他者との関わりを軽く流してしまうのか、それとも依存的な関係を築くのか。こうした選択は、家族の歴史や先祖代々のつながりにも関係してくるのかもしれません。深く考えるようになった一方で、人生の最期における「表現」というものにも思いを巡らせるようになりました。

言葉による発信力は高まり、選択肢も増えた今の時代。私たちはアルゴリズムによる制約を受けながらも、その中でどのように自分自身の考えを表現していくかを模索しています。現実の世界では、まだ昭和世代が主導権を握っているものの、私の感覚では「本音を語ること」が許される場面が増えてきたように感じます。与えられた立場や環境を通じて、その仕組みを改めて見つめ直す機会が増えました。

社会の構造を問い直しながら、「これは本当に必要なものなのか?」と問いかけられる人が、次世代の役割を担っていくのかもしれません。形式的な表現によって物事が成立しているが、それは単に都合の良い形に過ぎないのではないか――そんな疑問も生まれます。こうした疑問を俯瞰するのも、また学びのひとつなのでしょう。

今の時代にはそぐわない慣習が残っている中で、未来を見据えた選択のタイミングは誰が決めるのか。その決定方法が「くじ引きレベル」で行われているとしたら、それはもはや合理的な判断とは言えず、集団的無意識によるものだと気づかされます。

 

日曜日の朝、ふとそんなことを考えました。

 

 

年齢を重ねるにつれて、思考の変化が生じるのは自然なことです。その背景には様々な要因があり、それが人との関わり方に影響を与えることもあります。(BY   AI)

 あれ~なんで「蜂」に遭遇する事、1日で2回。季節的にまだ先だと思ったのに。

 

 冒険と称しての実家訪問の道のりは、片道250円(バス)+680円(汽車)+徒歩20分

 

 という距離感で孤独死を恐れるあまり、固定電話+携帯電話がつながらないとなると、

 

 不安で仕方ないが、このご時世高齢の方はきちんと策をとっているのも事実で、

 

 する番電話だと積極的に吹き込むスタンスも、反応(折り返し)がなければ、

 

 何かあったんじゃないか?!と、ぁ・・・また前置き。(前説だな)

 

  バス乗車中で、気づかなかったが「蜂」を発見。私が座っている窓周りをウロチョロ。

 

 あーーーーーーーーーーーヤバイナと、席移動。

 

 降りるところまで、ジ――――っと観察姿勢。外に出たいのね~でもその窓はあかないのよね~

 

 と思いつつ、どうぞおとなしくしていてください。移動したならば乗客はパニックになってしまいます。

 

 心の中で祈りながら、結局はそこで鎮座していた「蜂」

 

 そして、汽車に乗り、道中の窓から眺める景色は、田舎なのに車で山菜取りをしているのであろう

 

 けれど、突っ込み多ぃ場面が見受けられ、事故や事件に繋がらないからまだいいのか・・。

 

 と、結局実家についたら主はおらず、すぐに戻る時間もタイミングが良かった。

 

 自宅について、ちょっと回覧板を回すお隣に言っている隙にきた「蜂」

 

 ブーーーンと音が聞こえ、どこだ?!と思い目視したところ、バスの中で見た蜂と同じだった。

 

 すぐに追い出したが、2回も蜂に巡り合うなんて・・。

 

 

 「好きベース」に相反して「嫌いじゃない」という言葉を発しながらも、維持してきた

 

 生活力は、昭和の時代からの払拭という、平成時代の子どもたちへの願いは、

 

 「自己肯定感」とか「承認欲求」を受け止める「親」の立場と「個人」の立場は違うなと

 

 感じるという、感覚ベースの視点は根本的なところからの「そもそも論」が勃発し、

 

 机上の空論の世界観の中に、運よく携わった者からして、あ~~経験と実践と言葉の

 

 操り方は、時代と共に価値観としての変化をどう受け止め、継承とするならば変化は

 

 否めないところを、スルーする方と自分の課題じゃないとスライドさせる方と、それを

 

 受け止める側は・・・という世代になった自分は、退く選択もあるのだよな~と

 

 集団的圧力からの解放は、静かだった・・。からこその後世の行くヘヲ見守る時間と

 

 共有できる部分は、有難いんだけれど、言語統制の部分で、日本語が・・・・・・。

 ちょっと上の方から申すものとして「質の低下」が揶揄として表現されていることに対しての

 

 違和感は否めない。ずっとそうなんだよな~~。そう、きっと私たち世代の前後が発している

 

 「質」の部分は、人口比率にたいしての考察不足というか、プロとかアマチュア部分での

 

 論争なのかな?という位、今では個人主義になり、集団的秩序崩壊もあり、結局は

 

 奴隷なのか支配なのかの開示が浮いてくるのはいいのだけれど、浅いのか深いのか・・という

 

 深い専門家は不快であり、浅い振りを舞う愉快という2極は、選択肢が多い分・・

 

 迷うよな~というところに共感する、自分事に置き換えた時に、年齢は重ねても幼稚という

 

 こども心は、忘れていない。