桜井先生に学食で声をかけられてから時間が経てば経つほど胸のざわめきは大きくなっていきます。

あの後、美歌からはどうして先生を知っているのかと根掘り葉掘り質問攻めにあいました。

矢継ぎ早に浴びせられる質問に少し困りながらも練習室に楽譜を忘れたこと、たまたま先生がその練習室でピアノを弾いていたこと、楽譜から私の名前を知ったらしいことを話しました。


「ふ~ん、本当にそれだけ?私にはずいぶん親しそうに話してるように見えたけどなぁ」

それだけかと言われても本当にこれで全てです。

「親しくなんかないよ、さっき初めてピアノ科の先生だと知ったくらいだもの。名前だって知らなかったし」

美歌はニコニコしながら「へぇ~」としきりにうなずいたり「いや~」などと言いながら
私の肩をポンポンたたきます。

「本当だってば。たまたま声をかけられたからお礼を言ってただけ」

本当はあの人が弾いていたピアノと柔らかな笑顔が頭から離れないのに、なぜだか素気なく答える自分にびっくりしました。

「でも、桜井先生ってピアノ科じゃすっごい人気らしいよ。特に女の子たちはみんな先生のレッスンをなんとかして受けようと大変だって。学科ちがうのにそんな先生と知り合えるなんて詩音ラッキーだね」


ついさっき名前を知ったばかりの相手なのに先生の人気を耳にしてなぜか私は胸をしめつけられる思いでした。

年配の先生が多い大学で桜井先生が人気なのは分かります。私だって院生と思ったくらいなのですから。

でも先生がたくさんの女の子に人気があるからといって、どうして胸がざわつくのか私にはまだ分かりませんでした。

冬の間は曇りと雪の日ばかりで気が滅入りがちなこの街も、今週は30℃近い日が続いて太陽の光がまぶしく感じられます。

今日レッスンが早目に終わったのでいつもは通らないキャンパスの裏道を歩いてみたら、ふと新緑が香ってきて先生とであった頃を連想させました。

オレンジ色に染まった練習室で初めて顔を合わせてときは学年も名前も聞けず、私は校内を歩きながら彼の奏でる音と印象的だった笑顔を捜していました。


しかし一度も彼を見かけることなく日々は過ぎ気が付けば夏服に衣替えする時期です。そんなとき再会は思いがけずやってきました。

6月に入ってすぐの少し蒸し暑い日。3限が休講になって時間が空いてしまった私は、学食で同じ授業を履修する美歌と一緒に遅い昼食をとっていました。

人付き合いが苦手であまり友人の多くない私と社交的で男女問わず人気がある美歌。大学に入ってから知り合った彼女とはまだ2カ月足らずの付き合いですが、不思議なくらい気が合って学校ではいつも一緒です。


お昼時を過ぎた学食に人の姿はまばらで、私たちは新しい課題曲の話などをしつつのんびりお茶を飲んでいました。

少し早いけど4限の教室に行こうかということになり食器を片付けようと立った瞬間、絶妙なタイミングで美歌の携帯電話が鳴り始めたのです。

「一緒に片付けとくね」と言った私に彼女は片手でゴメンという仕草をすると電話に出ました。一人でトレーを二つ持ち食器を片付けていた私に思いがけない声が聴こえてきて...


「こんにちは、今日は忘れ物してない?」

一瞬、自分が話しかけられたとは思わず反応しなかった私ですが肩をたたかれて誰だろうと振り返ります。

そこにはあの日から捜していた彼があの日と同じ柔らかな笑顔を浮かべて立っていました。

「あ、こんにちは。こないだは楽譜ありがとうございました」

突然の再会になんだか緊張してしまい声が上手くでてきません。私は急上昇した鼓動を悟られまいと冷静さを保とうとします。

「いや、お礼を言われるようなことじゃないよ。今日はもう授業ないの?」

彼は私の緊張など気が付かないのか相変わらず柔らかく笑ったまま、私のとなりで食器を片付け始めました。

「3限が休講だったんです。でもこれから4限があって」

まだ彼と再会したことにおどろきつつ今度はさっきよりうまく答えられた気がします。

「そっか、1年生は授業が多いから大変だね。じゃあ次の授業がんばって」

手早く食器を片付けた彼はそう言うと、軽く手をあげてそのまま出口へと去っていってしまいました。


結局、私はまた名前を知ることもできず足早に学食をでて行く後姿を見送ることしかできなずため息をついてしまいます。

「ねぇ、今の人ってピアノ科の桜井先生だよね~?」

ポンと肩をたたかれ振り向くと電話を終えた美歌がニコニコしながら学食の入り口を指差しています。

「えっ?先生なの、あの人?」

質問されたはずの私が聞き返したのがおかしかったのか、美歌は「話てたのに何で知らないの?」とおかしそうに笑いながらも教えてくれました。

「そうだよ、こないだサークルで一緒のピアノ科の子が騒いでたもん。ピアノ科に若くて優しい先生がいるんだって」


院生だと思っていたあの日の彼が実はピアノ科の講師だったなんて。こうして情報通な友人のおかげで私は先生の名前を知ることができたのです。

でも、この時は思いがけない再会に小さな胸のざわめきを覚えつつも学科がちがう先生とはこれ以上親しくなることなどないと思っていました。



練習室にいた思わぬ先客の口から自分の名前が出たことにおどろきつつ、私はお礼を言って楽譜を受け取りました。

楽譜を持つ彼の長い指に「こういう手があんな澄んだ音をだすんだ」と思わず見入ってしまいます。

しかし「弦楽器科なんだね。何年生?」という声で私は我に帰りました。彼は相変わらず柔らかく微笑んだままでこちらを見ています。

私は男の人の手に見とれていたことを悟られるのが恥ずかしくて、「あ、はい。1年です」とだけ答えると再度お礼を言って練習室を後にしました。


時間にして5分足らず、学年はおろか名前も知らない人なのに私の頭には彼の長い指と柔らかな笑顔と彼が弾いていた「幻想即興曲」が順番に浮かんでは消えてゆきます。彼が渡してくれた楽譜をつい手にとって「はい、どうぞ。水川詩音さん」と私の名前を口にした声をリフレインしていました。

そして「何で私の名前を知ってたんだろう...」と不思議に思った私ですが、何のことはありません。楽譜の右隅に薄くローマ字で名前が書かれていたのです。

2~3日前にも他の楽譜を教室へ忘れ紛失してしまった私は新しい楽譜に名前を書いていたのでした。普段から何でも楽譜に書き込むくせのある私にとって楽譜を失くすとかなりの痛手です。


今回は無事に手元へ楽譜が戻ってきて安堵したはずなのに、私の胸はざわめいていました。

「あの人何年生なんだろう?学生にしては年齢が上みたいだったから院生かも。もう一度あのピアノ聴きたいなぁ」

こんなことを考えながらキャンパスで私の耳と目は彼が奏でる清らかで澄んだ音と柔らかな笑顔を自然と探していました。



昨夜は久しぶりに早く帰ってこれたので簡単な夕飯を済ませてブログをアップしようと思ったらメンテナンス中でした。

メンテナンス時間は日本の真夜中から明け方にかけてなんですが、時差のあるヨーロッパだと午後7時頃に当たってしまうんです。

ブログをアップするのは断念したものの書こうと思っていた内容が頭に浮かんで消えず、先生とであったばかりのころに戻れたらなどと無理なことを考えては涙が止まらなくなってしまいました。


大学に入学してまもない5月、キャンパスには新緑の清々しい香りがあふれる頃。練習室に楽譜を忘れてきた私は、オレンジ色の光に包まれながら校舎へと引き返しました。

土曜日の夕方ということもあってか校内は不思議なほどの静けさに包まれていたことを覚えています。練習室は各個室に番号がふってあり、私は廊下の一番奥「20」番の練習室を好んで使っていました。

窓から差し込む夕陽が長い影を作る中、心持ち早足で練習棟の長い廊下を進みます。すると突然私の耳にショパンの「幻想即興曲」が聴こえてきました。


ショパンが遺した数あるピアノ曲の中でもよく知られている「幻想即興曲」はコンサートやCDがもちろん何十回、何百回となく耳にしています。しかし練習室の奥から響いてきた音は私が聴いたことのある「幻想即興曲」とは何かがちがっていました。

厳密に言えば特に何かが変わっているというわけではないのですが、「すごく清らかで澄んだ音」というのが正直な印象です。

音大には常日頃たくさんの音があふれていても思わず足を止めて聴き入ってしまうような音というのはごくわずか。本当に「清らか」という表現がぴったりでした。


そんなことを考えながらさらに廊下を進むと、だんだんピアノの音が大きくなります。そして「20」と表示がある練習室の前にたどりついた私の目には「幻想即興曲」を弾く人物の後ろ姿が飛び込んできました。

土曜日しかも陽が傾きかけた時間についさっきまで使ってた練習室を他の誰かが使っている偶然におどろきつつ、演奏が終わったら楽譜を取らせてもらおうと思い廊下の窓からオレンジに染まった校舎に目を細めます。


背中から聴こえていた「幻想即興曲」が終盤に差し掛かった頃ふと演奏が止み、ドアが開く音がして私は慌てて振り返りました。

そこには廊下に突然あらわれた私の方を少しびっくりしたような表情で見つめる男性の姿がありました。

私は「あ、あの中に楽譜を忘れてしまって。取ってもいいですか」と忘れかけていた当初の目的を思い出します。

彼は納得したようにうなずいて柔らかく微笑むと、
「もしかしてこれかな」と入り口横に置かれた小さなデスクを指差しました。

そして楽譜を手に取ると「はい、どうぞ。水川詩音さん」と初めて会ったはずの私の名前を口にしたのです。


練習室の細く開けられた窓からも西日が差し込んですべてをオレンジ色に染め、爽やかな風と向かいの講堂で練習している学内オケの演奏が微かに聞こえていました。

私が桜井先生に出会ったのは、大学生になってまもない5月半ばのことでした。

音大の弦楽器科でヴァイオリンを専攻していた私と同じ大学のピアノ科で専任講師をしていた先生。

新緑が香る大学のキャンパス、校舎を照らす夕陽、遠くから微かに聴こえてきた学内オーケストラの演奏など今も先生にであった瞬間が鮮やかに蘇ってきます。


第一志望の音大になんとか合格し大学生活にも東京での一人暮らしにもようやく慣れてきた頃。

当時の私はあまり広くはない一人暮らしのマンションよりも最新設備が整った大学の練習室で集中してヴァイオリンを弾く方が好きでした。

特に練習室が空いている土曜日は時間も人の目も気にせず集中できたため、遅めに起きて学食でお昼を取ってから夕方まで練習室にこもるのが定番だったのです。

その日もいつもと同じようにヴァイオリンと新しい課題の楽譜を持って練習室へ向かいました。適度に息抜きをしつつ夕方まで練習し、気が付くと窓から差し込む光はオレンジ色。

集中して練習できていたからか不思議な満足感に浸りながら私は練習室を後にしました。


夕食のメニューなんかを考えながら校門を後にしようとした私ですが、ふと何かが足りないと感じ足が止まりました。

ヴァイオリンは手に持ってるしカバンも肩に掛けてる...と考えてすぐに足りないものが分かりました。

本来ならかばんの中にあるはずの楽譜がないのです。ヴァイオリンの弓を変えようかななどと考えながら片付けをしていたため、ぼ~としていて練習室に忘れてきたのでしょう。

私は傾きかけた太陽の光に目を細めながら急いで練習室へと引き返しました。そしてこの忘れ物こそが私と先生を引き合わせてくれるきかっけだったのです。