英語の散歩道(その2)-「死者の書」と年賀状 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

先日、書店で結構ゆっくり現在の受験参考書を眺める機会があった。さすがに50年近くが経ち我々が使ったものは皆無だった。シケタン、シケジュク、赤標、青標も無く、総解英文法も英文構成法も無かった。他の科目もほぼ同じである。

 

確かに、我々が使用していたものの著者の殆どがあちらの世界に逝かれており、所謂「死者の書」となっていた。まあ、受験参考書に限らず、本を買えば著者の殆どは年下、また病院に行けば医師の殆ども年下である。歳をとったものである。

 

 

また、歳のせいか、前回の記事に記憶違いがあった。英検の受験時期だ。先日、不用品を整理していて昔の英検の合格証書が出てきた。これを見ると、英検4級の受験は197310月、中学3年の時だった。従って、英語に早熟であったわけでは全く無く、公立中学で英語ができる生徒、程度のレベルだった。

 

不思議なのは「自叙伝(その2)-遅刻撲滅運動と全体リレー」に書いたように、あの運動会の直後によく英検を受験できたものだと思うが、やはり若い頃はエネルギーがふんだんにあったということであろう。

 

 

話は中学1年時に遡る。その年、マンモス中学が2つに分割されることが決まり、中学2年時から、篠崎中が篠崎中(篠中)と南小倉中(南中)に分割された。

 

中学1年時、新しい友人がたくさんできたが、その殆どが篠中組だったので少し寂しかった。また、仲良くなった女子も何人かいたが、ちょうど子供から大人へと成長してゆく時期であり、だんだんと話しにくくなっていった。

 

当時、英語ができる生徒は女子が多かった。街中にアルファベット表記のものが増えていた時代であり、英語を知っていた方が何となくお洒落だったのもその理由かも知れない。中学1年時に女子からもらった年賀状の殆ど全てに “A Happy New Year!” と記載されていた。

 

「あけましておめでとうございます」と書いた和式の私は、少し取り残された気持ちになったが、これが “I wish you a happy New Year!” を省略した形だと知っていた生徒は居なかっただろう。もちろん私も知らなかったが「中学になると年賀状も変わるんやっ!」と感じた。

 

中学1年時の担任のS先生は残念ながら篠中に残り、中学2年から新しくN先生という方が我々の英語を担当されることになった。このN先生、ユーモアも解される実に人間的な方で英語だけでなく色々な面でご指導を受けた。結局、中学卒業まで英語はN先生のお世話になった。

 

中学2年時、クラスに悪友が多く、またクラスのある生徒に対するイジメがあったりして、英語以外はあまり勉強した記憶がない。担任の先生も気難しい方でクラスの雰囲気も良くなかった。余談ではあるが、この担任の先生、我々が卒業して暫く経ってから自ら命を絶ったと聞いた。

 

その頃、周囲では近所の学習塾で英語・数学を習っている生徒もいたが、私は塾に通う気など当時は全く無く、また自分の成績についても無頓着だった……。それにもかかわらず、自分は地元の県下屈指の進学校、小倉高校に進むものだと高を括っていた。この辺は「自叙伝(その1)-暗黒の中学3年」に書いた通りである。

 

 

あまり良い思い出がない中学2年が終わり、あの体罰教師の中学3年へと時代は流れていった。