指導教授に「音楽の才能がない」と宣告されヴァイオリンを続けることに自信を失った私は、桜井先生の前で泣きながら音楽に対する迷いを打ち明けていました。
担当でもないうえ学科もちがう先生にとってこんな相談は迷惑だと分かっているのですが、自分の気持ちをおさえることができません。
「すいません、先生にこんな話を聞かせてしまって。こないだから迷惑かけてばかりですね、私...」
先生に謝ってからカバンの中にあるはずのハンドタオルを捜していました。しかし普段から中身を整理していない私のカバンは色々なものが一緒くたに詰め込まれ、なかなか見つけることができません。
自分の大雑把な性格をうらめしく思いつつあきらめて手の甲で目元をぬぐった時すっとハンカチが差し出されました。
「どうぞ。一応、洗濯はしてあるから使って」
一体どこまで迷惑をかけたらすむのでしょう。
「いえ、捜せば見つかりますから大丈夫です」
しかし先生は首を横にふると再度カバンの中を捜そうとした私の手にハンカチを握らせました。先生の長い指が触れた瞬間これまで経験したことがないほどに心臓の鼓動は高鳴ります。
「ありがとうございます。月曜日に洗濯して返しますね」
先生の言葉とは裏腹にハンカチはきちんとアイロンがかけられていて洗剤の清潔な香りがしました。
「才能なんて音楽をやっていくうえで大したことじゃないと僕は思うよ」
ピアノの上に置かれた楽譜を片付けながら先生が唐突に口を開いたのでびっくりします。
「もちろんプロの音楽家になるうえで才能や運が助けになることはあると思う。けど、高校の時も大学時代も恵まれた才能の持ち主と言われた人間が音楽をやめていくのを見てきたからね」
楽譜をまとめた先生はまたピアノの前に座り直すと私の方へ向き直りました。
「天才とか世紀の逸材と絶賛された人間がコンクールを一度失敗しただけで音楽をやめてしまうこともある。結局のところ、大切なのは続ける覚悟と音楽を愛する気持ちだよ。それに比べたら才能や運なんておまけみたいなもの」
才能や運がおまけ...?先生の言葉がすぐには理解できず反射的に聞き返します。
「大切なのは続ける覚悟と音楽を愛する気持ち...?」
真剣な表情で話していた先生は大きくうなずくと軽く笑って続けました。
「それに才能がない方がいいこともある」
先生はこういいますが、とかく才能という言葉が使われがちな音楽の世界であるに越したことはないはずです。
「どうしてですか?だって...」
納得がいかず反論しようとした私の言葉は途中でさえぎられてしまいました。
「だって、才能がない方がうまくなりたいと思ってたくさん練習するだろう?」
そう言った先生の表情はいつも見せる柔らかな笑みとはちがって、いたずらっ子のような笑顔です。
気が付けば先生の笑顔につられるように私のどんよりと曇っていた心も晴れ間が見えたようでした。夏の空はきれいな藍色に染まり講堂は薄暗闇に包まれ始めていました。