ソウル旅行が決まってから、韓国の企業から転職してきたCさんに、ソウル観光について話を聞きに行った。私より4~5歳くらい年上で、名門ソウル大学出身の方だった。
Cさんは入行当初は人事部門に所属していたが、暫くして国際部で企画的な業務を担当するようになっていた。行内では何かと目立つ人だった。
Cさんが薦めてくれたのは、国立中央博物館、ソウルタワー、南大門市場、梨泰院界隈、明洞繁華街とロッテ百貨店だった。季節的にロッテワールドは寒すぎるだろうとのことだった。
さらに、Cさんは独身の我々に清凉里という場所を紹介してくれた。「テキサスタウン」とも呼ばれる風俗街である。日本では見られない「飾り窓」の店が密集していると聞いた。
到着した翌日は寒さも少し緩んだ(とは言っても零下17度)。ソウルの街を観光していると多くの韓国人が我々に声を掛けてきた。英語の May I help you? のような感じである。
そのうちお世話になったのは我々の母親くらいの年齢の女性である。日本語がとても上手で彼女は「お昼は何が食べたい?」と我々に尋ねた。とても寒かったこともあり覚えたばかりの韓国料理「参鶏湯が食べたい」と答えた。
彼女は「安くて美味しいところを知ってる」と連れて行ってくれご馳走までしてくれた。確かに体も心も温まった。日本のことを色々聞かれ、別れ際に彼女のお住まいだけお聞きした。この女性には帰国後、YZと二人で選んだ「日本人形」を国際郵便で贈った。
1月3日に帰国して直接実家に顔を出した。その時感じたのは「年越しは両親(健在であれば)や家族と過ごすべきだ!」であった。何か申し訳ないことをした気持ちになった。
1992年3月。大蔵検査などで使えなかった部内のレクレーション費用が結構貯まっているとの理由から、S部長が「京・阪・神のいずれかの街に旅行に行かんか?」と言いだした。
所謂「三都物語」が流行った時期である。なお「三都物語」とは、1990年に開始された西日本旅客鉄道(JR西日本)のキャンペーンを言う。
幹事には友人のHSが選任された。HSは京・阪・神のいずれに行きたいか部員にアンケートを実施した。S部長は「京都」に行きたかったようだが、部員の希望は、私を含めて圧倒的に「神戸」だった。
HSが「多数決で神戸に決まりました!」と報告に行くとS部長がゴネ始めた。よほど京都に行きたかったらしい。終いには「HS!三都はやめて名古屋にせんか!明治村なんかいいぞ!名古屋で再検討してみぃ!」と面倒な話になった。
渋々部長命令に従って、HSは旅行会社に連絡行先を名古屋にして再度見積りを取った。しかし名古屋はコスト的にも時間的にも一泊二日では厳しかった。HSは再度S部長に状況を説明に行くと「お前らは名古屋の良さを何もわかっとらん!」と説教されつつも、どうにか神戸行きが決まった。
かくして1992年4月上旬、部員の希望通り神戸への一泊二日の部内旅行が行われた。
博多から新幹線で「新神戸」で降り、夜の宴会までは殆ど自由行動だった。女子行員連中はファッション系の街に向かったようだった。私は男性同僚たちと異人館を散策してから中華街へと向かった。何を食べたかは記憶が無い。
異人館は建物ごとに入場料を取られた記憶がありコスト・パフォーマンスは悪かった。夜の宴会は神戸支店の取引先の居酒屋だった。神戸支店の担当者が灘の生一本を差し入れてくれた。「旅先でも支店とコミュニケーションを取るんだ!」と感心した。
宿泊先は当時高級と言われた「ホテルオークラ」。予算が貯まっていたおかげだった。
なお、この部内旅行が震災前の神戸を見た最後となった。この時から3年足らずの1995年1月17日。阪神大震災により神戸は甚大な被害を受け、また神戸支店も壊滅し結局閉鎖となった。その後、支店の取引先等は関係が深かった都銀の大和銀行に移管されることになる。