み終わりました。
著者は河合隼雄 + 大牟田雄三 となっています。
巻末の解説は、柳田邦男でタイトルは「週十三回以上、ウソをつこう」
人間のこころのなかには、誰しも、マジメで堅く現実的な面と、饒舌で虚構を駆けめぐろうとする面の、いわば二つの人格が共棲して・・・・・・
モンゴルのオペラ・バレエ 4月の上演予定

モンゴルのオペラ・バレエ 4月の上演予定
モンゴル科学技術大学の日本語学科の大学院では哲学の授業でオペラやバレエの鑑賞をするのだそうです。
棚田の復元
2009年4月7日(火)記
棚田の復元
3年ほど休耕した棚田には、葛の弦が這い回り、萱や葦の枯葉で前面が埋め尽くされている。
夕方薄暗くなったころを見計らって火を点ける。野焼きは愉快であるが、調子に乗りすぎて派手にやると、予定外の場所に飛び火して山火事騒ぎになるので、この焦土化作戦も散発的に進めなければならない。特に、この時期、この時間は風向きが変わったり、突風が吹いたりするので要注意。
ローマの街を焼き払った皇帝ネロのような訳にはゆかないのが歯がゆい。
夕方薄暗くなったころを見計らって火を点ける。野焼きは愉快であるが、調子に乗りすぎて派手にやると、予定外の場所に飛び火して山火事騒ぎになるので、この焦土化作戦も散発的に進めなければならない。特に、この時期、この時間は風向きが変わったり、突風が吹いたりするので要注意。
ローマの街を焼き払った皇帝ネロのような訳にはゆかないのが歯がゆい。
一通り枯葉を始末したところで、畦に沿って溝を切り、水を引き込んで見た。春の小川のように水が流れて水田らしい様相を見せて気お良くしていたが、モグラの穴が開いていたらしく、翌朝見たらすっかり干上がっていた。

