離婚した後、あれやこれやとぐちゃぐちゃ悩んでいた頃、ふと思ったことがある。

 

この世は全部フィクションなんじゃないか。

 

夫婦だって、考えてみれば不思議。

紙とペンで契約を交わせば夫婦になり、また紙とペンで手続きをすれば夫婦ではなくなる。

 

知り合いだった人が友達になり、
友達だった人が恋人になり、
恋人だった人が妻になり、
妻だった人が元妻になる。

でも、ずっと同じ人だ。

変わったのは、その人そのものではなく、僕との間につけられた「名前」。

考えてみれば、僕たちは毎日いろんな役を演じている。

友達の前では友達を演じ、
恋人の前では彼氏を演じ、
結婚すれば夫を演じ、
子供が生まれれば父を演じる。

会社では会社員としての自分を演じ、親の前では息子を演じ、、、

「夫婦ならこうするもの」
「父親ならこうするもの」
「家族ならこうあるべき」

そんなルールや型も、突き詰めれば人間が作ったものだ。

だから意味がないと言いたいわけではない。

むしろ逆だ。

他人同士が一緒に生きていくために、人間は名前をつけ、ルールを作り、役割を作ってきた。

「夫婦」というフィクションを二人で信じるから、そこに安心が生まれる。

「家族」というフィクションを信じるから、帰る場所ができる。

フィクション=偽物ではない。

みんなでそれを本物だと信じているから、本物になる。

 

元妻から別れを切り出されたとき、こんなことを言われた。

「今の時代、いろんな形の親がいるよ。あなたがこの子の父親であることは変わらないから」

そんな簡単に言うなよ、と思った。

そもそも「息子の親権は私が持つ」という前提で話が進んでいること自体、今思い出しても腹が立つ。息子と離れて暮らすことになった寂しさだって、「いろんな形があるよ」の一言で片づけられるようなものではない。

今でも、息子のことを考えると吐きそうなくらい寂しくなることがある。

 

ただ、こうなってしまった今、あのとき彼女が言った「いろんな形の親がいる」という言葉を、少し違う意味で受け取れるようにもなった。

奇しくも、それは僕が考えていた「この世はフィクション」という話とよく似ている。

結婚して一緒に暮らしている父親だけが、父親ではない。

離婚して別々に暮らしているからといって、父親ではなくなるわけでもない。

「家族」という形が変わっただけだ。

夫という役は終わった。

でも、父という役は終わっていない。

いや、「役」という言い方すら違うのか。

どんな名前をつけられようが、どんな形になろうが、僕は僕だし、息子は息子だ。

それだけは、紙切れ一枚では変わらない。

 

この世はたぶん、フィクションだらけだ。

夫、妻、父、母、恋人、友達、上司、部下。

みんな、そのときそのときに与えられた役を、それなりに一生懸命演じている。

存在しないはずのものに名前をつけて、約束をして、ときには傷ついたり、泣いたりしながら、それでも誰かとの関係を本物にしようとしている。

そう考えると人間って、

ずいぶん面倒くさくて、

ずいぶん不器用で、

でも、そういうのが案外尊いのかもしれないと思いました。