「あたし、ハチクロは嫌い」と言ったとする。
すると周りの友人は「わかってないな~」的なことを言ってくる。
またはそんな顔をする。
だけど私には「芸術の分野に進むのなら」と、
ハチクロを全巻プレゼントしてくれた彼氏がいて
その彼にそれはまあこっぴどく振られたので
もらった漫画を全部燃やした!という過去がある。
その過去を踏まえた上で「ハチクロは嫌い」なのである。
ちがうちがう、内容の話をしてるんだよ。と言われるかもしれないが、
こうなってくると内容も嫌いになってしまうものなのだ。
今では羽海野チカさんの絵も好きではない。
いや、もしかしたら当時から嫌いだったけど、
むりやり好きだと思い込んでいただけなのかも…真相はわからない。
とにかく恋とは盲目だ。
そしてその思考の行き着く先は、
人が語る「好きなもの」「嫌いなもの」の裏側には、
「(その人の好きな人が)好きなもの・嫌いなもの」も含まれるということ。
「好き」を共有することは、恋人同士だけでなく友人関係にもよくあることだ。
人はもちろん、物体にも、作品にも、事象にも、
「いい面」と「悪い面」がある。
どちらの面がより多く見えているか?ただそれだけ。
だけど、それらと自身の間には必ず何らかのフィルターや障害物がある。
過去の記憶や、現在の人間関係、情報の限界など、様々だ。
その小さな小さな隙間から見えるほんの少しの「いい面」を頼りに
この先にあるものを好きだと断定するのは難しい。
しかもそれらは急にひっくり返ることだってある。
気をつけなければならない。
目を閉じで、しゃがみこんで、過去に見た「いい面」を思い浮かべる。
そうすればそれらの「悪い面」を見つけなくて済む。
だけど新しいなにかの「いい面」を見つけることもできなくなる。
これは私とハチクロの関係に似ていて、
私はハチクロが目の前に現れるとぎゅっと目を閉じて過ぎ去るのを待つしか無い。
その間、私の頭のなかではハチクロ自体の「悪い面」だけでなく当時の彼との思い出も同時に蘇る。
一緒に散歩した道の風景や、Tシャツを褒めてくれたこと、なぜかお寿司屋さんで喧嘩したことも。
あの時は幸せだったのに、なんで上手くいかなかったんだろう。
あー、、うーん、やっぱり…あーん!!!
そういう考えが沸点に達したとき、出てくる言葉は、きっとこうだ。
「あたし、ハチクロは嫌い」
どんなに真山くんの不憫さについて語られても
どんなに竹本くんのやるせなさについて語られても
いまはどうやったって好きじゃない。
けど、いつか「ハチクロ最高!」といえる日がきたら、
きっとその時はもうハチクロの話なんてしないんだろうな。
見た目は子ども、頭脳は大人。
言わずと知れたこの台詞を考えてみた。
私のなかでの「子ども」と「大人」の区別
もう自分は「大人」だと考えているのはまだ「子ども」
自分はまだ「子ども」だと考え出したらもう「大人」
つまり、自分で自分を「大人」と称しているコナンはまだ「子ども」
見た目は子ども、頭脳も「子ども」。
くだらないことでも、自分なりに定義付けをしてみると楽しいね。
おわり
言わずと知れたこの台詞を考えてみた。
私のなかでの「子ども」と「大人」の区別
もう自分は「大人」だと考えているのはまだ「子ども」
自分はまだ「子ども」だと考え出したらもう「大人」
つまり、自分で自分を「大人」と称しているコナンはまだ「子ども」
見た目は子ども、頭脳も「子ども」。
くだらないことでも、自分なりに定義付けをしてみると楽しいね。
おわり
共通の意思・主張をもち、それらを示すため集団で行動を起こすことをデモ活動と呼ぶならば。
その意思を伝えるために、適切な方法を考えなければならない。
それは、
大人数で道を埋め尽くし大声をあげることも
氷水を頭からかぶることも
ハンガー・ストライキを道端で行うことも
もしかしたら、間違っていないのかもしれない。
いずれも参加していない私にそれらの行為を否定・肯定をすることはできない
だけど、なんとなく、無意味だと思っている人も沢山いるのでは?
どうしようもなく、苦しんで
どうにかして、伝えたい
そういう人が、きっとたくさんいる。
それなら過去と同じことを繰り返していても、変えることはできない。
そのうち、積もり積もった伝わらない届かないもどかしさが爆発して
自爆テロ等にもつながりかねない。
人に迷惑をかけることは、きっと本意ではない。
だれも無視できないように、うやむやにされないように。
誰(組織)に何を伝えたいのか。
まずはこちらを向かせることが必要である。
そこで、無視できないようなデモ活動を考えてみた。
①全国で禁煙・禁酒を行う
日本の税収の約5%に及ぶ酒税とタバコ税。
選挙権の年齢引き下げに伴い、喫煙・飲酒の年齢も18歳に引き下げようという動きがあるが、これはおそらく政府がより多くの酒たばこによる税収を見込んでいるということとも考えられる。
ひっくり返すと、それだけこの財源は貴重で確保したいものなのかも。
②不貯金運動
私達が無意識にお金を預けている銀行。
かつては金利8%を越え、預けているだけでお金が増えるという魔法のようなシステムであったが、いまは(例えばひろぎんは)0.02%といったところである。
ただただ、減らないから・安心できるから預けている。
だけど私達の預けた現金は、日銀から国債を買うために使われている。
みんながお金を銀行に預けなければ、国は活動をすることができないのだ。
(これは禁酒禁煙とはちがい、現金を手元に置くというリスクもある。)
これは実験である。
無理だよと言われたら、そこで思考は止まってしまう。
じゃあもっといい案を出してよ、なんて言いはしないけど、
既存のデモ活動に変わる素晴らしい活動を私達は考えなければならない。
おわり。