『火花』を読んで。
どこか世の中を悲観しつつも、夢を捨てきれない主人公。
破天荒なお笑い芸人という、なんとも食えない先輩芸人。
この二人を軸にして進む物語は、著者が意図的にそうしたとおりの、だれにでも起きうる心の葛藤や焦燥、そして夢があった。
読んでいて素敵だな、と感じたのは言葉選び。
端的に表された登場人物の心情は、まるで短歌を詠んでいるかのようであった。
母は、最後にどんでん返しがあるものだとばかり期待して、読み終わってすこし物足りないと言っていた。
どんでん返しは「どんでんどんどん」と180度物語がひっくり返ることなのだけど、私はそういう終わりってちょっとズルいと考えている。
すべて嘘になってしまう、とまでは言い切れないが少なくとも最後に辿り着くまでの心の経過だけは、嘘ではないと言って欲しい。
今までいたそちら側と、今いる反対側の世界にちゃんとしたドアを用意しておいて欲しい。
できれば行き来することも、許して欲しい。
そんな柔らかいどんでん返しに少し似たこの物語の終わりを、私は心地よく感じた。
途中途中で出てくる他の登場人物も、物語の邪魔をせずむしろちょっとした演出となっているところが、ああやはりこれはこの二人の舞台なのだなあと感じさせられた。
物語の終わりからはじまる可能性が、それをより一層引き立たせる。
そしてあのメールのやり取りは、ちょっと真似したくなった。
100人の私の友人に送りつけて、一体何人がその意図を感ずるだろうか。
そんな嫌がらせのようなささいな愛情表現、感づいたところで気味が悪いだけかも。
やめやめ。
あとこれは余談だけど、
この本が芥川賞を受賞したことは、日本中で騒がれ、芸人が受賞することに賛否両論が巻き起こった。
活字離れが深刻だと語られる時代に、文藝春秋という出版社が純文学の新人に贈る「賞」としての役割にこれだけの人が期待を寄せていることに私は驚いた。
時代を象徴する文学を選び出すといった情緒的な役割はもう終わりかけていて、株式会社文藝春秋の経済活動の一環としての役割が強くなっていてもおかしくないからである。
だからこそ私は、もう一度きちんと本を読もうと、心に決めたのである。
文学が何たるかなんて、きっとわからない。
それでもいつか文藝春秋に「おいおい、こんな作品でいいのか?見てるからな?ちゃんとしてくれよ!本気でやってくれよ!」と、堂々と背中を叩くことができたら、それはきっと批判ではなくて激励に似た行為であるはず。
目的地まで、信号にことごとくひっかかる。
そういうところ、嫌いじゃないんだよね。
終わり。