11月になるとヨーロッパではクリスマスムードが高まり、私の住む街でもオーナメントやリースなどを見かける機会が多くなりました。

今月の半ばからは「クリスマス市」が始まり、街の広場では大きなクリスマスツリーもお目見え予定。

ご近所のアパートは大家さんがイベント好きな方らしく、早速きれいなイルミネーションを飾っています。


学園祭の当日は朝から青空が広がり、二日前まで降っていた雨も乾いたようでした。校門をくぐると色とりどりの風船やチラシを持った学生がすでに客引きをしていて、ほんの100m歩いたら両手がいっぱいです。

さて、親友の美歌から強制的に(?)学園祭で模擬店を手伝うよう頼まれた私は準備のため控え室へ向かいました。

教室の机を後ろに寄せて作った控え室では、テーブルやメニューのセッティングに早く来ていた美歌が待ってい

るはずです。


「おはようございます、水川です」

ノックをして中に入ると、ブルーのメイド服に身を包んだ女の子の後姿が飛び込んできました。

「あ、詩音。おはよう」

元気な声でふり返った美歌は髪を一つにまとめ白いリボンを結んでいます。

「美歌、どうし...」

何故そんな格好をしているのか聞こうとした私を遮り、早口で話し出しました。

「だって、私もウェイトレスやるに決まってるじゃん?詩音だけに頼むわけないよ~!」

先日の衣装合わせの際も美歌は見ているだけだったので、てっきりキッチンやお会計を担当するのだと思っていたのです。

「それより、詩音。早く着替えないと時間ないから。あ、こないだ渡したメニュー表は目を通してくれた?」

メニューを覚えていないとオーダーが取れないからと、2週間ほど前にもらっていました。

「うん、ドリンク種類が多いんだね」


コーヒーやココア、ジュースに加えフレーバーティーまであります。ケーキとクッキー、サンドイッチはキッチン担当のひとが手作りするということでした。

「最初はお客さん少ないと思うし大丈夫だよ。午後になっても増えなければ詩音には休んでもらえるし」

私は午前10時からお昼まで、午後は2時から4時までの予定です。こんな格好を見られたくないのでお客さんが少ない方がいいけれど、あまり来ないのも何だか複雑な気分。

そんなことを考えている間にオープンの時間は刻一刻と迫ってきているのでした。


用意を終えて美歌と一緒にカフェとなる教室へ行くと、教壇や机は全て運び出され真っ白なクロスのかかったテーブルが並んでいます。

私たちの他に蝶ネクタイをつけたウェイターが2人なので、1人が5つのテーブルを担当しなくてはなりません。

誰がどこを担当するか決めているところへ、海原先輩がヴァイオリンやフルートを持った人たちと入ってきまし

た。


「水川さん、朝早くから来てくれてありがとう。今日から3日間よろしくお願いします」

ドリンクを頼むと前方のステージでリクエスト曲を演奏するので、レッスン室で調整をしていたのでしょう。

「いえ、お役に立てるか分からないですけど...がんばります」

内心はどうかお客さんが来ませんようにと願いつつ答えます。

「うちはメンバーが少ないから本当に助かるよ。青木が水川さんたちを紹介してくれなかったら」

水川さんたち...?美歌は私のほかにも誰か紹介したのでしょうか。

「私以外にもサークルのメンバーじゃないけれど、お手伝いに来る方がいるんですか?」

海原先輩はうなずきます。

「うん、ウェイターをやってくれる男の子を紹介してくれたんだ。青木は1年生なのに助けてもらってばかりで」

もともと美歌は正義感が強く頼りになる性格ですが、相手が海原先輩だからこそ一生懸命なんじゃないかと思います。

「そうなんですか、夏休み明けから準備も忙しかったみたいですし大変だったんですね」

すると、海原先輩はウェイターの男の子たちと何か話をしている美歌の方へ視線を向けました。

「青木の明るさに励まされたら本番までやってこれたのかな...あ、オープン前に実行委員の本部行かないといけないんだ。とにかく、よろしくお願いします」

時計を確かめると、慌しく教室を出て行ってしまいました。そんな後ろ姿を眺めながら、私は美歌の恋が叶いそうな予感に思わず笑みが零れていたようです。







美歌の恋に協力するため(?)、半ば無理矢理参加することとなった学園祭。

キャンパスは日に日に慌しい雰囲気に包まれ、正門や中庭を色とりどりの看板が飾っています。

もともと正式なサークルのメンバーでない私は当日の手伝いをお願いされていましたが、本番まで2週間となった昼休み美加と一緒に部室を訪れました。

使用するコスチュームが届いたから一度試着してほしいということです。部室はダンボールやガムテープが散らばっていて、足の踏み場もありません。

メイドさんといえば映画やドラマに出てくるような、黒いワンピースに真っ白なエプロンの印象が強いです。

しかし奥から衣装を手に近付いてくる美歌を見て正直、泣きたくなってしまいました。

「はい、詩音。これ着てみて?サイズ少し大きいかな...私は外にいるから準備整ったら呼んでね」

何事もないかのように手渡され呆然とする私を置き去りにして、さっさと出て行っていこうとします。

「ちょっと、美歌!これ何でピンク色なの?普通メイドさんていえば黒じゃない」

先日の一件で言い争っても勝てないことは分かっていますが、抗議せずにはいられません。

「最近はピンクとかブルーとはカワイイメイド服が増えてるんだよ。ほら、早くしないと昼休み終わっちゃうよ」

多分、いえ絶対に私がこれ以上何か言っても無駄です。ため息をつきながらコスチュームに袖を通しました。

サイズはぴったりなのですが、袖と胸元についているリボンが気になります。

「詩音、よく似合ってるよ~!後このレースのカチューシャを付けてね」

部室に鏡がないため自分では見られないのですが、できることなら一生見たくないと思ってしまいました。

その日の夜、夕食の片付けをしながら桜井先生にどう話そうか考えていたらタイミング良く電話が鳴っています。

あわてて手を拭きながら液晶画面を確認すると先生の名前が。テレパシーが通じたようでびっくりです。

「もしもし、響一さん?」

ようやく私も名前を呼ぶことに慣れた気がします。

「もしもし、詩音。ヴァイオリンの練習してた?」

10月に入って委員会や会議が続いた先生は忙しそうでしたが、そろそろ落ち着いたでしょうか。

「ううん、荒いものしてたの。響一さんは帰って来たばかり?」

先生から聞いて初めて知ったのですが、長い会議になると4時間以上かかることも珍しくないそうです。

「今日は委員会に提出する書類が溜まってて、ひたすら机に向かってたよ。学園祭が始まってくれると授業がないから少し休めるんだけどな」

私よりも早く先生から学園祭の話題がでました。

「疲れてるみたいだけど大丈夫?あまり無理しないでね。もう、ご飯は食べた?」

こないだ忙しいと昼食が取れないと聞いたので心配になります。

「大丈夫だよ、夕食も済ませてきたしね。詩音こそ学園祭の準備が忙しいんじゃないのか?」

少し前に美歌のサークルが主催する模擬店を手伝うとは話したのですが、そのときは時間がなく詳しい話ができませんでした。


「手伝うことになったのは当日だけなの。カフェをやるからウェイトレスを頼まれててね」

昼休みに試着したコスチュームが頭に浮かんできます。

「そうか、人数の少ない団体は手が足りなくて一日中店番したなんていう話を聞くよ。ほどほどにお客さんが来るといいね。毎年ジャズ喫茶とか色々あるけど、普通のカフェなの?」

いいえ、全く普通ではありません。しかしこのまま黙っているわけにもいかず、意を決して口を開きました。

「.......あのね、カフェはカフェなんだけどメイド&執事カフェなんだって。一応、音大だから生演奏なんかもやるらしいんだけど」

どうやら1年生は全員ウェイトレスかウェイター、上級生が生演奏を担当するらしいのです。

「メイド&執事カフェ...?」

電話の向こうで先生が沈黙しています。

「うん、私ウェイトレスはいやだって断ったんだけど。美歌にどうしても人手が足りないから助けてほしいって...」

経緯を手短に話す間も先生は何も言いません。どれくらい時間が経ったのでしょうか、唐突に先生が話し始めました。

「.....きっとお客さんがたくさん来るだろうな。行列ができるかもしれないよ」

そんなに来るとは思えません。できれば人が来なくてひまだから手伝いが要らなくなったと言われたいです。

「どうだろう?他にも色々な模擬店あるし、私はあんまり忙しくない方がいいなぁ」

しかし先生は断言します。

「絶対に大繁盛するよ。それにしても実行委員会がよく許可したな。大変だろうけど、友達のためにがんばって」


最後に先生は学園祭中も研究室で仕事をする予定だと聞いて電話を切りました。

授業がないこの期間を利用してデスクワークを片付ける先生は多いそうです。

窓を開けると頬を冷たい風が掠めます。澄んだ空に輝く星を見つつ、こうなったら美歌には海原先輩との恋を成就してもらわなければと決意する私でした。






夏休みが終わり秋の気配が色濃くなる頃、キャンパスも普段の喧騒を取り戻していました。

学内のいたるところで11月に行われる学園祭の準備が進められているようで、授業中もそわそわと落ち着かない雰囲気が漂っているのが分かります。

部活やサークルに所属していない私とは対照的に、美歌は連日サークルの集まりで忙しそうでした。

授業が終わると文化祭の準備のためかすぐに教室を飛び出して行ってしまい、昼休みも一緒に過ごせないことが多く私は自然と図書館や練習室へ足を向ける回数が多くなります。

そんな日が2週間近く続いたとき美歌からメールをもらいました。


『詩音、今日のお昼休み時間あるかな~?ちょっと聞いてほしい話があるんだ。

サークル関係なんだけど、ちょっと困ってて...詳しくは後で話すからお願い!!』

特に何か用事があるというわけではないので大丈夫です。しかし、サークル関係で私が役に立つのか少し不思議に思ったものの返信しました。

『いいよ、お昼休みね。私が手助けになるか分からないけど、美歌の頼みなら力になりたいし。

2限がいつもオーバーして終わるから少し遅くなるかもしれないから、先に学食で待ってて?』

2限の教室を出て時計を確認すると予想通り終了時間を10分も過ぎ、構内は学生でにぎわっています。

急いで学食へ向かったのですが、すでに大混雑。午前は授業がない美歌が先に席を取っておいてくれるので、姿を捜しながら奥の方へ向かいました。


すると右手から「詩音、こっちこっち!」と呼ぶ声が聞こえ、狭いテーブルの間をすり抜けるようにして進みます。

「美歌、ごめんね。待たせちゃって」

壁際の席で手を振っている美歌が目に入り呼びかけた瞬間、隣の席に座っている男性が私の方へ会釈しました。

他に誰か来るとは知らなかったので怪訝に思いつつ、空いている席に座ります。美歌とその男性はまだ注文していないのか、何も置かれていません。

「先に食べててもらえば良かったね。あの...」

そこまで言ったとき男性が立ち上がりました。

「食券を買っておいたんです。オムライスなんですけど大丈夫ですか?」

オムライスは学食で一番人気にメニューで一日50食限定です。以前から食べてみたかったのですが、昼休みが始まる前には売切れてしまうためお目にかかれずにいました。

「あ、はい。すいません...」

注文口に向かう男性に美歌が声をかけています。

「海原先輩、3個も一人で持つの大変ですから私も一緒に行きますよ」

しかし大丈夫だと言われ、すぐに席へ戻ってきました。私は今さっき名前を知ったばかりの人が誰なのか聞こうと早速口を開きます。


「ちょっと、美歌。他にも人がいるなんて知らなかったよ。先輩って呼んでたけど、同じサークルの人なの?」

矢継ぎ早に話す私に向かって美歌は「ごめん」と手を合わせる仕草をしました。

「うん、サークルの部長でピアノ科3年生の海原先輩。ね、詩音。私、先輩のこと好きなの。協力して!!」

もちろん、美歌の恋に協力したいところですが初めて会ったばかりの人です。第一、まだ何に困っているのかも分かりません。

「美歌に協力するけど、どうしたの突然?サークル関係で聞いてほしい話っていうのは?」

私が本来の要件を確認しようとした瞬間、美歌がなぜか気まずそうな表情に変わります。真意が分からずもう一度聞こうとしたのですが、両手にトレーを抱えた海原先輩が戻ってきてしまいました。

「詩音、お願い。詳しい話は後でするから、ここは私のためにね?」

素早く私に耳打ちをすると立ち上がり先輩が持っているトレーを一つ受け取っています。私もお礼を言ってオムライスのお皿を前にしたのですが結局、美歌の言葉が気になり味わう余裕がありませんでした。


ある程度食べ終えたころ、海原先輩が口を開きました。

「水川さん、時間作ってくれてありがとう。青木に聞いて早く会ったほうがいいと思って。もう大体の話は青木がしてるみたいだけど、どうかな?」

一体全体、私には訳が分かりません。あわてて美歌の方へ視線をむけると、首を縦に振るジェスチャーをしています。

「.....あ、はい。そうですね、大まかにですけど」

とりあえず返事をしたものの、海原先輩は完全に私が把握している前提で話を進めていきます。

「まだ決まっていない部分なんかもあるし、水川さんには当日だけ参加してもらっても構わないから」

ますます混乱してきました。どうやら学園祭に関わる内容なのでしょうが、いつの間にか私も参加する予定になっています。

「え?ちょっと、よく...」

しかし私の疑問の声は美歌にさえぎられてしまいました。

「先輩、詩音は当日の参加は大丈夫だって言ってたんで後はまた決まってからでも」

こちらへ小さく手を合わせながら早口で話します。すると海原先輩もうなずく仕草を見せました。

「そうだね、じゃあ水川さんには手伝ってもらえるということで。よろしくお願いします」

最後まで肝心な部分を聞くことができず、話はまとまに入っています。美歌はといえば指で「ok」のサインを出していました。

そして畳み掛けるように続けます。

「詩音そろそろ授業始まるし行こうか。返事はもちろんokだよね?」

ここで私が「いいえ」と言いだす雰囲気ではなく、半ばあきらめに似た気分でした。

「う、うん。それじゃあ、また何か決まったら教えてください」

3限がないという海原先輩にオムライスをご馳走になったお礼をして、美歌の腕をつかんで学食を後にします。


「ちょっと、美歌!学園祭を手伝うとか私ぜんぜん聞いてないよ。もう、どういうつもり?」

いつもより心なしか声が大きくなります。しかし美歌は相変わらずニコニコしたまま話し始めました。

「実はね、うちのサークルで学園祭に模擬店を出すことになったんだ。けれど、ウェイトレスが足りなくて困ちゃって。ほら、サークル立ち上げて2年目だから先輩が少ないし」

私は他に参加するわけではないのでウェイトレスくらい構いませんが、どうして最初から話してくれなかったのか引っかかります。

「それは大丈夫だけど、何でいきなり?わざわざ部長さんまで来るなんて、ただのウェイトレスなんでしょう?」

すると美歌はさきほど見せた気まずそうな表情になり、黙ってしまいました。いよいよ気になります。

「美歌?」

少しだけ迷う素振りをしましたが、またいつもの笑顔に戻った美歌は意を決したのか一息に言いました。

「うん、ウェイトレスはウイートレスだよ。コスチュームはメイドだけどね」

コスチュームがメイド.....?そうです、何と学園祭でメイドカフェをやることにしたらしいのです。

「メイドって、私いやだよ!?第一そんなの学園祭実行委員会が許可しないんじゃない?」

しかし私の抵抗はあっさり打ち砕かれてしまいました。

「実行委員会の許可は下りてるよ~!ほらジャズ喫茶とかクラシック喫茶は毎年あるけど、メイド&執事カフェは初めてだって。あ、もちろん音大なんだからお客様のリクエストに答えて演奏もするし」

実行委員会は何を考えているのかと思いつつ、さらに抵抗を続けます。

「やだ、私は絶対に行かないよ。もう、最初から変だと思ってたんだ。申し訳ないけど、海原先輩に伝えておいて」

これくらいで美歌がめげるはずもなく、私の肩をぽんぽん叩きながらニコニコしています。

「ね、私の恋に協力すると思って?もちろん売り上げが良かったらお礼もするし、準備なんかはしなくて大丈夫だから」

さらに絶句している私に畳みかけてきました。

「メイドカフェを言い出したのは海原先輩の親友なんだけど、準備は全然手伝ってくれなくて。キッチンやお会計、呼び込みなんかにも人員がいるから本当に人手が足りないんだよ。海原先輩があまりにも困ってたから、ウェイトレスを手伝ってくれる友達を紹介しますって言っちゃったんだもん。」

好きな人の力になりたい気持ちは分かりますが、いくらなんでも無茶苦茶です。

「美歌、キッチンや呼び込みなら手伝うよ?」

正直、料理の腕には自信ありませんがウェイトレスに比べれば手伝えます。

「キッチンは男子でもできるけど、ウェイトレスは女子がいないと。詩音、私の一生のお願いだから」

結局この後3限の授業を忘れて延々、美歌の説得は続き遂に私は了承させられたのでした。


本当に美歌には勝てません。普通なら怒るような話でも、なぜか美歌が相手だと最後には許してしまうのです。

こうして思いがけず参加することになった学園祭。私は桜井先生にどう話そうか迷いつつ、次の授業へ向かおうと歩きだしました。

先生は、私がメイドさんのコスチュームを着ると知ったら何て言うでしょうか...?

大学の後期が始まるまで2週間となった頃、私は美歌と待ち合わせをした駅ビルをぶらぶら歩いていました。

先に郵便局で用事を済ませようと早目の外出をしたけれど、予想に反して待ち時間がほとんどなかったのです。

時計を確認すると約束の時間12時までは、まだ30分以上ありました。平日の空いている店内をいくつか見た後、本屋さんに入り雑誌コーナーをチェックします。

そこで『絶対に彼が喜ぶ!だれでも作れる簡単スィーツ特集』という文字が目に飛び込んできました。


ふと、一緒に海へ行った時キャラメルフレーバーのアイスクリームを食べていた先生を思い出し雑誌を手にとります。

チョコレートプリンやシュークリームなどの写真とレシピが掲載され、『お料理が苦手なあなたでも必ず成功』と大きく書かれていました。

確かにレシピは細かい説明がついていて、これなら料理の腕に自信がない私も挑戦できそうな気がします。

レシピを見比べ先生はどんなお菓子が好きなんだろうと考えていたら、いきなり後ろから肩を叩かれびっくりしました。


あわてて雑誌を閉じてふり返ると、満面の笑顔を浮かべた美歌が立っていました。夏休みらしくいい色に焼けています。

「美歌、ひさしぶり。合宿はどうだった?」

雑誌を棚に戻しながら聞いた私の手元を見逃さなかった美歌は、すかさず同じものを手にとってパラパラ捲り始めました。

「私も少し早く着いちゃって本屋さんに入ったら、詩音が何か熱心に読んでるの見つけてさ~。どれどれ?」

そう言いながらも手は的確に私がさっきまで開いていたページで止まり、ニコニコしながら私に視線を投げかけます。

「『絶対に彼が喜ぶ!だれでも作れる簡単スィーツ特集』だって...詩音、もしかして夏休み中に桜井先生と進展!?もう、後でちゃんと聞かせてね」

さすが、美歌の勘はあなどれません。私が話す前から大体の察しはついているようでした。


美歌がサークルの先輩から聞いたというピザハウスは、かなりの混雑ですが丁度空いた席に座ることができました。

オーダーを終えると早速、美歌はこちらへ身を乗り出しています。もともと自分から話すつもりでいたのに、改めて言葉にしようとすると出てきません。

「あのね、美歌には今日ちゃんと言おうと思ってたの。夏休みにね桜井先生に.....」

今まで恋愛に関する話題とは無縁だったこともあって、どういう風に伝えたらよいのか分かりません。

「やっぱり桜井先生と何かあったんだ!?早く教えてくれないと、気になって美味しいって評判のピザも味わえない」

軽くにらむ仕草をしていますが、すぐに笑顔にもどっています。私が先生のことで悩んでいたときも、この笑顔で励ましてくれました。

「夏休みに桜井先生に自分の気持ち伝えたの。それで、色々あったけれど先生と付き合うことになって、こないだ...」

一緒に海へ行ったと続く言葉より、美歌の声が早く返ってきました。

「そっか、良かったね詩音。桜井先生と気持ちが通じたんだ。本当に良かったね」

言いながら私の手をぎゅっと握っています。

「7月に落ち込んでたとき美歌が励ましてくれたからだよ。いつも心配してくれてありがとうね。メールしようかなと思ったんだけど会って伝えたかったから」

優しく私の背中を押してくれた美歌の言葉があったから、私は先生に会いに行く勇気を持てたのです。

「大したことしてないもん。それより、詩音が話してくれて嬉しかったよ!」


この後も美歌は私たちの恋の一番の理解者であり、先生が空の上の住人となってからも私を支えてくれました。

今は東京とヨーロッパと離れていますが年に一度はこちらへ遊びに来てくれ、本当に私はすばらしい友達に恵まれたなと思います。

そうそう、私が先生と初めてのケンカをしたときに仲直りのきっかけをくれたのも美歌でした。これはもう少し季節が進んでからになりますが.....

こんばんは、今朝の最低気温は2℃と本格的な冬の訪れを感じる寒さです。厚手のセーターにコート、手袋も欠かせなくなりました。

吹きつける風が冷たくて反射的に肩を竦め歩調も速くなってしまいます。けれど、寒い外から自分の部屋へ戻ってきてホッと一息つく瞬間は冬も嫌いじゃないなと思ったりします。

近所の八百屋さんがおまけをしてくれると言うので、多めに買った野菜をたっぷり入れたスープを作り身体の芯から温まったところです。

でも、やっぱり心のどこかが凍えている...あの人が隣にいてくれたとき感じていた温もりがなくなってしまったからでしょうか。


後期の授業が始まるまで2週間半、そろそろ夏休みも終わりが近付いてきました。私は相変わらず平日を練習室で過ごすことが多く、大学受験直前よりも練習しているんじゃないかと言われそうなくらいです。

大学に入ったばかりの頃、指導教授から「音楽の才能がない」と評価され涙を零したとき桜井先生が励ましてくれ救われた言葉。

「天才とか世紀の逸材と絶賛された人間がコンクールを一度失敗しただけで音楽をやめてしまうこともある。結局のところ、大切なのは続ける覚悟と音楽を愛する気持ちだよ。それに比べたら才能や運なんておまけみたいなもの」

ヴァイオリンに対する自信を失っていた私ですが、才能がないなら他の人より練習しようと思えるようになりました。

そして、ピアノとヴァイオリンで楽器はちがうけれど先生にもっと近付きたいと考えるようになったからです。


この日も夕方まで練習室を存分に独占し(夏休みだから人がいなかっただけなんですが)、一人暮らしの部屋へ戻ると急に睡魔が襲ってきました。

偶然、深夜に放送されていた映画に見入ってしまい寝不足だったため熟睡。携帯電話の着信音に起こされ時計に目をやると2時間近くが経っています。

自分では30分くらいのつもりだったのでおどろきつつ携帯電話を開くと、美歌からメールが届いたところでした。

「詩音、夏休み楽しんでる?一昨日サークルの合宿から帰ってきたんだ。東京はやっぱ暑いね。

軽井沢は涼しくてよかったよ~!!お土産渡したいし、来週でもお昼食べて買い物とか行かない?」

夏休みに入ってもサークルの集まりや合宿、バイトと忙しそうな美歌とはしばらく会っていません。

それに夏休み前、先生への気持ちを伝えられずにいた私の背中を優しく押してくれた美歌には先生とのことをきちんと話しておきたいと思っていました。


メールに返信しようと、もう一度液晶画面を確認したときです。着信音と共に大好きな人の名前が表示され、心臓がドキドキと鼓動を立てはじめました。

「もしもし、詩音です」

つい2日まえにも電話で話したはずなのに、ずいぶん長い間先生の声を聞いていなかった気がします。

「もしもし、詩音」

すでに海に行った日から何回となく呼ばれているのに、くすぐったい感じがしてまだ少し慣れません。

「先生、今日も暑かったね。練習室への行き帰りだけで日焼けしちゃったよ」

容赦なく照りつける太陽の下を毎日ヴァイオリンを持って歩いたおかげで、日焼けと汗疹の洗礼をあびてしまいました。

「詩音はもともと色が白い方だから日焼けすると赤くなったりするんじゃないか。冷やして痛みがあるようだったら薬をつけるんだよ」

素直に返事をして、ふとさっき美歌から送られてきたメールのことを思い出しました。

「あのね、先生。さっき同じ学科の友達からメールをもらって、来週ひさしぶりに会うことになったんだ」

そこまで言うと、先生の笑い声が返ってきました。最初どうして笑ってるのか分からなかったのですが、すぐに訂正します。

「先生じゃなくて、響一さん。また先生って呼んじゃった」

呼ばれるのもですが呼ぶのもまだ慣れません。二人っきりのときは名前でと決めたけれど、反射的に「先生」と口が動いてしまうのです。

「いいよ、今は先生でも。もう少し時間が経てば自然に名前で呼び合えるようになるなるから」


「あのね、恭一さん。友達に会ったとき先生とのこと友達に話したいなと思って。できるだけ人には知られないほうがいいって分かってるけれど.....」

やはり同じ大学の講師と学生という関係を考えれば仕方ありません。しかし、一瞬の間もなく言葉が返ってきました。

「僕は詩音が話したいなら話したほうがいいと思ってるよ。詩音には僕とのことで家族や友達に嘘をつかせたくないし、無理して隠し通すのは二人にとってもよくないんじゃないかな」

先生はさらに続けます。

「もちろん誰にでも正直に話すというわけにはいかないけれど、無理ばかりしていたら辛くなるときがくる。詩音とはずっと一緒にいたいんだ」


「ずっと一緒にいたい」と言った先生の声が何度も頭に響いていました。そして「ずっと一緒にいられる」と信じていたのです。

けれど、永遠の別れは突然やってきて私はこの世に「ずっと」がないことを知りました。そう、この世に「ずっと」なんてない.....

それでも、これから先も先生を愛する気持ちは「ずっと」変わらないと思っています。