福岡・博多慕情(その13)-転職者たちの冬-極寒の街ソウルへ | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

もうすぐ梅のシーズンが来る。ゆっくり梅を観るようになったのは、翻訳者になって50代に入った頃からである。それまで梅を観ようなどと思ったこともなかった。フリーランス翻訳者の頃、平日に時間ができたことも関係があるかも知れない。

 

築城町の「綱敷天満宮」は梅の名所で、敷地には約1,000本の梅が植えられている。紅、ピンク、白、また少し緑掛かった白など様々な色の梅を楽しむことができる。境内に漂う甘酸っぱい香りは唱歌「早春賦」を思い起こさせる。

 

http://www.kyushu-jinja.com/fukuoka/tsunashiki-tenmangu/

 

 

菅原道真の漢詩「月夜見梅花」について以前ブログに書いたことがある。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12726691837.html

 

 

平成に入ってからのN銀行への転職者たちの集まりがあった。都銀、外銀、証券など金融機関、マツダ、NEC、その他ソフトウェア・ハウスからの転職組もいた。

 

証券とマツダからの転職組と仲良くなり、以後も定期的に飲むようになった。二人とも本店ではなく市内の中規模支店に配属されていた。

 

証券からの転職者はYZ。県内・飯塚市の出身で年齢は私より4歳くらい下だった。彼が銀行の月刊誌「N銀時報」に書いた自己紹介の一文を今も覚えている。「銀行が『農耕民族』ならば証券会社は『狩猟民族』のようなものである」。業態を的確に表しているように感じられた。

 

マツダからの転職者はOS。県内・八女市出身で九大・工学部卒。中小企業診断士(鉱工業部門)資格を取得していた。九大・詩吟部出身で、奥様も大学・クラブの同窓生だった。年齢・学年は私と同じだった。

 

当時3人でよく行ったのが博多駅筑紫口の大衆割烹「寿久(ひさきゅう)」と焼き鳥の「信長本家」である。「寿久」は酒の肴がガラスケースに並べて置いてあり、好きなものを取ってきて食べる少し昔の定食屋のようなシステムだった。

 

「信長本家」には資金証券部の同僚ともちょくちょく行った。店内も広く焼き鳥のほかに「もつ鍋」や「ラーメン」も置いてあり銀行退職後も随分とお世話になった。202010月にちょっと覗いたのが直近である。

 

 

1991年も終わりに近づいた頃、YZから「正月休みに何処か行きませんか?」と誘いが来た。当時の銀行はまだ大晦日も営業、その年の正月休みは1/11/55日間、それでも例年より長いほうだった。

 

YZは行先として「台湾」か「韓国」を考えているようだった。あまり気は進まなかったが「任せるよ!」と答えておいた。暫くしてYZから「台湾は人気で取れずソウルに2泊3日にしました!」と連絡があった。その時感じたのが「ソウル?!めっちゃ寒くない?!」だった。

 

 

1992年元旦。JALで福岡空港からソウルの金浦空港に飛んだ。飛行時間は1時間半ほどだった。当日の天気は快晴、飛行機の窓から見えたのは朝鮮半島の山々。殆どが禿(はげ)山で「何じゃこりゃ~」と思った。

 

昼からの航空便だったので金浦空港に着いたのは午後4時頃だった。空港に着いた頃から漂っていたのが何とも言えぬ香辛料の香りだった。唐辛子と大蒜(にんにく)が混ざったようなもので何かじわりと汗が出てくるような匂いだった。人々から漂ってくるものなのか?それとも大地の上の空気自体の香りなのか?

 

空港に旅行会社の人が迎えに来ていた。彼は流暢な日本語を話した。タクシーでホテルまで送ってくれてあとはフリーというプランだった。韓国のタクシーは乗り合いが普通で、途中我々のタクシーに乗り込んできた韓国人乗客もいた。

 

 

気温を聞いて驚いた。零下25度 ……。未経験の寒さだった。街に雪は無く、どこまでも続く灰色の街並みの上を乾いた風が吹き抜けていた。