福岡・博多慕情(その11)-銀行二人目の友人-「大山登山」再び | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

大名支店から異動してきたFさん。博多生まれの博多育ち、福高⇒九大・経済卒、B型で既婚、お子さんもいた。彼から本物の博多弁を教わったと言っても過言でなかった。

 

煙草も吸うし週2回は外で飲む。また麻雀も2週間に1回くらいする人だった。支店勤務時の後輩達からの人望が厚く、いつも「どげんですか?」と電話で後輩たちの様子を伺って面倒を見ているような方だった。

 

その一方で仕事は至って真面目。部に配属されて2か月くらい経つと毎朝7時半には出社して仕事を始めていた。S部長からは「おい!おいさん!」と呼ばれながらも指示された仕事はきちんと(こな)し可愛がられていた。これがN銀行の典型的な役席(代理)なのかな?と感じた。

 

このFさん、資金証券部(福岡・本店)で1年ほど勤務した後、市場証券部(東京)に異動することになったが、私がN銀行に在勤中、最後までお世話になった方の一人である。数年前、Fさんが還暦を待たずお亡くなりになったことを知った。この場を借りてご冥福をお祈りしたい。

 

「Fさん!資金証券部在勤中は大変お世話になりました。色々と親身にご指導いただきありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。」

 

 

話は少し遡る。19916月に私が銀行業務検定試験で「金融経済3級」を受けたとき、同じ部で受験申込みをしていながら欠席した同僚がいた。STという行員で1987年くらいの入行、その年3月に結婚したばかりの男子行員だった。

 

STは城南高⇒長崎大・経済卒。いつも黙々と真面目に仕事に取り組んでいたので試験を休んだのは意外だったが、やはりちゃんとした理由があった。

 

試験明けの月曜日STは病欠した。聞くところによると試験前日の土曜日、急な腹痛で救急車で搬送されたらしい。腹痛の原因は「(へそ)から(うみ)が出る」という奇病だった。

 

緊急手術の後、1週間ほど入院してSTは職場に復帰した。本人は200,000人に一人と言われる奇病と話していたが、症状が症状だけに以来「臍膿男(へそうみおとこ)」とか「蛙ちゃん」という愛称(あだ名)で呼ばれることになった。

 

因みに「臍膿男」と呼びだしたのは友人のHSで「呼ばれてどんな気持ちがした?」とSTに聞くと「そりゃあ!腹ぁ~立ちましたよ!」と真面目に答えた。

 

STが復帰して暫くたったある金曜日、S部長がSTを呼んだ。部長はSTの業務のやり方について「大体お前は ……云々」と一通り説教した後、さらにSTの後輩のKと比較して「(さば)けるKならそんなやり方はせんやったろうなぁ!」と言った。

 

さらに「お前はそんなことやから臍を悪うするんや!」と捨て台詞を吐いた。その時STは何ら反論しなかったが、ぐっと堪えているように見えた。

 

その日、職場に最後まで居残っていたのは私とSTだった。帰り際、STが「○○さん!今から飲みに行きませんか!酒でも飲まんと腹の虫が治まらん!」と声を掛けてきた。「いいよ!」と答えた。私も何となく飲みたい気分だった。

 

STは「俺、あの男(S部長)は好かん!大体Kのどこが捌けるんですか?!なんで俺がKなんかと比較されにゃならんのですか!」と本音を吐いた。居酒屋でそこそこ飲んだ後、さらに「カラオケに行きましょう!今日はとことんつき合ってください!」となり、結局最後は西新で明け方近くまで飲んだ。

 

以来STとは何かと差しで飲みやカラオケに行くようになり、彼が銀行でできた二人目の友人となった。

 

 

そんな19918月。一週間の夏休みが取れて向かったのは何故か大山だった。つくづく自分はワン・パターンな男だと思う。ただ、夏の木立の間を黙々と歩いていると、身体の毒素が流れて消えてゆくような心地がした。

 

ただ、この時気が付いたのは4年前と異なり登山の翌日に強烈な筋肉痛に見舞われたことだった。やはり20代と30代では体の反応が異なるものである。また、もう一つ、この時の大山登山では筋肉痛以外はどんな旅程だったのか、何処に泊まったのか全く記憶が無い。脳の方も老化したようである。

 

この時の大山登山を思いだして後に書いた漢詩の記事が以下である。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12724850533.html