今は人生のハーフタイムだと思っている。

前半戦いろいろあったな。。

 

点を取ったり取られたり。

うまくいったこともあれば、盛大にやらかしたこともあった。

なんといっても前半最大のハイライトは息子が生まれたこと。

文句なしのスーパーゴール。レインボー。

前半ベストどころか、生涯ベストゴール候補だ。

これで前半戦は勝って折り返せると思っていた。

 

ところが前半ロスタイム。

まさかの逆転ゴールを決められた。

離婚である。

しかも今になって振り返ってみると、どうやらあれはオウンゴールだったんじゃないかという気もしている。

 

なかなか痛い。

いや、かなり。

 

ただ、幸いなことに試合はまだ終わっていない。
まだハーフタイムだ。

前半の失点シーンを何度も思い返して、
「あそこ守れたよな」とか、
「なんでそこでそのプレーしたんだよ」とか、
一人反省会を実施する。

 

判定が覆るわけではないし、終わった試合展開を変えられるわけでもない。

ただ、何が起きていたのかは、少しずつ見えるようになってきた。(気がする)

さて、後半戦だ。

まだ時間はたっぷりある。

 

思い返すと、いまだによくわからない出来事がある。

離婚を切り出される、一か月くらい前だったと思う。

朝、仕事に行く前に「行ってきます」と言いながら、かわいくて仕方がなかった息子にベタベタしていた。

すると彼女が、

「私には?」と言った。

少し意外に思いながら、息子にするよりはライトな感じで彼女にもベタベタして、そのまま仕事に出た。

当時の僕は、

「なんだ、嫉妬か。かわいいところあるじゃん」

くらいに思っていた。

 

でも、今考えると、たぶん違う。

 

その一か月後には離婚を切り出されている。
正確なところはわからないけれど、その頃にはもう、彼女の中で僕はかなり戦力外通告に近い状態だったはずだ。

だとすると、あの「私には?」は何だったんだろう。

息子に愛情を注いでいることへの嫉妬ではなく、

「あなたは私のことだけは好きだったのに、それすらなくなったの?」

そんな気持ちだったのかもしれない。

自分はもう相手から離れようとしている。
でも、相手からはまだ愛されていたい。

そんな矛盾した感情だったのかもしれない。

 

あるいは、もう少し違う可能性もある。

あの頃すでに離婚を考えていた彼女は、僕の気持ちを確認していたのかもしれない。

この人は、まだ私のことを好きなんだろうか。

「私には?」と言ってみて、僕がどう反応するのかを見る。

もしかしたら彼女自身も、離婚を踏みとどまれる何かを探していたのかもしれない。

いや、これはさすがに都合よく考えすぎか。

 

結局、あの「私には?」が何だったのかは、今でもわからない。

 

離婚してから、こういうことをよく考える。

結末を知った今、過去の出来事をひとつひとつ拾い直しては、点と点をつなげようとしている。

「あの言葉は、こういう意味だったのかもしれない」
「あのとき、すでにこう思っていたのかもしれない」

 

そうやって、自分が納得できる物語にしているだけなのかもしれない。

本当のところなんて、もうわからない。

彼女に聞いたところで、本人だって覚えていないかもしれないし、その瞬間の自分の気持ちを正確に説明できるとも思えない。

それでも、理由のわからない出来事に自分なりの意味をつけて、過去を少しずつ整理している。

それもきっと、前に進むために必要な作業なのだと思う。

 

だから今日も、ずいぶん昔の朝の「私には?」について、ひとりであれこれ考えている。

ちなみに当時の僕は、そんなこととは露知らず、

「嫉妬かー。かわいいな」

と、のんきに出勤した。

 

彼女の「とんでもエピソード」を、ふと思い出すことがある。

たとえば、婚姻届の証人欄に、僕の男友達にサインをしてもらった時の話。

 

その日は彼女と僕とその友達の三人で食事をした。彼女と友達は初対面だった。

友達から「かわいいね」なんて褒められて、彼女はずいぶん気分を良くしていた。

ただ、友達は続けてこう言った。

「うちの奥さんなんて全然だよ」

自分の奥さんを下げて、彼女を褒めた。

褒めてくれるのは嬉しいが、少し引っかかる。

 

彼女にも、
「いやいや、奥さんそんなふうに言っちゃダメでしょ」
くらい突っ込む人でいてほしかった。

でも彼女はもっとシンプルだった。

自分を褒めてくれた。
嬉しい。めっちゃ素敵。

少なくとも、あのときの僕にはそう見えた。

 

その帰り道。

彼女は僕を困惑させる一言を放った。

 

「あなたより先に彼と出会ってたら、私、彼と付き合ってたのかな」

「????????」

 

一瞬、思考が停止した。

何か深い意味があるのだろうか。

出会う順番で人生は変わる、みたいな哲学的な話をしているのだろうか。

 

いや、たぶん違う。

彼女は思ったことを、ただ口にしただけだ。

 

てか、ついさっきその男友達に婚姻届の証人欄を書いてもらったばかりである。

婚姻届にサインをもらった帰り道に、婚約者から聞くセリフとしては、ピュアにもほどがある。ピュアは美徳だと思っていたが、20代後半ともなると、ときどき凶器になる。

当時の僕は、
「この人、本当に俺のこと好きなのかな」と思った。

でも結局、
「まあ、彼女ってこういう人だよな」で飲み込んだ。

 

離婚してからいろいろな出来事を思い返すと、当時は理解できなかったことが、少しずつ一本の線につながっていく。

あの婚姻届の帰り道も、そのひとつだった。

彼女はとてもストレートな人だった。

思ったことをそのまま言い、その瞬間の気持ちに正直に生きる。そして、過ぎたものへの執着があまりない。

「今を生きる人」と言えば聞こえはいい。
「今しか見ない人」と言えば、少し怖くもなる。

僕はそんな彼女の潔さに惹かれたし、その危うさにもどこかで気づいていた。

でも、「そういうところも彼女らしい」と目をつぶってきた。

 

だから今、ひとつだけどうしても拭えない心配がある。

今、彼女にとって息子は間違いなくトップ・オブ・トップだと思う。

でも、いつか彼女に別の大切な人ができたとき、その「今」が変わってしまわないだろうか。

もちろん、これは僕の心配でしかない。
未来のことなんて誰にもわからない。

 

ただ、彼女の「今」に対する真っすぐさを知っているからこそ、そんな怖さが残っている。

 

素直で、ストレートで、今の気持ちに正直で、過去をスパスパ切っていける。

僕はその潔さに惹かれた。

そして、その潔さについていけなくなった。

 

結局僕は、

彼女とのギャップに惹かれて、彼女とのギャップに敗れたってことなのかもしれない。

 

今思い返せば、彼女の「ちょっと変わっているな」と思っていたところが、いろいろと浮かんでくる。

結婚していた頃は、そういうズレも含めて愛おしかった。

彼女は、人の気持ちを推し量るのがあまり得意ではない。
その代わり、物事をかなりストレートに捉える。

良くも悪くも、目の前に見えているもので人を判断するところがあった。
「優しいことを言う人=優しい人」「感じよく接してくれる人=いい人」というような、かなり印象論に近い人の見方をする。
その人がなぜそう言ったのか、その裏にどんな感情があるのか、みたいなところまではあまり考えない。
だから逆に、ストレートで分かりやすい人や表現を好んだ。

 

彼女には、昔から付き合いのある友達がほとんどいなかった。
少なくとも、僕たちの結婚を祝ってくれるような、長い付き合いの友人はいなかった。

なんとなく、人間関係を器用に築いたり、長く続けたりするのが得意な人ではないんだろうな、とは思っていた。

 

でも、それでいいと思っていた。

僕はそういう彼女を理解しているつもりだったし、僕がずっとそばにいれば、別に問題はないと思っていた。
むしろ、そんな不器用なところも愛おしかった。

だから、離婚してしばらく経ってから考えた。

なぜ僕は切られたんだろう。

僕なりの答えは、意外と単純だった。

彼女の中で、優先順位が変わったのだと思う。

もともと彼女は子どもが大好きで、ずっと子どもを欲しがっていた。
そして息子が生まれた。

その瞬間から、一番大切なものが変わった。

もちろん、それ自体は何もおかしなことではない。
親になれば、子どもを中心に物事を考えるのは当然だと思う。

ただ彼女の場合、その変化がとてもまっすぐだった。

 

息子にとって必要なもの。
息子のためになるもの。
自分が思い描く子育てを支えてくれるもの。

 

そこから外れたものは、彼女の中では優先順位が一気に下がる。

そして僕も、そこから外れた。

戦力外通告。

今の僕には、それくらい単純なことだったように思える。

 

「まあ、働いてるし」
「父親ではあるし」
「いろいろ不満はあるけど、とりあえず一緒にいるか」

みたいな打算や妥協が、多少なりとも入りそうなものだ。

彼女は、そういうところをすっ飛ばした。

良く言えば、自分が大切だと思うものに、とても忠実な人だった。

そして、その彼女のことを一番よく分かっていたのは、たぶん彼女の母親だった。

 

離婚が決まると、間髪入れずに彼女と息子を実家へ呼び戻した。

子どもを育てながら、二人だけで生活していくのは難しい。
母親には、それが最初から見えていたのかもしれない。

 

僕には、「一度くらい二人で暮らしてみなよ。そうすれば『僕がいないよりは、いた方がマシ』くらいには昇格するはず」という淡い期待もあった。
その期待は、実家への帰還によってあっさり潰えた。

 

息子が生まれた。

家族が三人になった。

だから僕の中では、離婚という選択肢はむしろ遠くなっていた。

彼女は逆だった。

世代の違いなのか、彼女自身の価値観なのかは分からない。
ただ、離婚というものに対するハードルが、僕が想像していたよりずっと低かった。

「そういう夫婦の形もあるよ」

「来てもらうばっかりじゃなくて、こっちからも年に一回は遊びに行くから」
そんな、離婚のハードルを少しだけ下げるための口約束まで、オマケについてきた。

 

そして、もう一つ。

息子を連れていくことも、最初から決まっていることのように話が進んでいった。

「息子を連れていきたい」と相談されたわけでもない。
「連れていくことになってごめん」と謝られたわけでもない。

気がつけば、彼女が息子を連れていくことを前提に、すべての話が進んでいた。

 

もちろん、親権をめぐって彼女と争いたいわけでもなかった。
息子を大人同士の争いに巻き込みたいわけでもない。

それでも、後になってふと思う。

なんで、彼女が連れていくことだけは、最初から決定事項だったんだろう。

 

結婚していた頃は愛おしかった彼女の「ズレ」。

離婚してから振り返ると、そのひとつひとつに妙に合点がいった。

 

人との関係を長く続けるのが得意ではない彼女を見ながら、それでも僕だけは特別枠にいるつもりだった。今思えば、それが僕の一番の誤算であり、驕りだったのかもしれない。

離婚した後、あれやこれやとぐちゃぐちゃ悩んでいた頃、ふと思ったことがある。

 

この世は全部フィクションなんじゃないか。

 

夫婦だって、考えてみれば不思議。

紙とペンで契約を交わせば夫婦になり、また紙とペンで手続きをすれば夫婦ではなくなる。

 

知り合いだった人が友達になり、
友達だった人が恋人になり、
恋人だった人が妻になり、
妻だった人が元妻になる。

でも、ずっと同じ人だ。

変わったのは、その人そのものではなく、僕との間につけられた「名前」。

考えてみれば、僕たちは毎日いろんな役を演じている。

友達の前では友達を演じ、
恋人の前では彼氏を演じ、
結婚すれば夫を演じ、
子供が生まれれば父を演じる。

会社では会社員としての自分を演じ、親の前では息子を演じ、、、

「夫婦ならこうするもの」
「父親ならこうするもの」
「家族ならこうあるべき」

そんなルールや型も、突き詰めれば人間が作ったものだ。

だから意味がないと言いたいわけではない。

むしろ逆だ。

他人同士が一緒に生きていくために、人間は名前をつけ、ルールを作り、役割を作ってきた。

「夫婦」というフィクションを二人で信じるから、そこに安心が生まれる。

「家族」というフィクションを信じるから、帰る場所ができる。

フィクション=偽物ではない。

みんなでそれを本物だと信じているから、本物になる。

 

元妻から別れを切り出されたとき、こんなことを言われた。

「今の時代、いろんな形の親がいるよ。あなたがこの子の父親であることは変わらないから」

そんな簡単に言うなよ、と思った。

そもそも「息子の親権は私が持つ」という前提で話が進んでいること自体、今思い出しても腹が立つ。息子と離れて暮らすことになった寂しさだって、「いろんな形があるよ」の一言で片づけられるようなものではない。

今でも、息子のことを考えると吐きそうなくらい寂しくなることがある。

 

ただ、こうなってしまった今、あのとき彼女が言った「いろんな形の親がいる」という言葉を、少し違う意味で受け取れるようにもなった。

奇しくも、それは僕が考えていた「この世はフィクション」という話とよく似ている。

結婚して一緒に暮らしている父親だけが、父親ではない。

離婚して別々に暮らしているからといって、父親ではなくなるわけでもない。

「家族」という形が変わっただけだ。

夫という役は終わった。

でも、父という役は終わっていない。

いや、「役」という言い方すら違うのか。

どんな名前をつけられようが、どんな形になろうが、僕は僕だし、息子は息子だ。

それだけは、紙切れ一枚では変わらない。

 

この世はたぶん、フィクションだらけだ。

夫、妻、父、母、恋人、友達、上司、部下。

みんな、そのときそのときに与えられた役を、それなりに一生懸命演じている。

存在しないはずのものに名前をつけて、約束をして、ときには傷ついたり、泣いたりしながら、それでも誰かとの関係を本物にしようとしている。

そう考えると人間って、

ずいぶん面倒くさくて、

ずいぶん不器用で、

でも、そういうのが案外尊いのかもしれないと思いました。