2回目の転職活動を通じて、自分のキャリアにまだ市場価値があることがわかったがかなり慎重にもなった。
1990年12月の2回目の上京の時、Ⓑ社の面談・内定通知の交付が終わってから、三井物産に勤務していたKOに事情を話し新宿で飲んだ。KOは学生時代の雀友、IKを連れてきた。IKは「商船三井(大阪商船三井船舶)」に勤務していた。
Ⓐ社の親会社は、IKの勤務先のライバルで三菱グループの「日本郵船」だった。私が元々入りたかったのはⒶ社で、Ⓐ社から親会社「日本郵船」への転籍、または「日本郵船」から出向の形でⒶ社に入社することが可能かなど知りたいことがあった。
IKの答えは「ノー」だった。実は、1990年代の海運業界では社内のシステム部門を物流(ロジスティックス=Logistics)専門の情報系子会社へ分社化する動きが進行していた。私の心の何処かに「子会社は嫌だなぁ~」という思いがあった。それが、やはりⒷ社がベターと決断した理由でもあった。
1991年1月、Ⓑ社への入社について「いいとも会」のOYに相談してみた。当時OYは安田火災の財務部門で勤務していた。彼の判断は「四大証券なら大丈夫だが、それ以下は辞めとけ!」だった。当時、彼はバブル・エコノミーの行方をどのように考えていたのだろうか?
また、Ⓑ社自身が都銀の第一勧業銀行(現・みずほ銀行)の実質的な子会社でもあった。そのとき彼が言ったのは「証券会社なんかよりQUICKなんかに行ってみたらどうだ?」だった。「QUICK」は日本経済新聞社系列の金融情報サービス会社であり、今思えばかなり的確な助言だったように思われる。
確かに、「QUICK」も中途採用でシステムエンジニアを募集していたし、1991年に入って「東京金融先物取引所(現・東京金融取引所)」(TIFFE=Tokyo International Financial Futures Exchange)の募集広告も日経新聞に掲載された。設備投資意欲のある企業はまだまだ多く、バブル・エコノミーが崩壊するなどと察知していた企業は少なかったように思われる。
C社経由でN銀行から連絡が入ったのは1991年1月下旬だった。当時のN銀行には京大のOBが4名いた。そのうち幹部は3名、お一方が専務取締役、お一方が取締役本店営業部長、そしてもう一方が事業開発部長だった。
さらにもう一名、私と同年代のYという行員がいた。当時Yは主任として、東京の市場証券部に所属していた。九大・理学部物理学科卒で卒業後は海外青年協力隊で一年間海外ボランティア活動を経験した後、京大・法学部に学士入学して卒業後N銀行に入行していた。
海外ボランティア活動では、アフリカのある国で子供たちに理科を教えたらしい。ちょっと変わったキャリアを持った男だった。
最初に私を面談したのは人事部のK氏という代理だった。なお役職「代理」は支店長代理(部次長代理)のことで、当時の安田火災で言えば「副長」~「課長代理」に相当した。
K氏は慶応・法学部卒で1978年の入行、当時の大卒の就職戦線は第二次オイルショックの影響でかなり厳しかったらしい。「実は第一志望はTOTOだったんですが …」など自分のことも話してくれた。
近いうちに証券業務部長との面談を予定していることを告げられ、またN銀行の投資顧問子会社への出向も有りうる旨告げられた。また、私が内定をもらったⒷ社からの転職者を、N銀行が前年(1990年)受け入れていることも知らされた。
1991年2月に入り証券業務部のS部長との面談を受けた。損害保険会社の勤務経験はあるものの、情報システムの他はあまり知らないこと、学生時代もさほど勉強はしなかったことなどを正直に話した。
証券業務部長からは、証券業務部が自由金利商品の管理や短期金融市場・オープン市場での資金調達・運用を行う「資金部門」、東京の市場証券部で行われる投資勘定・商品勘定の有価証券投資のバックオフィスである「証券事務部門」、そして市場証券部とともに銀行全体の有価証券投資の業務管理・企画を行う「証券業務部門」があることを知らされた。
そんなN銀行との面談が進む中、東京へ再び戻ろうという気持ちは次第に失せていった。一方で、短期金融市場、オープン市場、投資勘定、商品勘定など未知の分野のタームで頭の中が一杯になっていた。
銀行本体であろうが投資顧問子会社に出向となろうが「経済学部卒らしく、もう少し地元の銀行で頑張ってみようか?」という気持ちが少しずつ芽生え始めていた。
松任谷由実のアルバム「TEARS AND REASONS」に「冬の終り」という曲がある。高校時代の中途半端な恋愛を振り返る名曲である。随分後になって知った曲だが、この銀行入行直前の時期を思い出す時、何故か今も頭に浮かぶ。