あなたのココロ、治します。 -61ページ目

連載短編小説『それでも人生に』 ④

私は大学受験に失敗し、二流の大学に行くことになった。兄は一流大学に進学していたが頭のレベルは同じくらいだったし、高校は私の方が良い所に入った。兄と同じ文科系に進んでいれば私も一流大学に入れたと今でも思っている。数学ができたことと車が好きだったこと、父親と兄への反発心とで理科系に進んでしまったことが失敗だった。それがなければあんなに大きなことを何年も引きずることはなかったのだ。

私は受験失敗の現実を受け入れることができなかった。無意味に高いプライドが邪魔をして学校にはほとんど行かなかった。当然留年が決定した。その直後に運転免許停止の通知が実家に行った。

「どういうことか説明しろ!」と言う父親からの電話がアパートに入った。父親に怒鳴られることが死ぬほど怖かった。ついに神は自分を見放したと思った。「死ぬしかない」それは自分の判断ではなく、お前は自然淘汰されるべき人間なのだという神からの死刑宣告のように思われた。

私は自殺をする場所として代々木公園を選んだ。アパートの部屋で死ねば管理人や他の住人に迷惑が掛かるし、青木ヶ原樹海などといった定番の場所では遺体の捜索に何百万円も掛かり、家族に迷惑が掛かると考えた。誰にも迷惑がかからない所、そして死後何年も遺体を発見されないのではやはり寂しいので、比較的遺体が発見されやすい所、そう考えて頭に浮かんだのは代々木公園だった。今考えてみると生きることに対する甘えがあることが分かる。自分が死にたいと思っていることを誰かに知ってもらいたい、辛かったんだねって慰めてもらいたかったのだ。

四月の始めで、公園では人々が芝生にレジャーシートを敷いて花見やコンパを楽しんでいた。誰もが幸福そうだった。この世で不幸な人間は自分だけの様に思えた。私はそんな中をすり抜けるようにして死に場所を探した。人目につきにくい場所は意外になかった。そこで人気の少ない芝生に陣取ることにした。持ってきたのは精神科の外来通院でもらって飲み切れなかった睡眠薬を含む向精神薬二百錠と、それらを飲み干すための安いウイスキーだけだった。

ウイスキーは嫌いだったが薬を十錠くらいずつ流し込み始めた。ひどく気分が悪かったがなんとか二百錠の薬を飲み終えた。そして芝生に横になった。このまま意識が無くなって遺体になることを望んだが、眠りにつけなかった。芝生には虫がいて体のあちこちが痒かったし、四月に入ったばかりの夕方ということもあって辺りは寒くなってきていた。意識が遠退いていく中、やはりアパートの暖かい蒲団で気持ちよく眠りたいと思った。

死のうとしている人間が快適性を求めるなんて今考えればおかしな話だが、私は起き上がって原宿駅の方向に歩き出した。下半身の感覚がすでに無く、地面を踏んでいる感触が無かった。しかしなんとか歩いて駅で切符を買い、総武線に乗った。意識と無意識の境界線の辺りで電車を下り、アパートまで歩いた。アパートに着いても蒲団を敷くほどの余力はなく、畳に横になった。ひどく気分が悪かった。どのくらいの時間ああ、とか、うう、とかいったうめき声をあげていただろうか。やがて意識は失われた。後で聞いた話によると声を聞きつけたアパートの住人が救急車を呼んだらしい。気が付いたら病院のベッドの上にいた。

今日の右京情報

いつも通りです。
なんにも変わりません。
今日もいい子でした。
僕が寡黙なだけに母のいい話相手になっています。
夕飯の時、食べ物がテーブルに並ぶと
右京は臭いをかいだり舐めようとしたりします。
そんなとき母は
「うきょちゃんいい子でしょ。いい子はどこに座るの」
といって椅子に座らせようとします。
褒めればいうことを聞くと思っているのですね。
いやはや。

自由って素晴らしい

こんばんみだコンチクショー。
(調子は上々らしい)

今日のニュース。
イチロー3安打、新記録は259安打まで
 米大リーグ、マリナーズのイチロー外野手は1日、シアトルでのレンジャーズ戦に「1番・右翼」で先発出場。六回の第4打席でこの日3本目の安打となる遊撃内野安打を放ち、ジョージ・シスラー(ブラウンズ)の年間最多安打記録(1920年、257本)を2本上回る259本となった。(読売新聞)

この人2本も越えちゃってますよ。で、まだ試合はあるんでしょ? 当分破られませんね。メジャーに記録を残すなんてすごいなあ。僕らもこの世に生きた証を何らかの形で残したいものですね。

今日の自分。
5時くらいに起きました。やっぱり眠剤飲んで0時くらいに寝るという生活はいいですね。健康的。午前中は漢検の復習をしました。全体の18%終了。午後はシエスタ。起きてからはいくつか作業をしました。

まず群像新人賞の原稿を印刷。郵便局で出す。僕はいっつもお金をケチって冊子小包扱いで送っています。290円。やす! 苦労して書いた作品なのだから簡易書留とかで送った方がいいのでしょうか。どうせかすりもしないし、なんてひねていますが。

群像と文學界はどうしても出したい新人賞ですね。今のところ文學界用の作品は書いていません。12月31日締切。でも今は書きたくない。今日出した作品も読み返していません。自己嫌悪に陥るから。今は文学モードではないのです。漢検モード。
作業その2。小説の通信講座に完成原稿を送りました。こちらも読み返していません。早くけりをつけたくて。

作業その3。依頼原稿を書く。テーマは「失って気づいたこと」。800字。みじか! どうせ多くの人は恋人を失ってその存在の大きさに気づいた、とか書くのだろうから僕はちょっとひねってみました。

病気によって普通の人のような社会生活を送れなくなった。これが失ったこと。でもそれによって大事な宝物を得た。それは「自由」! 人生が楽しくなった、しあわせだ、と書きました。これは採用されるでしょう。珍しいもん。

そんなことをしているうちに右京散歩。夕飯は豚汁。さっさと食器を洗って今に至りあん。まだ19時半です。
今後の予定はブログ書きと漢検ですね。それが楽しいし。気分転換用にフレンズも借りてきてあるし。

人生は上々だ。やっぱり徹夜がいけない。それによってプチナルコになる。思考もネガティブになる。日記には書きませんでしたけどプチナルコ中は頭の中で「じ・さ・つ」なんていう言葉が浮かんで来るんです。死にたい訳じゃないしもちろん実行もしませんけど、やはりあまり気持ちのいいものではないです。

今日も0時に寝るぞう。そんなところですか。明日の予定も同じです。
それでは、S・A・T・U・R・D・A・Y NIGHT! ベイシティーローラーズですね。エンジョイください。

今日のお言葉
頭の中ふらわーです。
(まったり)

連載短編小説『それでも人生に』 ③

私の父親は異常なくらいに厳格だった。父親が仕事から帰ってくると

「ちょっと来い!」と凄い怒鳴り声が玄関で爆発した。何事かと思って飛んで行くと

「何だこの靴の脱ぎ方は!」と血相を変えて怒鳴った。それは静かに指摘されれば分かることだった。兄が買ってきた服を気に入らないと言って鋏でズタズタに切り裂いて捨てたこともあった。毎日のように怒鳴られていたので数え上げれば切りがない。父親が怒鳴るのは躾の為ではなかった。気分で周りに当り散らしていた。先天的な精神障害なのか仕事のストレスによるものなのか分からなかった。怒鳴る理由に一貫性が無く、どう行動すれば怒鳴られないのか全く分からなかった。その為、私は幼少からびくびくしながら育ってきた。

幼稚園の時に父親にひどく怒られ、恐ろしさのあまり死のうと思い蒲団を頭から被って窒息死しようと息を一生懸命止めたことがあった。手法は幼稚だが幼稚園児にして初めての自殺未遂だった。

また、私と兄は中学生の時まで父親にバリカンで頭を刈られていた。私は嫌で仕方がなかったが、怒鳴られるのが恐くて従うしかなかった。月に一回程度刈られていたが、ある時ひどく格好の悪い髪型にされたことがあった。外見を気にし始める中学生にとっては絶望的な髪型で、鏡を見た私は打ちひしがれて畳に倒れ込んでしまった。それを見た父親は

「まさか気に入らないんじゃないだろうな」と今にも怒り出しそうな声色で言った。

「そんなことないよ」私は力なく答えた。

次の日、

「図書館に行って来る」と言って家を出た。鞄にはその時の気候には必要のないセーターを詰め込んでいた。奥多摩で野宿するつもりだった。図書館で当時付き合っていた玲子と待ち合わせることになっていたが、私はそこには現れず結局彼女は六時間待ち続けて諦めたという。

 私は新宿の家から奥多摩までひたすら青梅街道を走り続けた。普通のシティサイクルで七十キロは走った。途中、夕飯時に

「もう家には帰らないから」とだけ母親に言って電話を切った。奥多摩の山の中で野宿することにしたが、持って行ったセーターを着ても寝付けないほど寒かった。 

こんなことをしていても仕方がない、金を稼いで食って行かなくては、と思い立った。働き口があって家からは遠い所、横浜に行こうと決めた。ちょうど奥多摩の真南だろうと思い、南に向かってまだ暗いうちから走り始めた。途中にはどうしても越えなければならない峠があった。かなり疲れていたが、何かに取り憑かれたように先を急いだ。

横浜に着くと新聞配達員に

「この辺に住み込みで雇ってくれる所はないですか」と聞いた。教えられた新聞販売店に行き、自分を雇ってほしい旨を伝えると、店長は私を奥の部屋へ通して

「中学校は卒業していないとまずいんだ」と切り出し、家出の理由を聞いた。結局、店長の人柄と説得によって私は家に帰ることになった。店長は

「どうしても働きたかったら中学校を卒業してから来ればいいからさ」と見送ってくれた。

私は電車で家に帰った。父親が私を泣いて抱きしめたが、私はそれを受け入れまいと体を強張らせた。母親が粥を作って私に食べさせた。

学校は一日休んで次の日から出席した。床屋で髪型を直してもらっていたが、かなり短くなっていた。学校では合唱コンクールに備えて毎朝体育館で練習をしていた。私が体育館に入った時にはすでに全員ステージの上に整列していた。生徒には優しい不良、江上が

「何だそのイガグリ頭は!」と言って他の生徒を笑わせた。私は顔を赤くしながらステージに上った。それで周りの生徒に対する恐怖感が少し和らいだ気がした。江上とは一緒にバレーボール部で戦っていた仲間なので気心は知れていた。江上や他の部員は一年生の頃から入部していたが私は入部したサッカー部がつまらなかったので二年生から入部した。入部当日にレシーブの相手をしたのが江上で

「何だこいつ、めちゃくちゃ上手いぞ!」と驚きつつ喜んでくれたのだった。

 後日、父親と共に自転車を取りに行く為に車で横浜へ行った。車の上に付けたキャリアに自転車を固定した。道中、二人は終始無言だった。

ランクアップ

総合で321位、上位6%、ジャンル別で56位、1.7%
になりました。偏差値80くらいでしょうか。
とってもうれしいです。
これからもどんどん更新していきます。
書くネタには困りません。

ところでこのランキング、どうしてあがったのでしょうか。
読んでくださったかたがいたため?
その割に定期購読者がひとりも付きません。
ひとりでも付いてくれたらやる気倍増なんですけどねえ。
まあ、でもいまは自己表現が楽しいです。

しばらく突っ走ります(笑)。

やることいろいろ

こんばんみ!
まあまあ元気だ。

今日のニュース。
「ハリ・ポタ」売れ行き鈍化、大量在庫に書店戸惑う
 290万セットの初版史上最高部数を記録したJ・K・ローリング著「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」(静山社)の発売から1日で1か月。このシリーズ第5巻の出足に、期待したほどの勢いがないとの声が出始めた。大量に在庫が残ると他の書籍にも影響しかねず、書店や出版業界は気をもんでいる。(読売新聞)

ハリポタは3巻まで読んでいれば十分でしょう。4巻から2冊組、4千円ってどういうことよ。やりすぎ。日本人は飽きっぽいのです。もうハリポタブームは終わり。

今日の自分。
昨日0時ころに眠剤を飲んで寝ました。そうしたら朝5時にはスカっと目覚めました。精神状態もすこぶるよろしい。やっぱ徹夜しちゃダメですね。心身に悪い。少なくとも漢検が終わるまでは規則正しい生活をしようと決めました。

朝起きてすることはやはりPC。今ブログが面白いです。これはなんなのかというと、僕が使った感じでいえば「インタラクティブ日記」でしょうか。基本的には日記だと思います。それに対して他の人がコメントをつけたり、関連する記事をはりつけたりできるというものです。

まだ他にもいえることがあるかもしれませんが、とりあえず僕が使ってみて感じたことです。「Blog版ふらわー日記」というところから入ってみてください。多くの人に関心を持ってもらうために「メンタルクリニック」という言葉を使いました。定期購読者はまだいません。いると楽しいんだけどな。ランキングはアップしました。なぜか。

「まったり賢メンタルクリニック」にはこの日記と、短編小説と、右京情報とか、今まで書きためた雑文などを載せていこうと思っています。

今日から10月に入ったということで漢検の勉強はもう新しいことをやるのをやめました。今まで勉強してきて単語カードが22個できたのでそれを復習していくことにしました。まだ今日のノルマを果たせていないのですけど。

午前中に出かけました。パステル講座の受講料を支払ったり、DVDを返して続きを借りたり。フレンズ。3枚借りてきました。一週間持たないかなとも思ったのですが、他にもやることありますしね。

群像に作品を提出します。初めて250枚の長編を書きました。中編かな。とにかく無理やり300枚書きました。はじめは他の賞に出すつもりだったのですが、やはり群像は憧れです。後ろ50枚はすっぱり切って提出します。いい加減だなあ。

やることその2.小説講座に作品を提出します。
その3.ある出版社から原稿依頼が来ました。僕だけにではなく、たくさんの人の作品を集めたオムニバスを出したいらしいです。ひとり800字。みじか! 
その4.翻訳
その5.パステル
パステルは画材をたくさん散らかして使いますし、手が汚れるので漢検の勉強の気分転換にやるというわけにはいかないようです。そんなわけで気分転換ツールとしてフレンズを借りたわけです。パステルの第1回目の課題締切は11月20日なので漢検が終わってから1カ月近くあるわけです。でも提出課題は2枚。時間をかけてじっくりやりたいです。

翻訳はなかなか進みませんねえ。インチキしている割に。そんなわけでやりたいことはいろいろでてきました。

午後はシエスタ。あとはまたブログになにか書きました。ご自分のサイトをお持ちでないプックルさんやワイルドストロベリーさんなどはこのブログ、いいかもしれませんね。ソフト不要、タダ、2分でできる。など。

17時頃右京散歩。いつも通り。夕飯は寿司。今に至りあん。
そんなところでしょうか。今後の予定は漢検の復習。フレンズで気分転換。明日の予定も同じです。
それではエンジョイユアフライデーナイツ!

今日のお言葉
今年もあと3カ月ですねえ。
(まったり)

連載短編小説『それでも人生に』 ②

私に与えられたベッドはその病院の最上階の窓際で、気持ちが良かった。当分会社を公に休めることが余計に私を気持ち良くさせた。母親が毎日車で四十分掛けて洗濯物を取りに来たり、デザートをアイスボックスに入れて持って来たりしてくれた。学生時代から四年間付き合っている紀子は、日本一運賃の高い電車の定期まで買って、毎日見舞いに来てくれた。

病院生活は何もすることが無く、退屈で仕方がなかった。寝るか、まずい病院食を食べるか、テレビを見るか、それしかなかった。母親と紀子が毎日来てくれることが唯一の楽しみだった。

数日すると、母親がベッドに座りながら

「会社の人事から電話があってね、今月末で退職した方があんたの為になるんじゃないかって」と話した。当たり前と言えば当たり前の話だったが、私にとってはやはり動揺せざるを得ない知らせだった。退院したら何とかやり直せる気がしていたからである。その時は新卒の試用期間も終わりを迎える頃だった。私の育成を担当することになった部長は人柄が良く、その分は恵まれていた。入院直前に部長に精神状態が悪いことを話すと

「試用期間をもう一ヶ月延ばそうかねえ」と言ってくれていた。私は当然優遇措置を取ってくれるものだと思っていた。しかしわざわざ試用期間中の病人を正式雇用する奇特な会社は無いことも頭の何処かで分かっていた。現状を受け入れるしかなかった。
 ベッドから見える良く晴れた青い空が私にとっての小さな救いだった。少しずつ動揺が静まり、解雇は感情の伴わない、ただの記憶になっていった。

そのうち団欒室で中年連中が楽しそうに喋っていたり、一緒に食事をしているのが気になってきた。私もあの連中と仲間になりたいと思い始めた。

私と紀子、紀子の姉とその彼氏は、春競馬GⅠレース辺りから少しずつお金を使って競馬をゲーム感覚で楽しんでいた。入院したのは夏の始めのことで大きなレースは終わっていたが、私と紀子は暇つぶしのために「地方競馬でもやろうか」ということになった。私はベッドのある七階から出ることを禁止されていたので紀子にスポーツ新聞を買って来てもらい、二人で予想を立てた。そして紀子に後楽園まで勝馬投票券を買いに行ってもらった。

その週末は福島でレースがあり、私は福島の天気が気になって仕方がなかった。談話室の大きな窓から外を眺めた。ここでは霧雨が降っているからこの天気が東に流れて福島のコースも湿って重くなるだろう、そうするとレースは少し荒れる、あまり荒れ過ぎても外れてしまうし、天気が良過ぎても配当が低くつまらないレースになってしまう、少し荒れるくらいが良い、そんなことばかり考えていた。たまたま話し掛けて来た人と天気のことや競馬の話をしていると後ろから

「競馬新聞ならここにあるぞ」と私が気にしていた中年連中が話し掛けて来た。私は初対面の人間に話し掛けることが苦手だったので話し掛けられたことで堰を切ったように会話を始めた。

それから中年連中と一緒に食事を談話室で取ることになった。彼ら四人は病状も年齢も様々だったが実に仲が良かった。秋田は農家の人間だった。私と同じ病気を抱えていたが、そうとは思えないほど明るかった。独特の暖かい訛で

「困ったことがあったらいつでも電話しろよな」と言って一番初めに退院して行った。実際に川田という男が問題行動を起こして強制退院させられた時に電話で相談に乗ったり、秋田自らが川田の家に出向いて慰めたりするなど、言わばリーダー的な存在だった。井野は耳鼻科の手術を控えた建築事務所の会長だった。術後の回復を待たなければならなかったので退院は遅かったものの、電話で部下に仕事の指示をてきぱきと与えていた。井野も面倒見のいいオヤジで

「家が近いんだからさ、何でも連絡してよ」と携帯の番号を教えてくれたり、退院後も

「元気でやってる? 就職活動してるんでしょ?」などと電話を何度か掛けてきてくれた。福山は蓄膿の手術を終えたばかりの、大手情報機器メーカーのシニアコンサルタントだった。やはり耳鼻科の患者は元気で、メールで部下に指示を与え入院中もしっかり仕事をしていた。彼は

「いつでもメール頂戴よ」と言って携帯の番号とメールアドレスが書かれた名刺を渡して退院して行った。入院中に二回近況報告のメールを送り、これからを生きる上でのアドバイスをもらった。

中年連中と食事をしているとだんだん仲間が増えてきた。多い時で十名ほどの患者が毎日の三食を共にしていた。普通は自分のベッドで食べるものなので医者や看護婦は

「こんなことは病院が設立されて以来、初めてだ」と驚いていた。

新しい入院患者も続々と入って来た。「現代人は病んでいる」と病んでいる私が思うほどだった。多くの人間が煙草を吸いに喫煙室へ行っていた。私もどうしようもなく暇だったこともあり、会話の道具として煙草を吸うことにした。しかし煙草は高校生の時に、バイクレースのスポンサーをしていた「ラッキー」を吸ったことがあるだけだった。余り幸が多いとはいえない私の人生に二百四十円程度でラッキーが転がり込めば随分安い買い物だ、などとバカなことを考えていた。しかし「ラッキー」はきつ過ぎたので今度は何を吸ったら良いのか分からなかった。そこで病院内の売店で最も見た目の良いものを四種類買って来た。そうして喫煙室でしか話せない様なことを多くの人間と話し、交流を深めた。私はこの時煙草が持つ会話の道具としての威力を強く感じた。全くの他人でも名前も知らなくてもかなり突っ込んだ話ができた。

夏子は私と同い年で同じような病気を抱え、両手足をリストカットして入水自殺を企図した。入院して来た直後は話もできないくらいの精神的な傷を負っていた。喫煙室で煙草を吸っていると夏子とその母親が入ってきた。両手首に包帯を巻いて点滴を打っていたのでリストカットをしたことがすぐに分かった。私がいくら話し掛けても無反応か、僅かに頷くだけだった。心配そうに夏子の側に座っている母親に

「いやあ、実は私も自殺未遂で入院してるんですよ、首を吊って。でも元気になりましたよ。患者さんみんなで一緒にご飯を食べるんですよ、いろいろ話しながら。初めは黙って食べててもいいんです。顔を出すだけっていう感じで。病室で一人で食べるよりずっと元気になりますよ」と話を振ると

「もう、どうしたらいいのか分からないんです。よろしくお願いしますね」と泣きそうな顔をしながら無理して笑顔を作っていた。

 その後、夏子は元気になると

「自殺未遂は三回もやったのでもう飽きました」と冗談の様に言った。

麻実は二十代後半で家族と共にスーパーを経営していたが精神を患い入院した。投薬療法では回復が遅かったので電気ショック療法を受けていた。完全に病気を治して早く仕事に戻らないと家族に悪いという意識を強く持っていた。麻美と初めて話したのも喫煙室だった。

「お子さんとかいらっしゃるんですか?」と聞いたら

「まだ結婚もしてないわよ。失礼ねえ!」と怒られた。後に夏子と麻美が「男自動販売機」があったらねえ、と話していた。何人もの男の顔写真とプロフィールが自動販売機に並んでいて気に入った男のボタンを押すと男が買えるそうだ。暇な病院生活ではこういった下らない話でも充分面白い。

利雄は複数の病気を抱えている高校生だった。人懐っこく、誰からも可愛がられていた。好きな女が九州の大学に行ったらしく私の携帯でショートメールを送らせてやったりテレホンカードをやったりした。いつもの酔っぱらいのような喋り方で

「もお、ホントに感謝してますよお」と何回も言っていた。

川田は住宅の営業をしていた三十代前半のサラリーマンだったが私と同じ病を患い入院した。薬の副作用に悩まされて真直ぐに歩けず、精神面でもかなり苦しんでいた。病院生活が余りにも退屈だった為に、外出禁止であったにも関わらず川田は夏子と俊雄を連れて自分の車でカラオケに行ってしまった。病院側は三人が居ないことにすぐ気付き院内アナウンスをかけたが三人が帰ってきたのはそのずっと後だった。医局長に事情を聞かれて川田は逆上した。

「薬じゃ全然治らないじゃないか!」

「薬で九十七パーセントは治りますから」

「じゃあ俺は残りの三パーセントか!」川田は散々ナースステーション前で怒鳴り散らした揚句、

「こんな病院自分から出てってやるよ!」と捨て台詞を残して車で出ていってしまった。病院の玄関先で多くの医者と看護婦が川田の出ていく姿を見つめていた。彼らもどう対処していいのか分からない様だった。

美紀は半年だけ日本でアルバイトをし、もう半年をカナダでスノーボードをして過ごしていた。転倒して鎖骨を折り、プレートで固定する手術をするために入院して来た外科の患者だった。社交的で毎日の様に遠い所から友人が見舞いに来ていた。カナダでの生活の為に

「何とか日常英語程度なら話せるんだけどさ、中卒だから文法とかちゃんと勉強したくって」とラジオ講座を聴いていた。私の出身大学を知ると

「うそ、すごい頭いいじゃん。英語教えてよ」

「分かる範囲でね」そう答えた。美紀は早速テキストを持って来た。

「ここってさあ、どうしてシュデュンチューじゃなくてウデュンチューなの?」

「はあ? 知らないよそんなこと。学校でやらなかったもん」それなりに屁理屈を付けて説明するとそれなりに納得した様だった。

二十代前半の紀子と同い年で、二人は意気投合していた。私も「会社に解雇されたことだし、美紀の様に自由な人生を生きよう」と、これからの生きる指針を教えてもらった気がした。

暫くすると、私に解雇通知が届いたことや、入院していること、なぜそうなるに至ったのか、病状などを会社の同期や大学、高校の友人に知らせたくなった。そこで母親に自宅のノートパソコンを持って来させ、メールを書いて送り始めた。返事をよこす者もいたし、そうでない者もいた。返事が来なくても「こんな暇人に付き合っている暇が無いか、メールチェックをしていないのだろう」と悲観はしなかった。何より退屈で仕方のない入院生活で「メールを書く」という、やるべきことができたこと、そしてそれが自己顕示欲を充分満たしてくれることが嬉しかった。

仲間が沢山できたこと、煙草を吸いながら話をすること、メールを書くこと、などで入院生活が楽しくなった。入院して二週間も経たないそんな時、精神科のナンバー・ツーである医局長が私に近づいてきた。彼は若くして大抜擢された切れ者だった。いつも笑顔を見せず冷たい感じのする男だった。

「そろそろ退院してはどうですか」私は

「一ヶ月くらいは入院していたいのですが」と答えた。それほどまでに入院生活は楽しくなっていた。

数日後、再び医局長がやって来て

「やはり退院しましょう。いつまでもいるとなかなか退院しにくくなってしまうし。パソコンをやる意欲が出て来たということは回復している証拠ですから」と言った。今度はかなり本気の様だと私は思った。ナースステーションから見える談話室でパソコンを使っていたのがまずかったのだと思った。きっとベッドが足りなくなって自分は追い出されるのだろう。医局長の誤診だとも思った。しかし私は

「はい」と素直に答えた。そのことを知った川田に

「絶対退院するなよな!」と腕を捕まれ、恐い顔をして言われた。症状の悪い者を一緒に励ましていこうということなのか、単に自分より先に退院されたくなかったのか、分からなかった。いずれにしても恐ろしかったし、狂っていると思った。私も狂ってはいたが、静かに狂っているだけだった。

私より前から入院していた人間より先に退院するのは何か申し訳無い気がしたが、結局二週間半で退院した。その後も外来通院はしている。外来が済んだ後、まだ入院している友人に会いに行った。最初は利雄、夏子、麻実、美紀がいたが、次の週には利雄が退院していた。私が三週間ぶりに会いに行った時には、残りの三人も退院していた。喜ぶべきことなのだろう。「集まり散じて人は変われど」という歌の文句が頭の中を流れた。

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今日の右京

えー、今日の右京はいつもと変わりないです。
2週間くらい前に朝食をまったく食べなくなりました。
たぶん夏バテだろうということで、気にしないでいたら
いつの間にか治っていました。
もう夕飯もあげました。
与えているのはペティグリーミキサーのビーフと魚です。
8kgで1200円。安いほうです。
サイエンスダイエットなんかだと4倍くらいしますね。
今ごろリビングで寝ているはずです。

漢字検定試験の学習について

とりあえず新しいことをやるのはやめることにしました。
あとはのんびり今までの復習をするだけです。
今までネガティブな発言は控えていました。
自分のモチベが下がると思って。
でももういいます。
2級は受かりません!
素養がありませんから。
漢字は好きなんてものじゃなく、むしろ苦手、嫌いなものです。
1カ月ちょっと勉強して2級は無理です。
80%正答しなくちゃならないんですよ!
無理!
手堅く準2級におさまりたいですね。
これから24日まで気持ちよくコンディションを整えていきたいです。