福岡・博多慕情(その12)-「大蔵検査」の秋-対馬のイカの恨み | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

当時の金融機関は、3~4年に一度大蔵省銀行局の検査を受けていた。1991年の夏を過ぎた頃から「そろそろ蔵検(くらけん)が来そうだなぁ~」のような噂が本店の主要部門の間で立ち始めていた。

 

19919月下旬「長崎・十八銀行の対馬支店に蔵検が入った!」というニュースが流れてきた。対馬はちょうど秋のアオリイカ(ミズイカ)のシーズンに当たっていた。「検査官の奴ら!まさかイカが食いたくて対馬支店を選んだんかっ?」と感じた。それから一週間もしないうちに、当行・対馬支店に蔵検が入った。

 

なお、銀行の検査には大蔵検査と日銀考査(日本銀行考査局考査)がある。日銀は事前に「○○月○○日に当行の考査局から御行に考査に伺います。よろしくお願いいたします。」と紳士的に連絡が入るが、大蔵省(銀行局)は突然「大蔵省です!今から検査を行います!」とやってくる。まるでマルサ(東京国税庁査察部)か「破れ傘刀舟悪人狩り」のような感じだった。

 

大蔵省銀行局の検査官は対馬支店に2~3日滞在して旬のイカを堪能した後、福岡に上陸、天神町支店を経て本店に来た。蔵検には総務部・総合企画部が対面(といめん)で対応、大会議室を検査官たちの作業場所に割り当て、昼食や夜の接待の面倒までみていた。

 

検査官は総勢8名ほどのグループで、銀行局キャリアの検査官1名が銀行局および福岡財務局のノンキャリ職員たちを率いて本店に入り、各部門に膨大な資料の作成を要請した。各部門は資料が完成したら会議室にお持ちして内容を説明し質疑応答にも対応した。

 

資料の説明は部門担当取締役、部長、部次長クラスが行ったが、必要に応じて担当役席(代理クラス)が呼ばれることもあった。

 

通常勤務時間内は定常業務をこなすのに精一杯で、蔵検の資料作成は全て時間外(残業)で対応した。毎日19:00くらいになると全員分の弁当を交替で買いに行った。それでも女子行員は20:00頃には帰宅させ、後は男だけで毎日午前2:00くらいまで居残って資料を作成した。

 

結局、当時の女子行員はものの役に立ってはいなかった。

 

だんだん秋らしくなってゆく季節の中、平日の残業に加えて土・日もほぼ出勤という悲惨な毎日が3週間ほど続いた。安田火災の頃の「精算のトラブル」を思いだしていた。

 

平日はタクシー乗り合いで帰宅したが、部員全員が同じ方向に住んでいるわけではなく、部の経費は食費に加えタクシー代も嵩むことなった。ある日、S部長が「お前ら!何で同じところに住んどらんのじゃ!」と無意味に吼えたが、皆疲弊し切っていたのか、それがやたら可笑しく笑いが止まらなくなった。

 

まるで徹マン明けのくだらないギャグのようなものである。部員の誰かが「『S部長語録』を作ったら面白いかも知れんなぁ~」と言ったことを思いだした。

 

蔵検が終了した後、部内の男性全員で西中洲に「鳥の水炊き」を食べに行った。一か月近くにわたる異常勤務の慰労会で部の接待交際費で処理したようである。実に美味かった。

 

 

時期は秋の蔵検より少し遡る。1991年の夏、安田火災「いいとも会」のOYが博多に遊びに来た。たぶん広島に帰省中に足を延ばしての来福だった。

 

当初は「二人で壱岐・対馬に飛んで名物のイカを食べながら飲んで騒ごう!」と企んでいた。しかしちょうどその時期に九州北部を台風が直撃、飛行機も渡船も欠航となり、我々の企みは壊滅した。まさか我々の代りに大蔵省の検査官がイカを堪能するとは ……。恨めしい限りである。

 

この時OYが、1991年の長崎・雲仙普賢岳の火砕流など相次ぐ自然災害に際し「長崎は踏んだり蹴ったりじゃのう!」と言ったこと、またこの時の気象情報の「大雨・洪水・雷雨・暴風・波浪 ……警報」を、麻雀の役のように指を折りながら数え「一本たりませんねぇ!」と言ったのを、何となく覚えている。

 

併せて思いだすのは、私がN銀行に入行したときにOYが推薦してくれた「新債券運用と投資戦略」(野村総合研究所(編))の通読が遅々として進まなかったことであった。

 

資金部門の業務内容に債券や株式が含まれていなかったのは言い訳だが、この翌年の1992年4月、私は資金部門から証券事務部門に異動することになった。