1989年から1990年に掛けて、C社は結構な人数の新入社員・中途採用者を受入れており、事務所内のスペースが手狭になっていた。これに伴い、現在の事務所があるN銀行の事務センターの近郊のビルの一室にシステム開発部の分室を設けた。これが1991年1月中旬頃だった。
この分室の開設、賃借契約、レイアウトの作成や機器の設置など全般は、中途採用同期のAさんが対応していた。また、多くの新入社員・中途採用者に対する教育は、同じく中途採用同期のYさんが面倒を見ていた。
C社に入社して以来、この二人にはずっとお世話になっており、自分が転職を考えていることを話しておかなければならなかった。なお、このAさんとYさんについては「福岡・博多慕情(その2)-「一本槍」・「万寿園」と幻の好景気」に記載している。
Aさんと差しで飲みに行って私の事情を話した。彼は非常に残念がった。「一緒にC社を良い会社にしていこうよ!」と私を遺留したが、私の意思が変わらないことを確認すると、彼が中小企業診断士(情報部門)を目指しており、ゆくゆくはC社の経営に携わりたいと思っていることを打ち明けてくれた。
次にYさんに事情を話そうと思っている矢先、Yさんが不思議な行動をとった。私とYさんの席は隣合せだったが、彼は私の肩を叩くと「おい!○○!何か落としたぞ!」と言った。下を見ると折りたたまれた紙片が落ちていた。紙片を拾って中を開けてみると、そこには「遺留はしない!俺に話せ!」と書いてあった。
Yさんの方を振り向くと、彼は背広の内ポケットに手を差し入れて白い封筒を取り出した。その封筒の表には「退職願」と書かれていた。私は彼に向って人差し指を一本立てた。会社が退けたら「一本槍」で飲もうというサインだった。
「一本槍」で飲みながら自分の状況をYさんに話した。同時にYさんの状況も聞くことができた。Yさんは元々データベースの設計が専門のエンジニアであり、新人教育を担当するなど入社時には考えてもいなかった。この業務内容のミスマッチが転職の最大の理由だった。
さらに、Yさんはある会社からスカウトされ既に内定をもらっていることを話してくれた。その会社とは「新日鉄情報通信システム㈱(ENICOM)」(現・日鉄ソリューションズ㈱)で、本社は東京だが北九州事業所での勤務が決まっていた。既に北九州でアパート探しを始めているらしかった。彼の方が私より先行していた。
1991年2月半ば過ぎ、再びN銀行・人事部門のK代理から連絡が入った。N銀行への入行が決まったことを告げられ、入行日は1991年3月1日、配属先は、投資顧問子会社ではなく銀行本体の証券・国際本部・証券業務部となることを告げられた。
さらにK代理は「当行には高卒の役員や支店長もまだまだ多数居ります。また、京大卒だからと言って出世が約束されていることは全くありません。すべて実力次第です。とにかく入行される以上精一杯頑張ってください。」と言われた。
また「C社から人事異動になったつもりで当行にお越しください。」とも付け加えられた。
Aさん、YさんとはC社に入社した頃は、研究・開発グループの同僚として毎日のように将来の理想を語り合って酒を酌み交わした。恰好よく言えば、三国志の「桃園の誓い」のような間柄だった。
そんな入社当初の情熱もいつの間にか消え失せ、私の入社から1年半が経過した今、それぞれが別の道へと進むことになった。
C社を退職した後も15年ほどお二人とは年賀状のやり取りが続いたが、既に音信不通となってから10年以上が経つ。人生は会者定離である。
かくして1991年3月、N銀行に入行することになった。証券業務部内では自由金利商品の管理や短期金融市場・オープン市場における資金の調達・運用を行う資金部門に配属になった。
この資金部門で担当した業務が契機となって、遠い将来に自分が英文契約書など法務文書を専門とする翻訳者になるなど、当時は思いも及ばないことだった。
1991年11月に発売された松任谷由実のアルバム「DAWN PURPLE」。その中に「情熱に届かない ~ Don't Let Me Go」という曲がある。
C社で勤務した頃を思い出す時、ほろ苦さとともに思い浮かぶ曲である。