連載短編小説『それでも人生に』 ② | あなたのココロ、治します。

連載短編小説『それでも人生に』 ②

私に与えられたベッドはその病院の最上階の窓際で、気持ちが良かった。当分会社を公に休めることが余計に私を気持ち良くさせた。母親が毎日車で四十分掛けて洗濯物を取りに来たり、デザートをアイスボックスに入れて持って来たりしてくれた。学生時代から四年間付き合っている紀子は、日本一運賃の高い電車の定期まで買って、毎日見舞いに来てくれた。

病院生活は何もすることが無く、退屈で仕方がなかった。寝るか、まずい病院食を食べるか、テレビを見るか、それしかなかった。母親と紀子が毎日来てくれることが唯一の楽しみだった。

数日すると、母親がベッドに座りながら

「会社の人事から電話があってね、今月末で退職した方があんたの為になるんじゃないかって」と話した。当たり前と言えば当たり前の話だったが、私にとってはやはり動揺せざるを得ない知らせだった。退院したら何とかやり直せる気がしていたからである。その時は新卒の試用期間も終わりを迎える頃だった。私の育成を担当することになった部長は人柄が良く、その分は恵まれていた。入院直前に部長に精神状態が悪いことを話すと

「試用期間をもう一ヶ月延ばそうかねえ」と言ってくれていた。私は当然優遇措置を取ってくれるものだと思っていた。しかしわざわざ試用期間中の病人を正式雇用する奇特な会社は無いことも頭の何処かで分かっていた。現状を受け入れるしかなかった。
 ベッドから見える良く晴れた青い空が私にとっての小さな救いだった。少しずつ動揺が静まり、解雇は感情の伴わない、ただの記憶になっていった。

そのうち団欒室で中年連中が楽しそうに喋っていたり、一緒に食事をしているのが気になってきた。私もあの連中と仲間になりたいと思い始めた。

私と紀子、紀子の姉とその彼氏は、春競馬GⅠレース辺りから少しずつお金を使って競馬をゲーム感覚で楽しんでいた。入院したのは夏の始めのことで大きなレースは終わっていたが、私と紀子は暇つぶしのために「地方競馬でもやろうか」ということになった。私はベッドのある七階から出ることを禁止されていたので紀子にスポーツ新聞を買って来てもらい、二人で予想を立てた。そして紀子に後楽園まで勝馬投票券を買いに行ってもらった。

その週末は福島でレースがあり、私は福島の天気が気になって仕方がなかった。談話室の大きな窓から外を眺めた。ここでは霧雨が降っているからこの天気が東に流れて福島のコースも湿って重くなるだろう、そうするとレースは少し荒れる、あまり荒れ過ぎても外れてしまうし、天気が良過ぎても配当が低くつまらないレースになってしまう、少し荒れるくらいが良い、そんなことばかり考えていた。たまたま話し掛けて来た人と天気のことや競馬の話をしていると後ろから

「競馬新聞ならここにあるぞ」と私が気にしていた中年連中が話し掛けて来た。私は初対面の人間に話し掛けることが苦手だったので話し掛けられたことで堰を切ったように会話を始めた。

それから中年連中と一緒に食事を談話室で取ることになった。彼ら四人は病状も年齢も様々だったが実に仲が良かった。秋田は農家の人間だった。私と同じ病気を抱えていたが、そうとは思えないほど明るかった。独特の暖かい訛で

「困ったことがあったらいつでも電話しろよな」と言って一番初めに退院して行った。実際に川田という男が問題行動を起こして強制退院させられた時に電話で相談に乗ったり、秋田自らが川田の家に出向いて慰めたりするなど、言わばリーダー的な存在だった。井野は耳鼻科の手術を控えた建築事務所の会長だった。術後の回復を待たなければならなかったので退院は遅かったものの、電話で部下に仕事の指示をてきぱきと与えていた。井野も面倒見のいいオヤジで

「家が近いんだからさ、何でも連絡してよ」と携帯の番号を教えてくれたり、退院後も

「元気でやってる? 就職活動してるんでしょ?」などと電話を何度か掛けてきてくれた。福山は蓄膿の手術を終えたばかりの、大手情報機器メーカーのシニアコンサルタントだった。やはり耳鼻科の患者は元気で、メールで部下に指示を与え入院中もしっかり仕事をしていた。彼は

「いつでもメール頂戴よ」と言って携帯の番号とメールアドレスが書かれた名刺を渡して退院して行った。入院中に二回近況報告のメールを送り、これからを生きる上でのアドバイスをもらった。

中年連中と食事をしているとだんだん仲間が増えてきた。多い時で十名ほどの患者が毎日の三食を共にしていた。普通は自分のベッドで食べるものなので医者や看護婦は

「こんなことは病院が設立されて以来、初めてだ」と驚いていた。

新しい入院患者も続々と入って来た。「現代人は病んでいる」と病んでいる私が思うほどだった。多くの人間が煙草を吸いに喫煙室へ行っていた。私もどうしようもなく暇だったこともあり、会話の道具として煙草を吸うことにした。しかし煙草は高校生の時に、バイクレースのスポンサーをしていた「ラッキー」を吸ったことがあるだけだった。余り幸が多いとはいえない私の人生に二百四十円程度でラッキーが転がり込めば随分安い買い物だ、などとバカなことを考えていた。しかし「ラッキー」はきつ過ぎたので今度は何を吸ったら良いのか分からなかった。そこで病院内の売店で最も見た目の良いものを四種類買って来た。そうして喫煙室でしか話せない様なことを多くの人間と話し、交流を深めた。私はこの時煙草が持つ会話の道具としての威力を強く感じた。全くの他人でも名前も知らなくてもかなり突っ込んだ話ができた。

夏子は私と同い年で同じような病気を抱え、両手足をリストカットして入水自殺を企図した。入院して来た直後は話もできないくらいの精神的な傷を負っていた。喫煙室で煙草を吸っていると夏子とその母親が入ってきた。両手首に包帯を巻いて点滴を打っていたのでリストカットをしたことがすぐに分かった。私がいくら話し掛けても無反応か、僅かに頷くだけだった。心配そうに夏子の側に座っている母親に

「いやあ、実は私も自殺未遂で入院してるんですよ、首を吊って。でも元気になりましたよ。患者さんみんなで一緒にご飯を食べるんですよ、いろいろ話しながら。初めは黙って食べててもいいんです。顔を出すだけっていう感じで。病室で一人で食べるよりずっと元気になりますよ」と話を振ると

「もう、どうしたらいいのか分からないんです。よろしくお願いしますね」と泣きそうな顔をしながら無理して笑顔を作っていた。

 その後、夏子は元気になると

「自殺未遂は三回もやったのでもう飽きました」と冗談の様に言った。

麻実は二十代後半で家族と共にスーパーを経営していたが精神を患い入院した。投薬療法では回復が遅かったので電気ショック療法を受けていた。完全に病気を治して早く仕事に戻らないと家族に悪いという意識を強く持っていた。麻美と初めて話したのも喫煙室だった。

「お子さんとかいらっしゃるんですか?」と聞いたら

「まだ結婚もしてないわよ。失礼ねえ!」と怒られた。後に夏子と麻美が「男自動販売機」があったらねえ、と話していた。何人もの男の顔写真とプロフィールが自動販売機に並んでいて気に入った男のボタンを押すと男が買えるそうだ。暇な病院生活ではこういった下らない話でも充分面白い。

利雄は複数の病気を抱えている高校生だった。人懐っこく、誰からも可愛がられていた。好きな女が九州の大学に行ったらしく私の携帯でショートメールを送らせてやったりテレホンカードをやったりした。いつもの酔っぱらいのような喋り方で

「もお、ホントに感謝してますよお」と何回も言っていた。

川田は住宅の営業をしていた三十代前半のサラリーマンだったが私と同じ病を患い入院した。薬の副作用に悩まされて真直ぐに歩けず、精神面でもかなり苦しんでいた。病院生活が余りにも退屈だった為に、外出禁止であったにも関わらず川田は夏子と俊雄を連れて自分の車でカラオケに行ってしまった。病院側は三人が居ないことにすぐ気付き院内アナウンスをかけたが三人が帰ってきたのはそのずっと後だった。医局長に事情を聞かれて川田は逆上した。

「薬じゃ全然治らないじゃないか!」

「薬で九十七パーセントは治りますから」

「じゃあ俺は残りの三パーセントか!」川田は散々ナースステーション前で怒鳴り散らした揚句、

「こんな病院自分から出てってやるよ!」と捨て台詞を残して車で出ていってしまった。病院の玄関先で多くの医者と看護婦が川田の出ていく姿を見つめていた。彼らもどう対処していいのか分からない様だった。

美紀は半年だけ日本でアルバイトをし、もう半年をカナダでスノーボードをして過ごしていた。転倒して鎖骨を折り、プレートで固定する手術をするために入院して来た外科の患者だった。社交的で毎日の様に遠い所から友人が見舞いに来ていた。カナダでの生活の為に

「何とか日常英語程度なら話せるんだけどさ、中卒だから文法とかちゃんと勉強したくって」とラジオ講座を聴いていた。私の出身大学を知ると

「うそ、すごい頭いいじゃん。英語教えてよ」

「分かる範囲でね」そう答えた。美紀は早速テキストを持って来た。

「ここってさあ、どうしてシュデュンチューじゃなくてウデュンチューなの?」

「はあ? 知らないよそんなこと。学校でやらなかったもん」それなりに屁理屈を付けて説明するとそれなりに納得した様だった。

二十代前半の紀子と同い年で、二人は意気投合していた。私も「会社に解雇されたことだし、美紀の様に自由な人生を生きよう」と、これからの生きる指針を教えてもらった気がした。

暫くすると、私に解雇通知が届いたことや、入院していること、なぜそうなるに至ったのか、病状などを会社の同期や大学、高校の友人に知らせたくなった。そこで母親に自宅のノートパソコンを持って来させ、メールを書いて送り始めた。返事をよこす者もいたし、そうでない者もいた。返事が来なくても「こんな暇人に付き合っている暇が無いか、メールチェックをしていないのだろう」と悲観はしなかった。何より退屈で仕方のない入院生活で「メールを書く」という、やるべきことができたこと、そしてそれが自己顕示欲を充分満たしてくれることが嬉しかった。

仲間が沢山できたこと、煙草を吸いながら話をすること、メールを書くこと、などで入院生活が楽しくなった。入院して二週間も経たないそんな時、精神科のナンバー・ツーである医局長が私に近づいてきた。彼は若くして大抜擢された切れ者だった。いつも笑顔を見せず冷たい感じのする男だった。

「そろそろ退院してはどうですか」私は

「一ヶ月くらいは入院していたいのですが」と答えた。それほどまでに入院生活は楽しくなっていた。

数日後、再び医局長がやって来て

「やはり退院しましょう。いつまでもいるとなかなか退院しにくくなってしまうし。パソコンをやる意欲が出て来たということは回復している証拠ですから」と言った。今度はかなり本気の様だと私は思った。ナースステーションから見える談話室でパソコンを使っていたのがまずかったのだと思った。きっとベッドが足りなくなって自分は追い出されるのだろう。医局長の誤診だとも思った。しかし私は

「はい」と素直に答えた。そのことを知った川田に

「絶対退院するなよな!」と腕を捕まれ、恐い顔をして言われた。症状の悪い者を一緒に励ましていこうということなのか、単に自分より先に退院されたくなかったのか、分からなかった。いずれにしても恐ろしかったし、狂っていると思った。私も狂ってはいたが、静かに狂っているだけだった。

私より前から入院していた人間より先に退院するのは何か申し訳無い気がしたが、結局二週間半で退院した。その後も外来通院はしている。外来が済んだ後、まだ入院している友人に会いに行った。最初は利雄、夏子、麻実、美紀がいたが、次の週には利雄が退院していた。私が三週間ぶりに会いに行った時には、残りの三人も退院していた。喜ぶべきことなのだろう。「集まり散じて人は変われど」という歌の文句が頭の中を流れた。