冬の間は曇りと雪の日ばかりで気が滅入りがちなこの街も、今週は30℃近い日が続いて太陽の光がまぶしく感じられます。
今日レッスンが早目に終わったのでいつもは通らないキャンパスの裏道を歩いてみたら、ふと新緑が香ってきて先生とであった頃を連想させました。
オレンジ色に染まった練習室で初めて顔を合わせてときは学年も名前も聞けず、私は校内を歩きながら彼の奏でる音と印象的だった笑顔を捜していました。
しかし一度も彼を見かけることなく日々は過ぎ気が付けば夏服に衣替えする時期です。そんなとき再会は思いがけずやってきました。
6月に入ってすぐの少し蒸し暑い日。3限が休講になって時間が空いてしまった私は、学食で同じ授業を履修する美歌と一緒に遅い昼食をとっていました。
人付き合いが苦手であまり友人の多くない私と社交的で男女問わず人気がある美歌。大学に入ってから知り合った彼女とはまだ2カ月足らずの付き合いですが、不思議なくらい気が合って学校ではいつも一緒です。
お昼時を過ぎた学食に人の姿はまばらで、私たちは新しい課題曲の話などをしつつのんびりお茶を飲んでいました。
少し早いけど4限の教室に行こうかということになり食器を片付けようと立った瞬間、絶妙なタイミングで美歌の携帯電話が鳴り始めたのです。
「一緒に片付けとくね」と言った私に彼女は片手でゴメンという仕草をすると電話に出ました。一人でトレーを二つ持ち食器を片付けていた私に思いがけない声が聴こえてきて...
「こんにちは、今日は忘れ物してない?」
一瞬、自分が話しかけられたとは思わず反応しなかった私ですが肩をたたかれて誰だろうと振り返ります。
そこにはあの日から捜していた彼があの日と同じ柔らかな笑顔を浮かべて立っていました。
「あ、こんにちは。こないだは楽譜ありがとうございました」
突然の再会になんだか緊張してしまい声が上手くでてきません。私は急上昇した鼓動を悟られまいと冷静さを保とうとします。
「いや、お礼を言われるようなことじゃないよ。今日はもう授業ないの?」
彼は私の緊張など気が付かないのか相変わらず柔らかく笑ったまま、私のとなりで食器を片付け始めました。
「3限が休講だったんです。でもこれから4限があって」
まだ彼と再会したことにおどろきつつ今度はさっきよりうまく答えられた気がします。
「そっか、1年生は授業が多いから大変だね。じゃあ次の授業がんばって」
手早く食器を片付けた彼はそう言うと、軽く手をあげてそのまま出口へと去っていってしまいました。
結局、私はまた名前を知ることもできず足早に学食をでて行く後姿を見送ることしかできなずため息をついてしまいます。
「ねぇ、今の人ってピアノ科の桜井先生だよね~?」
ポンと肩をたたかれ振り向くと電話を終えた美歌がニコニコしながら学食の入り口を指差しています。
「えっ?先生なの、あの人?」
質問されたはずの私が聞き返したのがおかしかったのか、美歌は「話てたのに何で知らないの?」とおかしそうに笑いながらも教えてくれました。
「そうだよ、こないだサークルで一緒のピアノ科の子が騒いでたもん。ピアノ科に若くて優しい先生がいるんだって」
院生だと思っていたあの日の彼が実はピアノ科の講師だったなんて。こうして情報通な友人のおかげで私は先生の名前を知ることができたのです。
でも、この時は思いがけない再会に小さな胸のざわめきを覚えつつも学科がちがう先生とはこれ以上親しくなることなどないと思っていました。