福岡・博多慕情(その10)-哀愁の「雑餉隈」-銀行業務検定試験と人事異動 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

昨夜、不思議な夢をみた。数羽の白い鶴が錐もみ状態になって薄水色に輝く天空に舞い上がってゆく夢である。以前書いた「天使の梯子」の影響なのか?それとも、寝る直前に観たNHKクラシックTV「再発見!サン・サーンス 真の魅力」の影響なのか?また、白い鶴だったのか?白鳥だったのか?夢とは不思議なものである。

 

 

博多の繁華街と言えば、天神・博多駅(博多口・筑紫口)周辺のビジネス街、一大歓楽街の中洲のほかに、東に香椎、西に西新、そして南に南福岡(雑餉隈(ざっしょのくま))があった。

 

JR鹿児島本線「南福岡」駅から西鉄大牟田線「雑餉隈」駅に至る道筋を中心に市街地が形成されている。なお、雑餉隈という名称には歴史的な由来があるらしいが難読地名の一つでもある。

 

その頃の雑餉隈は「銀天町商店街」とその周辺に風俗街が形成されていた。2030軒ほどの風俗店があったが、住民からの苦情などにより今はその殆どが壊滅したらしい。吉祥寺の「キンテツウラ」のようなところだが、この雑餉隈、以後も私の人生に様々な思い出を遺す街となった。

 

 

閑話休題 ……。銀行の資格・昇格には、行内試験(預金・為替・貸付など)の合格、銀行業務検定試験・日商簿記検定などの資格試験の合格などの昇格条件が満たされていることを前提に、上司(所属長・支店長・部次長⇒部長)の人事考課に基づく昇格推薦を必要とした。

 

銀行・人事部は入行時、私を1982年入行・大卒の標準的な役職・資格である「主任・主事補」扱いとした。上位の役職・資格は「代理・主事」だった。

 

19916月、まずは上位役職・資格への昇格条件を満たすため、上記の資格試験の一つ、銀行業務検定試験を受験した。科目は「金融経済3級」だった。当時の「金融経済」には2級は無く3級が最上位だったが、解答方法は記述式ではなくマークシート方式だった。また、検定試験の当時の合格基準は70%だった。

 

銀行で初めて友人ができた。同じ資金部門にいたHSである。HSは福岡県久留米市出身で早大・商学部卒。年齢は私と同じだが2浪組で1983年入行だった。既婚者で子供もいたが、彼とは何となくウマが合った。

 

銀行業務検定試験についてHSに「どうしたら受かるかねぇ~」と相談すると、彼は「○○ちゃん!3年間分の過去問を3回くらいやっとけば大丈夫だよ!」と教えてくれた。私はその助言通りに実行し何とか合格できた。

 

資金部門の長はKAさんという代理で、入行以来私の面倒を見てくれたが、いかにも銀行員という感じで優等生っぽいところがあり、どちらかと言えば苦手な人物だった。この点が私とHSと共感しあったところだった。友情は、往々にして、共通の敵が居るときに芽生えるものである。

 

業務中にKAさんとHSが言い合いになることも時々あり、飲みに行くと、HSから高圧的な態度のKAさんの愚痴を聞かされることも多々あった。

 

 

資金部門には女子行員が2人居た。AさんとOさん。因みに血液型はともにA型だった。Aさんは九大・文学部卒、英文科だったように思う。Oさんは前年(1990年)4月入行の短大卒で、色白の美人だった。

 

入行して暫くして私が感じたのは、当時のN銀行の本部(管理部門)配属の女子行員は、学歴がそこそこ高いか、何らかのコネ(銀行の現・旧役員や重要得意先関連)があるものが殆どだった。まあどこも似たようなものだろうが ……。

 

 

資金証券部のS部長は、口やかましくも愉快な方で、当初はよく叱られた。一言でいえば、ホチキスの使い方や留め方までやかましく言う方だった。ご本人は大分県出身で熊大卒、ご子息がラ・サール高校から東大・経済学部に進学されていた。また、兄上は京大・法学部卒で大手信託銀行の役員だった。

 

S部長から入行当初言われたことで今も思いだす言葉がある。「お前がどれくらい勉強したかは、兄貴や息子をみて俺もよくわかっとる!だが『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』という諺もあるだろう。今は何もかもかなぐり捨てて頑張れ!」。実に温かみのある言葉だった。

 

 

銀行の人事異動は8月1日付けと11日付けという季節の悪い時期で、その内示が7月末と12月末に発表された。1991年8月の異動で、前述の優等生KAさんが「中洲支店」に異動になった。

 

KAさんは大口定期預金の金利決定の実質的な責任者であり、役員や主要部門の総合企画部、審査部、営業企画部、支店部、営業本部などからも一目置かれる「やり手」だったが、歓楽街のど真ん中の「中洲支店」への異動は実に意外だった。KAさんについて「ちょっとやり過ぎだ」との批判も少なからずあった。

 

 

その当時、S部長と部内の同僚の男性たちで飲みに行ったとき、S部長⇔HSの間で裁定取引か何かについてちょっとした言い合いになり、S部長が苦し紛れに「お前はそんなことやから2浪もするんや!」と捨て台詞を吐いた。これにはHSも黙っていなかった。

 

HSは銀行の上層部の学歴に相当詳しかった。「そうは仰いますが、○○常務も2浪、△△重役も2浪、また××支店の◇◇支店長も2浪じゃありませんか!他にも、▲▲部長や□□室長も2浪だし ……云々」とS部長に反撃、終いには「我々2浪の行員のそんな功績があったからこそN銀行はここまで成長・発展できたと言っても過言ではないと思います」と結論付けた。

 

S部長は「何を言うか!」と大笑いしていた。

 

 

KAさんの後任として市内・大名支店からFさんという代理が異動してきた。このFさん、実にユニークな方だった。