あなたと飲む水は、プレミアムモルツの味がする。 -24ページ目

あなたと飲む水は、プレミアムモルツの味がする。

トランプのダウトをしたら、ターンが回ってくるたびに誰かに「ダウト!」と言われる系女子です。よろしくお願いします。


『火花』を読んで。



どこか世の中を悲観しつつも、夢を捨てきれない主人公。

破天荒なお笑い芸人という、なんとも食えない先輩芸人。

この二人を軸にして進む物語は、著者が意図的にそうしたとおりの、だれにでも起きうる心の葛藤や焦燥、そして夢があった。



読んでいて素敵だな、と感じたのは言葉選び。
端的に表された登場人物の心情は、まるで短歌を詠んでいるかのようであった。


母は、最後にどんでん返しがあるものだとばかり期待して、読み終わってすこし物足りないと言っていた。
どんでん返しは「どんでんどんどん」と180度物語がひっくり返ることなのだけど、私はそういう終わりってちょっとズルいと考えている。

すべて嘘になってしまう、とまでは言い切れないが少なくとも最後に辿り着くまでの心の経過だけは、嘘ではないと言って欲しい。
今までいたそちら側と、今いる反対側の世界にちゃんとしたドアを用意しておいて欲しい。
できれば行き来することも、許して欲しい。

そんな柔らかいどんでん返しに少し似たこの物語の終わりを、私は心地よく感じた。


途中途中で出てくる他の登場人物も、物語の邪魔をせずむしろちょっとした演出となっているところが、ああやはりこれはこの二人の舞台なのだなあと感じさせられた。
物語の終わりからはじまる可能性が、それをより一層引き立たせる。


そしてあのメールのやり取りは、ちょっと真似したくなった。
100人の私の友人に送りつけて、一体何人がその意図を感ずるだろうか。
そんな嫌がらせのようなささいな愛情表現、感づいたところで気味が悪いだけかも。
やめやめ。



あとこれは余談だけど、

この本が芥川賞を受賞したことは、日本中で騒がれ、芸人が受賞することに賛否両論が巻き起こった。
活字離れが深刻だと語られる時代に、文藝春秋という出版社が純文学の新人に贈る「賞」としての役割にこれだけの人が期待を寄せていることに私は驚いた。
時代を象徴する文学を選び出すといった情緒的な役割はもう終わりかけていて、株式会社文藝春秋の経済活動の一環としての役割が強くなっていてもおかしくないからである。
だからこそ私は、もう一度きちんと本を読もうと、心に決めたのである。

文学が何たるかなんて、きっとわからない。

それでもいつか文藝春秋に「おいおい、こんな作品でいいのか?見てるからな?ちゃんとしてくれよ!本気でやってくれよ!」と、堂々と背中を叩くことができたら、それはきっと批判ではなくて激励に似た行為であるはず。



目的地まで、信号にことごとくひっかかる。
そういうところ、嫌いじゃないんだよね。



終わり。
Twitterを捨てよ、スタバへゆこう


Twitterに出会ったのは18歳の秋だった。
アカウント名は「ところてんはむはむ」。
なぜこの名前をつけたのか、自分でもよくわからない。

Twitterは私の世界を広げてくれた。
予備校と家の往復しかしていなかった日々に、なんだか心の拠り所ができたとまで感じていた。
現実の友達と、顔も名前も知らない他人、芸能人や政治家までが、「今」何をしているのかを発信している。
私の小さな手の中に収まるこの画面の内側でみんなが暮らしているような感覚。
なぜだろうか、それに私は優越感を感じていた。

しかしそれは次第に現実へ弊害をもたらし始める。
本当は知らなくてもいい誰かの「今」を知ることで、自分の「今」を奪われているような感覚。
その遅れを取り戻すように必死に「今」を演じようとする。
それはもしかしたら誰かの「今」を奪っているかもしれない?

さらに恐怖は加速する。
コミュニケーションのためのツールだったはずのTwitterがだんだんとコンテンツ化し始める。
自虐的な言葉遊びや、誰かをほんのりと不幸にするような見えない駆け引き。匿名の安心感と、越えてはいけない人としてのモラル。

そんな思考が限界に達した時、私は青い鳥を長押しし、Twitterアプリを削除する。
たったこれだけで、私は分相応なサイズの自分の世界に帰ってこられる。
タイムラインを濁流の如く流れる情報。その川から一旦、岸に上がってみるのだ。
すると、自分の思考が研ぎ澄まされていくのを感じる。
140文字の裏側を垣間見ることができる。




「スタバなう♡」

添付された写真には恋の色をした新作のフラペチーノ。
カップに描かれた可愛いニコちゃんマークはカメラ目線でこちらを見据える。
向かい側には少し骨ばった男性の両手がちゃっかりと写り込んでいる。

蒸し暑い電車の中でくたくたの私は、菩薩のような顔でそのツイートを見つめる。
考えることは(このフラペチーノにはおそらくアフリカの子どもが一生に摂取する量よりも多くの砂糖が使われている)。
表情を変えぬままに私は彼女にリプライを送る。

「美味しそう~!あと、遅くなりましたが7ヶ月記念日おめでとう✨」



直後、私は青い鳥を力いっぱい、爪を立てて、押し付ける。

たぶん、その繰り返し。








愛だとか恋だとか、好きだとか嫌いだとか、確かに不確かなものほど人は求める。




しかしそれは「わかりやすさ」の恐怖に繋がる。

100人のちょっと好き
100人のわりと好き
100人のけっこう好き
100人のすごく好き
100人の死ぬほど好き

これを「マジで好き!」のひとことでくくってしまえば、あたかも500人が同じ感情を共有しているような、そんな感覚に陥る。

もうひとつ。

「締め切りがヤバイ」と言われれば、締め切りに間に合わないのかな?と言われた側は考える。
だけどそれが、どれくらい間に合わないのか、後どれくらいの時間があれば間に合うのか、分からない。
もっとも、おそらく言っている本人も、わかっていない。


こういうことが習慣化すると、具体的に人に伝えることができなくなってくる。
だいたい◯時間くらいという、目安をだすことが、できなくなってくる。


もうひとつ例をあげるとすると。
「休み」という言葉。

それは、休憩・休暇・休息・休日・休止・・・「休み」だけでは、一体何を指しているのかわからない。

相手に察してほしいだなんて、それはあまりにも怠惰である。


「マジ」や「ヤバイ」は具体性を必要としない、人の感情など曖昧で不確かな物事においてこれほど便利な言葉はない。

けど使いすぎると、どんなに声が大きくても、どんなに多く発言しても、結局何が言いたいのかは誰にも伝わない。


大好きな曖昧さや不確かさから少し離れてみると、その全貌が見えてくる。
いままであぐらをかいていたフカフカのクッションは、オドロオドロしい何かかもしれない。


もしかしたらそれは、言葉だけに言えることではないのかもしれないけど。






おわり。