私が桜井先生に出会ったのは、大学生になってまもない5月半ばのことでした。

音大の弦楽器科でヴァイオリンを専攻していた私と同じ大学のピアノ科で専任講師をしていた先生。

新緑が香る大学のキャンパス、校舎を照らす夕陽、遠くから微かに聴こえてきた学内オーケストラの演奏など今も先生にであった瞬間が鮮やかに蘇ってきます。


第一志望の音大になんとか合格し大学生活にも東京での一人暮らしにもようやく慣れてきた頃。

当時の私はあまり広くはない一人暮らしのマンションよりも最新設備が整った大学の練習室で集中してヴァイオリンを弾く方が好きでした。

特に練習室が空いている土曜日は時間も人の目も気にせず集中できたため、遅めに起きて学食でお昼を取ってから夕方まで練習室にこもるのが定番だったのです。

その日もいつもと同じようにヴァイオリンと新しい課題の楽譜を持って練習室へ向かいました。適度に息抜きをしつつ夕方まで練習し、気が付くと窓から差し込む光はオレンジ色。

集中して練習できていたからか不思議な満足感に浸りながら私は練習室を後にしました。


夕食のメニューなんかを考えながら校門を後にしようとした私ですが、ふと何かが足りないと感じ足が止まりました。

ヴァイオリンは手に持ってるしカバンも肩に掛けてる...と考えてすぐに足りないものが分かりました。

本来ならかばんの中にあるはずの楽譜がないのです。ヴァイオリンの弓を変えようかななどと考えながら片付けをしていたため、ぼ~としていて練習室に忘れてきたのでしょう。

私は傾きかけた太陽の光に目を細めながら急いで練習室へと引き返しました。そしてこの忘れ物こそが私と先生を引き合わせてくれるきかっけだったのです。