全国のウリハッキョ情報 10 (昔のハッキョ③ 川崎・大阪第4・埼玉) | かっちんブログ 「朝鮮学校情報・在日同胞情報・在日サッカー速報情報など発信」

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全国のウリハッキョ情報 1 (四国ハッキョ70周年、群馬ハッキョ55周年他)

全国のウリハッキョ情報 2 (東北ハッキョ創立50周年・伊丹初級ハッキョLED化、他)

全国のウリハッキョ情報 3 (京都第2ハッキョ50周年&栃木ハッキョで同胞文化祭他)

全国のウリハッキョ情報 4 (愛知中高オモニ会&四国ハッキョ愛媛FCとの交流会他)

全国のウリハッキョ情報 5 (梁勇基選手がウリハッキョに&ナイター設備トンポの協力他)

全国のウリハッキョ情報 6 (中四国・九州地方初級部 朝銀カップ他)

全国のウリハッキョ情報 7 (昔のウリハッキョ① 東京第4・茨城・四日市)

全国のウリハッキョ情報 8 (昔のウリハッキョ② 中大阪・千葉・東京第9)

全国のウリハッキョ情報 9 (社会見学・キムチ作り他)



↑の続き






vol.7 校舎増築、養豚…独自の取り組みで学校存続に尽力 /川崎朝鮮初級学校

 川崎朝鮮初級学校にまつわる1枚の印象的な写真がある。日本の公立小学校の分校から、自主学校へ移行した際に撮影されたものだ。川崎地域での民族教育の始まりから、「閉鎖令」を経て、自分たちによる民族教育を再び開始するまでの時期を振り返ってみる。
飯場を改造し学び舎に
 川崎においての民族教育の始まりは1945年10月1日、桜本をはじめとし群電前、中留、入江崎、小田、浅田、渡田など各地で開設された国語講習所だ。翌年3月1日には権邦得氏を校長とする川崎朝連第一学院が中留に、入江崎に川崎朝連第二学院が設立された。
 第二学院で校長を務めた金点述さんの息子である金三浩さん(83)は、「アボジが工場下請けなどの仕事をしていた飯場を改造して学校を作った。朝鮮で教育を受けた従業員がいたから、その人が講師をした」と当時の光景を振り返る。
 その後、児童の数が増えたことでより規模の大きい学校を必要とした川崎同胞たちは、行政と交渉して空襲により焼け跡となっていた市立大島小学校の土地を借り、46年11月1日、川崎朝連初等学校を創立した。川崎朝鮮初級学校の創立日はこの日に定められている。
 川崎同胞有志らによる同人誌『大同江』(53年7月創刊)では、金建洙氏が「そのうず高く積まれた焼け跡の処理は容易なものではなかったが、十数名の同胞の三十四日(の)奉仕的な処理作業は、学校敷地のみではなくその周囲にまで及ん」だと回想している。児童100人に教員3人、教室は3つあったという。47年には校名を川崎朝連初等学院に改称。児童数も増え、48年2月時点で教員は6人、児童数は350人以上にのぼった。

知恵、力、お金を出し合い抵抗

 48年の文部省通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」により、日本各地で民族教育を死守するための闘争が繰り広げられる中、川崎では校舎増設に取り組むことで自分たちの民族教育権を主張した。同年8月1日付の解放新聞には、「阪神事件に発奮 校舎増築に決起 川崎初等学管建築に着手」との見出しで「川崎初等学校管理組合では、四・二四教育事件を契機にして、学父母および一般同胞に、当局の陰謀を徹底的に暴露して、今後いかなる暴圧にも屈せず…ただちに校舎増築建設準備会を構成し、積極的に活動をはじめた」と報じられている。結果的に150万円が集まり教室2つが増築され、増築落成記念運動会では、老若男女同胞らがその成果を喜び合った。
 さらに学校運営費について、鄭白雲氏が8月6日に記したとされる資料には「将来運営をよくするためには、単なる組合費のみにかじりつくのはおぼつかないと、そして同胞達の負担を少しでも、減じようと、並々ならぬ苦労でおし切り、養豚をやることに決定した。…二十四五匹の中豚は、垣根下に太って行くカボチャのように一同を楽しませている」と書かれている。川崎同胞らが知恵を出し合い、学校の維持に尽力したのが伺える。
 しかし、翌年9月8日の「団体等規正令」、続く10月19日の「朝鮮人学校閉鎖令」により、川崎朝連初等学院もその門戸が閉ざされてしまう。当時の神奈川新聞には県下各校でのようすが掲載され、「川崎本校も一時もめる」という小見出しで以下のように報じられた。「県地方課櫻井主事ほか五名が午後三時出向き、校長金氏らの五名の代表と会見、交渉したがラチがあかず、そのうちに父兄約三百名が校庭で演説をやったり、児童の合唱などがあり…一時は喧騒を極めたが、午後四時半から接収を開始することを納得、武装警官三百名の包囲警戒のうちに同六時終了した」。




「子どもたちに自主的な民族教育を」


 接収後も、生徒や同胞、学校関係者たちは幾度にもわたって川崎市役所を訪れて抗議と交渉を行った。同胞たちの粘り強い闘争を受け、閉鎖から16日後の11月4日、川崎朝連初等学院は川崎市立桜本小学校の分校として継続されることとなった。同校の近藤奣校長が復校式で、「あなたたちが学校をクギづけにされたことは、ひとごととは思えぬ。あなたたちがカバンをしょって雨にぬれたままあてもなく歩いている姿を見て私は泣いた。自分としてはどうすることもできないのが残念だが、みなさんはどんなことがあってもたえてつきすすんでゆく元気をもたなければなりません」とのべたという印象的な記録も残っている。
 桜本小学校は校舎が狭く、授業は一時的に、接収されたもとの校舎にて行われた。分校には8人の日本人教員がきて日本語や算数を教えたほか、残った朝鮮人教員も教壇に立った。また、51年には金建洙氏が校長に復帰し、54年に現在の場所へ移転、翌年、校名が川崎朝鮮初級学校に改称された。
 この頃、総聯結成と前後して、日本各地では、各種学校認可を獲得し自主学校として民族教育の発展を求める運動が活発になった。そのような中で、学校法人神奈川朝鮮学園が認可を受けたのは65年12月24日。川崎初級は、翌66年の2月1日に自主学校への移管をとげた。前述の金三浩さんは、64年4月から66年3月まで同校で校長を務めた。
 現・川崎朝鮮初級学校の姜文錫校長(56)も、自主学校への移管時に同校で学んだ一人だ。「学校を辞める日本人の先生たちのために、歓送会を開いて花束を渡していた。当時は幼くて大きな実感はなかったが、いま考えてみるととても意義深いものだったとわかる。『가와사끼조선초급학교(川崎朝鮮初級学校)』と紙で校名を貼り付けた下で、校長先生が嬉しそうに話していたのを覚えている」と振り返る。
 金三浩さんは当時の背景について、「正直、神奈川は全国的に見ても自主学校への移行が遅かった。それは自主学校になることでまた学校運営が厳しくなるのでは、と危惧する同胞たちが一定数いたから。内部での対立もあったことは否めない」と話す。
 「しかしみな子どもたちに民族教育を受けさせることを第一に考え、また同胞たちの献身的な取り組みもあって、結果的に自主学校としての権利を再び勝ち得たんです」(金さん)。



続いて





vol.08 貧しさにも負けず、台風にも負けず大阪朝鮮第4初級学校

 日本有数の朝鮮人集住地域である生野区のコリアタウンの南側に位置する大阪朝鮮第4初級学校。来年に創立70周年を迎える同校の沿革には、学校を守り、受け継いでいこうとする人々の思いが表れた逸話がいくつも残されている。

御幸森朝鮮小学校

 2006年に発行された学校創立60周年記念誌によると、朝鮮が日本の植民地支配から解放された翌年の46年6月11日、現在の大阪朝鮮第4初級学校の前身である朝連(在日本朝鮮人連盟)生野第10ウリ学校が産声を上げた。場所は、学校の初代教育会会長で、後に初代校舎建設委員会の委員長も務めた玄奉朝さんの工場。児童数120余人、教員数8人でのスタートだった。学校の創立記念日はこの日に定められている。
 朝連によって民族教育の体系が整備されるにしたがって、児童・生徒の数は次第に増加。これを機に、校舎建設が始まる。翌47年6月11日、創立1周年を記念して、学校の現在地に木造校舎が落成した(敷地は646坪、児童・生徒数150余人、教員数9人)。そして、新校舎建設を機に校名を「御幸森朝鮮小学校」に改称した。
 46年当時、生野区内に朝鮮学校は10校あり、現在の大阪第4初級学校の校区(鶴橋、桃谷、勝山、中川西)には朝連生野第1ウリ学校(鶴橋)、第9ウリ学校(勝山)、そして第10ウリ学校があった。第1と第9は47年に統合され、鶴橋朝鮮学院になる。
 その後、48年の4・24教育闘争を経て、49年10月19日に発令された「学校閉鎖令」によって、御幸森朝鮮小学校は一時的に門を閉じることになる。

農楽隊で生徒集め

 閉鎖後、校舎の一部は同胞団体の事務所として利用され、一部は同胞たちが住むアパートになった。校舎を利用して午後夜間学校も自主的に運営していた。
 50年代に入り、学校再建への要望が高まる。再建には児童・生徒の確保が急務だった。学校関係者らは同胞集住地域ならではの方法で学校再建へ立ち上がった。その一つが、農楽隊による生徒募集だった。
 総聯東成支部顧問の高敬子さん(70)は学校再建後の3期生。学校が再建された54年に、同じ生野区内にあった舎利寺朝鮮初級学校から4年生クラスに転入してきた。高さんは当時を次のように振り返る。
 「アパートとして利用されていた校舎の壁にはハリウッドの俳優のポスターなんかがベタベタ貼ってある状態でね。学校を再建するというので、それを毎日20人ほどの子どもたちではぎ取って、床もふいて掃除した。それが終わると、次は生徒募集の活動さ。頭に帽子をかぶって農楽隊に扮した先生や親たちが太鼓やケンガリを鳴らしてトンネの通りをチンドン屋みたいに練り歩くんや。同胞たちに学校再建を呼びかけると同時に、家を一軒一軒回ってお金やお米をカンパしてもらう。ジャーン、ジャーンと聞こえると、お金を出すのが嫌で鍵をかけてしまう家もあったけど、入れ物にいっぱい米をわけてくれる人もおった。今の学校支援活動はバザーとかハイカラなものになっているけど、昔はこういうふうにして活動してたんや」
 54年4月1日、200人あまりの児童を迎え、学校は「閉鎖令」以来、4年半ぶりに門を開いた。集めたお金で教室が2つ増築された。御幸森と鶴橋の両朝鮮小学校のうち、再建できたのは御幸森のみだった。
 「子どもたちの家庭はどこも貧乏だったし、先生の給料も満足に出してあげられない。だから日が暮れると学校に行って、『先生、ご飯食べにおいでー』と呼びに行く。大したおかずがあるわけでもないんだけど」(高さん)。学校の設備は貧弱で、「朝鮮学校、ぼろ学校」は当たり前のように言われていた。冬休みが明けて登校すると、窓ガラスが全部割られていたこともあったという。「貧しくて遠足にいけない子どももいてね。そういう時は鶴橋で石鹸を仕入れてきて、クラスメイト全員で売って、その売り上げで1人も残さんと連れて行ったよ」



思わぬアクシデント

 57年、朝鮮民主主義人民共和国から初めて教育援助費が送られきた。59年12月には朝鮮への帰国の道が開かれた。ほかの学校と同様、これらを機に御幸森朝鮮初級学校でも児童数が急増する。
 61年4月には校名を東大阪朝鮮第4初級学校に改称。同年8月からは、1200万円の予算を投入し2階建ての木造新校舎の建設が始まった。建設は順調に進んでいたが、思わぬアクシデントで中断を余儀なくされる。61年9月16日、死者・行方不明者208人、負傷者4972人、住家全壊・半壊6万1901棟という大きな被害を出した第2室戸台風によって、工事中の建物の骨組みが倒壊してしまったのだ。
 鶴橋駅前のキムチ店・山亀商店の林申出さん(85)は当時のようすを次のように語る。「校舎は棟上げまで終えた状態だったんだけど、それが跡形もなく吹き飛ばされてしまった。うちの家の屋根も飛ばされたくらいだから、ものすごい台風だったよ。夫は気が早い人だったから、まっすぐ学校に走っていってね。自分たちの手で復旧にあたった」。60周年記念誌には、「業者が整備に1ヵ月以上かかると言ったが、学校に集まった300人の同胞たちが3日間で終え、骨組みを建て直した」というエピソードが記されている。
 完成した校舎はその後、68年に鉄筋4階建ての建物(現校舎)にかわる。その際も地域同胞たちは「1分会1教室」運動(1つの分会で1つの教室の建設費用をまかなう)などに取り組み、学校へのバックアップを惜しまなかった。(写真はすべて『大阪朝鮮第4初級学校創立60周年記念誌』より)



続いて



vol.09 同胞たちの悲願、朝鮮学校再開へ埼玉朝鮮初中級学校

 解放後、埼玉県下の各地にも国語講習所が設立された。しかし「学校閉鎖令」後は、長く日本の公立小学校での民族学級や課外授業といった形態で民族教育が続けられることになる。県内に正式な朝鮮学校が創立されたのは61年のことだ。67年、現在の場所に新校舎を竣工するまでを振り返ってみよう。





埼玉での民族教育の始まり

 1945年10月15日、朝連の結成は、埼玉での民族教育実施においても大きな契機となった。川口、川越、蕨、戸田、入間、本郷など各地域の朝連支部を中心に国語講習所が開かれた。

 46年の春には、大宮公園の同胞花見に集まった参加者たちの中から「帰国の日までに子どもたちには朝鮮語を学ばせなくては」といった声が飛び交い、同年から大宮でも国語講習所が始まった。人の家を間借りして作られた教室で、児童33人、教員2人が学んだという。

 47年、朝連川口支部においては、古い民家を借りて「第1小学校」が開校。当時学んだ朴在姫さんは「戦争中、日本の学校では朝鮮語が禁止されていたため、先生に朝鮮名で呼ばれ、朝鮮語の文字に出会い、戸惑いながら覚えていく毎日でした」と証言している(『埼玉とコリア』より)。

 48年4月8日には、川越に次いで、豊岡、入間川地域に本格的な「第2小学校」が設立される。5人の教員に50人以上の子どもたちが学んだ。しかし49年10月に「朝鮮人学校閉鎖令」が下されると、直後の11月2日には県下全ての学校・講習所は強制閉鎖させられてしまう。当時、同小学校で学んだ全力さん(77、総聯埼玉県本部顧問)は、「学校でのことはあまり覚えていない。なにせ始まってすぐに『学校閉鎖令』で門を閉ざされてしまったんだから」と話す。

 多くの子どもたちは日本の学校へ転校させられた。この頃、埼玉で教員をしていた許南麒さんは、民族教育への弾圧に強く抗議する「1949年11月2日」という詩を残している。以下、一部を抜粋する。《잘 가거라、/잘 가거라、/나의 작은 동지들이여、/건강하여라 부디、/건강하게 싸워주기 바란다.》(さようなら、/さようなら、/私の小さな同志たちよ、/元気で、/元気でたたかってくれ)





「県内に自分たちの学校を」

 県内では、閉鎖された建物の前に詰めかけて再開を要求するなど多くの同胞たちが抗議運動を起こした。同時に親や子どもたちの願いもあり、前述のように県の市立小学校に放課後の民族学級を設置したり、朝鮮人教師による課外授業が行われるという措置も取られた。ほとんどは放課後、日本の児童らが帰った後に授業が行われたようだ。民族学級があった翌日の朝は、黒板に朝鮮語の板書の跡が残っていたと振り返る日本市民もいる。川口市立幸町小学校では、61年まで民族学級が続けられた。

 埼玉では55年6月25日に総聯県本部が設立。同胞たちの権利利益を擁護する、銀行や商工会といった組織体系の構築が進む中で、朝鮮学校の再開を望む声も次第に高まっていった。

 「埼玉同胞たちは、主に深谷や本郷といった北部、そして川口を中心とした南部にと、地域的に2分されて暮らしていた。学校をどちらに建てるかという問題と、また中級部からは東京へ通わせる家庭も多く、なかなか学校建設に踏み切れなかったのが現状だ」と、総聯埼玉県本部の金日宇副委員長(56)は説明する。帰国事業が活発になり、多くの同胞が共和国へ渡ったことも理由にあげられる。「また学校候補地にはさまざまな意見があったが、鉄道の分岐点の中心に建てようということで大宮に場所を決めた。なによりも、県内に少しでも早く学校をという気持ちが強かったのだろう」(金副委員長)。

 同胞たちの熱意によって61年4月6日、ついに埼玉朝鮮初級学校が創立。今は面影もないが、当時は蛇松口という大宮公園の敷地内で沼を埋め立て建設されたという。児童数は増え続け、65年には中級部を併設、「埼玉朝鮮初中級学校」に改称した。

歴史を継承する

 その後、同胞たちの要望を受け、新校舎の建設が本格的に始まる。総聯映画製作所による記録映画「総聯埼玉県便り」(68年)には、その当時の貴重な映像が収められている。

 「私たちはこの36年間、国を奪われ他国に住み、賎待と蔑視の中で暮らしてきて、財産などありません。ただ一つ財産が有るとしたら、それは子どもたちだけです。その子どもたちを朝鮮人に育てることが大事ではないか、だから教育が重要なんです。民族教育をどんなことがあっても発展させよう。学校建設費を私も出す―、このような想いで皆が立ち上がったと確信しています」。建設に携わった同胞が決意表明をする場面だ。

 こうして、同胞たちが一丸となって募金運動を展開。子どもたちもお小遣い節約運動に参加した。映像には金栄淑さん3姉妹が、6年間こつこつと貯金した約10万円をすべて建設費に充てた話が出てくる。オモニたち、青年たちも教室1間分を請け負い、商売や工場での労働、食事の節約などをしながらお金を集めた。

 いざ建設を始めた66年、行政は翌年に開催される埼玉国体にあたり県立公園の整備計画を事業化。埼玉初中へ校舎の移転を要請した。度重なる交渉の末、同胞たちは現在の場所に2300坪の土地と校舎の建設許可、補償金を得ることができた。67年4月16日には新校舎落成式が行われ、2000人以上の同胞が集まり新しい校舎を仰いだ。

 前述の全力さんは埼玉同胞社会の歴史を記録しようと思い立ち、数多くの写真や資料を集め、一つひとつ整理してきた。10年前にはその資料集を同胞たちの前で発表しながら、改めて歴史を継承することの大切さを実感したという。「埼玉ハッキョは来年で創立55周年を迎える。私もまだまだ学校や同胞社会に貢献していきたい」と、芯のある声で語っていた。



最後に



東京新聞記事より



(ドンヒョンヌナのFBより)


ベイスターズ、神奈川県内の小学生に帽子を配ったらしいのだけど、朝鮮学校も対象だったらしく、帽子を持ち帰った子どもに、知人の保護者がとても喜んでいました。町田市の防犯ブザーの件とかもあったけど、いつも除外だから、本当にうれしかったと。




※嬉しいですねー