福岡・博多慕情(その6)-転職活動と「青い鳥症候群」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

1990年の夏から秋にかけてプロジェクトのメンバーに東京・蒲田の富士通の研修センターでソフトウェアのセミナーを受講させ自らも受講した。通算で3回くらい上京した。

 

東京の頃、受講したIBM・秋葉原や日立・大崎のセミナーを思い出していた。福岡でも富士通のセミナーは開催されていたがパソコン・オフコンまでが中心で汎用機のものは少なかった。今と違ってオンラインのセミナーがあるわけでもなく「コストも掛かるしやっぱ地方は不利だ!」と痛感した。

 

 

少し時期は前後する。「いいとも会」のHYの結婚披露宴に出席するため札幌に行ったのが1990年の6月だった。札幌「すすきの」は、博多「中洲」に負けず劣らずの北の一大歓楽街を形成していた。

 

「すすきの」は学生時代の1980年、友人のSと北海道周遊のドライブ&キャンプの最後に訪れて以来10年ぶりだった。

 

HYの披露宴での挨拶で安田火災時代の「小錦事件」の話をした。なお「小錦事件」の詳細については以下の記事に記載している。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12710934815.html

 

 

1990年秋。プロジェクトの方はマシンルームの創設、新ホスト・マシンや周辺機器の設置もほぼ終わり、アプリケーション移行のフェーズに入っていた。「黒髪の魔女」との別れ以来、私の心には秋風が吹き始め糸の切れた凧のように「漂泊の想い」に駆られるようになっていた。

 

 

当時、バブル・エコノミーは絶頂期を過ぎてはいたものの、まだまだ情報システム関連(システムエンジニア)の求人は多く、日経新聞の他、様々な求人誌に募集が掲載されていた。

 

C社での担当業務に大きな不満は無かったが、N銀行との人間関係、社内の人材のレベル、また収入についても満足しているわけではなかった。

 

試しに2・3社に履歴書・業務経歴書を送ってみると直ぐに反応があった。一社はⒶ大手海運会社の情報システム関連会社、もう一社はⒷ銀行系・準大手証券の情報システム部門だった。いずれも東京で面接したいという。もちろん交通費・宿泊費は先方持ちだった。土・日でも構わないというので上京して話を聞くことにした。199012月のことだった。

 

 

Ⓐ社の面接は海運会社の本社で行われた。あの東京海上本社ビルのすぐ近くで同じ三菱グループの会社だった。面接の冒頭、ある「風刺画」を渡された。そこにはちょっと変わった表情やポーズをしたアメリカの前・大統領(レーガン)とソビエト連邦の大統領(ゴルバチョフ)が描かれていた。

 

設問は「この風刺画について思うことを英語で書きなさい」というものだった。英語だけでなく国際情勢を理解していなければ答えられなかった。正直お手上げだった。情けない話である。この英文をもとに面接が進められるものと思った。

 

「恐らくダメだな ……!」と思ったが、面接は意外な方向に展開した。この設問はこの海運会社の応募者全員に形式的に課されたものであり、英語力の無さは露呈したが、実際の面接は情報システムに関連した内容だった。

 

その面接中、Ⓐ社の採用担当の取締役(親会社出身)は私のキャリアを高く評価してくれた。Ⓐ社は当時物流関連システムを構築中であり、その業務に私のキャリアがマッチしたらしい。「年収は相談に乗るよ!」と言ってくれた。

 

 

その翌週、再び上京しⒷ社の面接を受けた。場所はⒷ社のコンピュータ・センターだった。はっきりしないが渋谷の近くだったような ……。こちらの面接は情報システム関連の具体的な質問が中心だった。入社後、証券外務員など基礎的な資格の取得は必要だが、その日のうちに最終面接まで進み内定した。その後、丸の内のⒷ社の本社に行き内定通知をもらい交通費・宿泊費が支払われた。

 

Ⓑ社が提示した年収は安田火災勤務時よりも高かった。但し、ボーナスは会社の業績により変動が有り得るという条件が付加された。ただ、面接の中で感じたのは、証券業界は株価が復活すると予想していたことだった。

 

福岡に戻ってからもⒶ社の誘いは続いた。それを保留したまま、1991年の年明けにⒷ社に入社しようと決めた。Ⓑ社人事部門の指示に従い健康診断を受けて結果を送った。この時点で、初めてC社の上司(統括部長・N銀行出身者)に退職したい旨報告した。

 

今度はC社が動き出した。数日後「N銀行に転籍しないか?」という案が提示された。但し、C社がプログラマーやSEを派遣しているシステム部というわけにはいかなかった。

 

その上司は、私が証券会社のシステム部への転職しようとしていることを知り「N銀行の証券業務部門はどうだ?」と提案してきた。その部門では、SQLというプログラミング言語を使ったエンドユーザ・コンピューティング(EUC)が盛んに行われているらしい。

 

またまた、私の心が揺れ始めた。

 

 

この頃、飲み会の二次会で南新地のスナック「ワタナベ」に行くと、そこにいた二人の女の子がよく歌っていたのがWinkの「淋しい熱帯魚」だった。

 

♪♪~      Heart on wave Heart on wave

               泳ぎだすけど

               あなたの理想(ゆめ)には 追いつけなくて     ~♪♪

 

 

 

その頃の私は、いわゆる「青い鳥症候群Blue Bird Syndrome)」という病を患っていたようだった。